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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第七十四話 出撃まで、残された八時間

第七十四話 出撃まで、残された八時間


夜明け前の船内は、いつも以上に静まり返っていた。


けれど、その静けさは穏やかなものではなかった。


出撃を控えた兵たちが、最後の点検や準備に追われている。足音が通路を行き交い、遠くから機材を確認する音が聞こえてくる。誰もが目の前の任務に集中しようとしていたが、その胸の奥には、言葉にできない緊張が張りつめていた。


さとるもまた、眠れない夜を過ごしていた。


目を閉じれば、薫の顔が浮かんだ。


あの高台で海を眺めた日のこと。

初めて言葉を交わしたときのこと。

戦争が終わったら一緒に暮らそうと、未来の話をしたこと。


そして、昨夜、薫に伝えた自分の覚悟。


命令に背いてでも、薫と生きる道を探したい。


そう告げたときの薫の涙が、今も目の奥に焼きついていた。


さとるは寝台から起き上がり、壁に手をついた。


出撃まで、もう時間がない。


正式な許可が下りたという知らせは、まだ届いていなかった。剛が上官に話をしてくれているはずだったが、その結果も分からない。


このまま時間だけが過ぎれば、自分は予定どおり出撃することになる。


そして、一度海へ出れば、帰ってこられる保証はない。


「……薫」


声に出して名前を呼ぶと、胸が苦しくなった。


会いたい。


もう一度、顔を見たい。


けれど、今は勝手に動くこともできなかった。


さとるは、深く息を吸い、身支度を整えた。


そのときだった。


通路の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。


扉の前で足音が止まる。


控えめに、二度。


さとるが扉を開けると、そこには剛が立っていた。


剛の顔には、いつものような余裕がなかった。周囲を警戒するように一度通路を見回してから、さとるの方へ顔を寄せた。


「さとる。少し、話がある」


「剛……どうした?」


「ここじゃ話せない。人のいないところへ行こう」


二人は、ほかの兵たちから離れた場所へ移動した。


剛はしばらく口を開かなかった。


何かを迷っているようだった。


やがて、さとるの目を見て、低い声で告げた。


「出撃まで、八時間だ」


その言葉に、さとるの身体が強張った。


「……八時間?」


「ああ。予定は変わっていない。準備も最終段階に入っている」


八時間。


それは、今までとは違う重さを持った数字だった。


明日でも、いつかでもない。


ほんの八時間後には、自分は出撃する場所へ向かうことになる。


薫と離れ、二度と会えなくなるかもしれない時間が、すぐ目の前まで迫っていた。


「それで……訓練用の回天は?」


さとるは、思わず尋ねた。


剛は唇を結んだ。


「正式な許可は、まだ下りていない」


さとるの胸が沈んだ。


やはり、間に合わなかったのか。


そう思いかけたとき、剛が続けた。


「だが、俺はお前との約束を忘れていない」


「剛……」


「上の人間に、もう一度確認した。訓練用の回天を出撃に使うことについては、認められたわけじゃない。だから、俺は許可が下りたなんて嘘は言わない」


剛は、苦しそうに目を伏せた。


「それでも、訓練用の回天が保管されている場所までは、確認できた」


さとるは息を止めた。


「場所が……分かったのか?」


「ああ」


「それで、俺たちは……」


「待て。まだ話がある」


剛は、さとるの腕をつかんだ。


「俺は、お前と薫がどうしても生きたいと思っていることを知っている。お前が一人で出撃して、帰ってこられないかもしれないことも分かっている。だから、俺も最後まで何かできないか考えた」


剛の声は震えていた。


「訓練用の回天がある場所まで、俺が案内する」


さとるは、目を見開いた。


「……剛、お前」


「ただし、よく聞け。正式な出撃許可が下りたわけじゃない。そこへ行ったからといって、出撃できる保証もない。訓練用の回天が実際の作戦に使えるのか、俺にも分からない」


剛は、一言一言を確かめるように話した。


「俺は、何もかも大丈夫だなんて言えない。それでも、お前が諦められないと言うなら、せめて自分の目で確かめる機会をつくりたいと思ったんだ」


さとるは、しばらく言葉を失っていた。


命令に背くことを、剛は簡単に認めたわけではない。


危険を承知しているからこそ、最後まで迷っていたのだろう。


それでも、剛はここへ来た。


自分たちが何も知らないまま、ただ出撃の時を迎えることがないように。


「剛……本当にいいのか?」


さとるが尋ねると、剛は苦い笑みを浮かべた。


「いいわけがないだろ。俺だって怖い。お前たちがどうなるのか分からないんだからな」


「だったら、どうして……」


「お前が、薫と生きたいと言ったからだ」


剛は、さとるの肩に手を置いた。


「俺は、お前の選択が正しいと保証することはできない。無理に進めば、二人とも命を落とすかもしれない。だからこそ、俺はお前に、何が危険なのかを分かったうえで考えてほしいんだ」


さとるは、唇を噛んだ。


剛は味方になってくれた。


けれど、それは命令違反を何でも認めるという意味ではなかった。


自分たちが生きる道を探すために、最後まで向き合ってくれているのだ。


「……ありがとう、剛」


「礼を言うのは、まだ早い」


剛は周囲を気にしながら、さらに声を落とした。


「薫にも伝えろ。準備をしておくように。ただし、慌てて動くな。今はまだ、いつ、どうなるか決まっていない。俺が合図をするまでは、勝手に保管場所へ向かうな」


「分かった」


「それから、さとる」


「何だ?」


「これは、お前と薫が本当に望んでいることなのか、最後まで確かめてくれ。怖いから一緒に行くんじゃない。死ぬ覚悟を見せるためでもない。生きたいから選ぶんだろ?」


さとるは、迷わずうなずいた。


「そうだ。俺は薫と生きたい」


「なら、その気持ちを忘れるな。何があっても、死ぬことだけを目的にするなよ」


その言葉に、さとるの目が熱くなった。


「ああ。俺は生きるために、薫と一緒に行く道を探す」


剛は、小さくうなずいた。


「よし。俺からの伝言は、それだけだ。準備をしておけ」


そう言うと、剛は何事もなかったかのように通路へ戻っていった。


さとるは、その背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


出撃まで、八時間。


訓練用の回天がある場所は分かった。


けれど、許可は下りていない。


先に進めば、命令違反になるかもしれない。そもそも、訓練用の回天が出撃に使える保証もない。


何もかもが、まだ不確かなままだった。


それでも、さとるの胸には、これまでなかったものが生まれていた。


ほんのわずかな可能性。


その可能性にすがりたいのではない。


自分たちが生きるために、何ができるのかを最後まで確かめたいのだ。


さとるは、すぐに薫のもとへ向かった


薫は、船内の人目につかない場所で、料理人の手伝いをしていた。


いつものように言葉を発することなく、指示にうなずき、道具を片づけている。


男の姿に見えるように短く切った髪も、地味な服も、今ではすっかり身体になじんでいた。


それでも、心の中は落ち着かなかった。


さとるが出撃するまで、残された時間は少ない。


昨夜、彼が命令に背いてでも一緒に行く覚悟を決めたと話してくれたことが、何度も頭をよぎっていた。


薫は、さとると生きたい。


けれど、彼が自分を守ろうとするあまり、取り返しのつかない選択をしてしまうことも怖かった。


そんな思いを抱えながら作業を続けていると、料理人がそっと近づいてきた。


「薫さん。さとる君が、あなたに話したいことがあるそうです」


薫は顔を上げた。


料理人は周囲を見てから、小さくうなずいた。


「剛さんからも、伝言があるようです。今は落ち着いて、話を聞いてきてください」


薫は、手にしていた布巾を置いた。


さとるの身に何かあったのだろうか。


胸が不安でいっぱいになりながらも、薫は人目を避けて移動した。


やがて、さとるが待っている場所へたどり着いた。


彼は薫の姿を見ると、すぐに近づいた。


「薫」


「……どうしたの?」


薫は小さな声で尋ねた。


さとるは、一度だけ深く息を吸った。


「剛から伝言があった」


その一言に、薫の表情が変わった。


「訓練用の回天について、何か分かったの?」


「ああ。保管されている場所が分かったそうだ」


薫は息をのんだ。


「本当に……?」


「ただし、正式な許可はまだ下りていない。使えると決まったわけでもないんだ」


さとるは、期待だけを持たせないよう、慎重に言葉を選んだ。


「剛は、その場所まで案内すると言ってくれた。俺たちが最後まで可能性を確かめられるように、力を貸してくれるんだ」


薫の目に、涙が浮かんだ。


剛もまた、自分たちのために動いてくれていた。


二人の気持ちを知りながら、危険を承知で力になろうとしてくれている。


「剛さん……」


「俺も、何て礼を言えばいいか分からない」


さとるは、薫の手をそっと握った。


「剛からは、準備をしておくようにと言われた。けれど、合図があるまでは勝手に動くなって」


薫は、ゆっくりとうなずいた。


「分かった。剛さんの合図を待つ」


「薫……怖くないか?」


突然の問いに、薫は少しだけ目を伏せた。


怖くないはずがなかった。


この先、何が待っているのか分からない。訓練用の回天が使えるかどうかも、二人で出撃できるかどうかも、何一つ確かなことはない。


もし一緒に行けたとしても、無事に帰ってこられる保証はない。


「……怖いよ」


薫は正直に答えた。


「すごく怖い。何が起きるのか分からないし、あなたと一緒に行けたとしても、どうなるのか分からない」


さとるは、薫の手を握る力を少しだけ強めた。


「それでも、行きたいのか?」


薫は、彼の目を見つめた。


「私は、あなたと生きたい。あなたがいなくなるのを、ただ待っているだけにはなりたくない」


そして、静かに続けた。


「でも、あなたが私を連れていくことだけを考えて、無理をするのは嫌。私たちが本当に生きるために何ができるのか、一緒に考えたい」


さとるは、深くうなずいた。


「分かった。俺も、そう思ってる」


二人は、手をつないだまま、しばらく見つめ合った。


言葉にしなくても、互いが何を恐れ、何を望んでいるのかが伝わってくるようだった。


薫は、そっとさとるの手を握り返した。


「準備するね。でも、さとる。何があっても、私たちだけで勝手に決めないで。剛さんの話も聞いて、危険なことをきちんと考えてからにしよう」


「ああ。約束する」


「あなたと生きたいから、私はここにいるの」


その言葉を聞いた瞬間、さとるの胸に熱いものが込み上げた。


「俺もだ。薫と生きたいから、ここまで来たんだ」


二人は、もう一度、そっと抱き合った。


長い時間ではなかった。


いつ誰が通りかかるか分からない船内で、二人が安心して寄り添える時間は、あまりにも短かった。


それでも、さとるは薫のぬくもりを確かめるように、その背中に腕を回した。


薫もまた、彼の胸に顔を寄せた。


「……さとる」


「ん?」


「生きて、帰ろうね」


さとるは、すぐには答えられなかった。


簡単に約束できることではなかったからだ。


それでも、薫の願いを否定することだけはしたくなかった。


「……ああ。帰るために、最後まで考える」


それが、今のさとるにできる精いっぱいの答えだった。


二人は別れ、それぞれの準備に戻った。


薫は、身につけている服や必要なものを静かに確かめた。余計なものは持たない。目立つ行動もしない。剛から合図があるまでは、決して一人で動かない。


さとるもまた、必要なものを整理しながら、自分の心を落ち着かせようとしていた。


出撃まで、八時間。


時間は刻一刻と過ぎていく。


訓練用の回天が置かれている場所は分かった。剛は案内してくれると言った。


しかし、そこへ行くことが、二人の未来につながるとは限らない。


許可がない以上、命令に背く危険も消えてはいなかった。


さとるは、そのことを忘れないようにした。


薫と生きたいという願いがあるからこそ、何も考えずに突き進んではいけない。


剛が危険を承知で力を貸してくれたからこそ、その思いにも応えなければならない。


さとるは、手を止め、目を閉じた。


頭に浮かんだのは、あの高台から見た海だった。


戦争が終わったら、また二人であそこへ行こう。


今度は何も隠さず、誰の目も気にせず、ただ隣に座って海を眺めよう。


そんな未来を、まだ諦めたくなかった。


やがて、船内に作業を促す声が響いた。


兵たちが行き交い、出撃に向けた準備が進んでいく。


誰も、さとると薫が胸の内に抱えている決意を知らない。


二人が訓練用の回天に望みを託していることも。

剛がその保管場所まで案内するつもりでいることも。

そして、その選択がどんな結果につながるのか、三人にもまだ分からないことも。


すべては、これからだった。


さとるは、胸の奥で静かに誓った。


命令に背くことを、勇気の証しにしたいわけではない。


ただ、薫と生きるための道を、最後まで確かめたい。


そして、もし本当に進むことを選ぶなら、その先にある危険からも目をそらさない。


船の外では、夜の海が少しずつ明るくなり始めていた。


出撃まで、残された時間は八時間。


二人の未来を決める時間が、静かに動き出していた。


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