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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第七十三話 命令を捨てても、君と行く

第七十三話 命令を捨てても、君と行く


夜の海は、何も語らなかった。


船体にぶつかる波の音だけが、暗い海に響いている。甲板を吹き抜ける風は冷たく、空には雲が広がり、月の光さえほとんど届いていなかった。


さとるは、誰もいない通路の隅に立ち、海の方角を見つめていた。


出撃命令を受けた者は、帰ってこられないかもしれない。


いや、帰ることを前提にした命令ではないのだ。


自分が乗ることになる回天は、敵艦に向かうための兵器だった。一度出撃すれば、母艦へ戻れる保証はない。海の中で何が起きるのか、最後まで自分の目で確かめられるかどうかさえ分からない。


それでも、命令が下れば行かなければならない。


さとるは、これまで何度も自分にそう言い聞かせてきた。


訓練の最中、息が苦しくなったときも。

仲間の名前が呼ばれ、二度と顔を見られなくなったときも。

自分の出撃が決まったときも。


怖くないふりをして、平気な顔をして、命令に従うことだけを考えようとしてきた。


けれど、今は違った。


さとるの胸には、どうしても捨てられない願いがあった。


薫と生きたい。


もう一度、あの高台から海を眺めたい。

戦争が終わったら何をしようかと、くだらない話をして笑いたい。

朝になれば目を覚まし、隣にいる薫に「おはよう」と言いたい。


そんな当たり前の未来が、今の自分には手の届かない夢になっていた。


「……剛」


さとるは、通路の向こうから歩いてきた剛を呼び止めた。


剛は、さとるの顔を見るなり、何かを察したように足を止めた。


「どうした、さとる。こんなところで」


「話がある」


「……回天のことか」


さとるはうなずいた。


二人は人目につかない場所へ移動した。船内からは、作業をする兵たちの声がかすかに聞こえていた。誰もがそれぞれの任務を果たしている。明日のことを考え、装備を確認し、出撃に向けて準備を進めている。


その音が、さとるには遠い世界の出来事のように感じられた。


「訓練用の回天について、まだ答えは出ていないんだよな」


さとるが尋ねると、剛は苦しそうに眉を寄せた。


「ああ。正式な許可は、まだ下りていない。上の人間も、簡単に認められる話じゃないと言っている」


「そうか……」


「さとる、もう少し待とう。俺からも、もう一度話してみる。何か別の方法がないか、確認するから」


剛は、さとるを落ち着かせようとしていた。


しかし、さとるは首を横に振った。


「剛。俺は、もう覚悟を決めた」


「……何の覚悟だ」


「出撃すれば、俺は帰ってこられないかもしれない」


剛の表情が変わった。


さとるは目をそらさなかった。


「いや、帰ってこられないんだと思う。少なくとも、帰ることを当たり前だと思って出撃するわけにはいかない。俺たちが乗る回天は、そういう兵器なんだ」


「そんなことは分かっている」


「分かっているから、決めたんだ」


さとるの声は、震えていた。


それでも、言葉を止めなかった。


「俺は薫を置いて、一人で出撃することが怖い。薫を残して死ぬかもしれないことも怖い。でも、それ以上に、薫がいないまま、何もできずに終わることが怖いんだ」


「さとる……」


「俺は、生きたいんだよ。薫と一緒に生きたい。だけど、今のままなら、俺は一人で出撃して、二度と戻れないかもしれない。そうなったら、薫と約束した未来は全部なくなる」


さとるは、拳を握りしめた。


爪が手のひらに食い込んでも、その痛みはほとんど感じなかった。


「だから、訓練用の回天に一緒に乗れる可能性があるなら、俺は諦めたくない。許可が下りなかったとしても……薫と一緒に行く」


剛は、すぐには答えられなかった。


「命令に背いてでも、か」


「ああ」


「上官の許可がないまま、勝手に乗り込むつもりなのか」


「……そうだ」


剛は、さとるの肩をつかんだ。


「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!」


抑えた声だったが、その奥には怒りと恐怖があった。


「命令違反だぞ。見つかれば、ただでは済まない。それに、訓練用の回天が出撃に使えるかどうかだって、正式に確認されていないんだ。無理に乗り込めば、お前だけじゃなく、薫の命まで危険にさらすことになる!」


「分かってる」


「分かってない! 本当に分かっていたら、そんな簡単に言えるはずがないだろ!」


「簡単に言ってるんじゃない!」


さとるの声が、思わず大きくなった。


剛は口を閉じた。


さとる自身も、声を荒らげたことに気づき、深く息を吸った。


「……悪い」


しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


さとるは、もう一度、ゆっくりと言葉を続けた。


「簡単なわけがないだろ。怖いんだ。命令に背くことも、薫を危険な場所に連れていくことも、全部怖い。俺だって、本当はこんなことを考えたくない」


目の奥が熱くなった。


「でも、俺は薫に、生きていてほしいんだ。俺も生きたい。出撃して帰ってこられないかもしれないのに、何もできないまま薫と離れるなんて……そんなの、俺には耐えられない」


「だから、薫を連れていくのか」


「一人で死ぬ覚悟を決めるんじゃない。薫と生きる可能性を、最後まで探す覚悟を決めたんだ」


さとるは、剛の目を見た。


「許可が下りるなら、正式に認められた方法で行きたい。俺だって、誰かに迷惑をかけたいわけじゃない。だけど、もし最後まで許可が下りなかったら……俺は、命令に背いてでも薫と行くつもりだ」


剛は、さとるの肩から手を離した。


友人の言葉を、すぐに否定することはできなかった。


さとるが、どれほど死を恐れているかを知っていたからだ。


訓練のあと、誰にも気づかれないように震える手を握りしめていたことも。

仲間の出撃を見送った夜、眠れずに海を見つめていたことも。

薫と過ごした時間だけが、さとるに明日を望ませていたことも。


剛は知っていた。


それでも、友人の決意をそのまま認めることはできなかった。


「俺は……お前の気持ちは分かる。でも、その計画に賛成だとは言えない」


「ああ。分かってる」


「無理に乗り込めば、本当に取り返しがつかなくなる。薫を守るつもりで連れていっても、守れる保証なんかないんだ」


「それも分かってる」


「なら、頼むから、答えが出るまで待ってくれ。俺がもう一度、正式に確認する。訓練用の回天を使える可能性が本当にないのか、ほかに方法がないのか。きちんと聞いてくる」


さとるは、しばらく黙っていた。


やがて、小さくうなずいた。


「……分かった。答えが出るまでは待つ」


「本当だな」


「ただし、最初から諦めるつもりはない」


剛は、苦しそうに息を吐いた。


「お前らしいな……」


「剛。俺は薫と生きたいんだ。命令を守って一人で出撃して、薫を残していくことだけが、俺にできることだとは思えない」


「……」


「もちろん、俺が何をしても、戦争が終わるわけじゃない。俺一人が命令に背いたところで、何かが変わるのかも分からない。それでも、薫と生きる未来を、何もせずに諦めたくないんだ」


剛は返事をしなかった。


ただ、さとるの顔をじっと見つめていた。


やがて、低い声で言った。


「お前がそこまで決めているなら、俺も、もう一度できることを探す。でも、さとる。何があっても、薫の気持ちを置き去りにするな」


「……ああ」


「お前一人で決めるな。薫を連れていくことは、薫の命にも関わるんだ。お前が守りたいと思うなら、なおさらだ」


さとるは、深くうなずいた。


「分かってる。薫と話す。俺だけで勝手に決めたりしない」


その返事を聞いても、剛の不安は消えなかった。


けれど、今はさとるの決意を知った以上、見なかったことにはできない。


剛は、もう一度上官に話をしに行くことを心に決めた。


たとえ、返ってくる答えが厳しいものであったとしても。


二人が取り返しのつかない選択をする前に、できることを探したかった。


その夜、さとるは薫と会う機会をつくった。


人目のある場所では、薫は今までどおり声を出さない。男の手伝いとして船に乗り込んでいる彼女が、突然話し始めれば、隠してきた事情が明らかになる恐れがあった。


だから二人は、周囲に誰もいないことを確かめてから、ようやく向き合った。


薫は、さとるの顔を見ると、ほっとしたように微笑んだ。


しかし、その笑顔は長く続かなかった。


「……何かあったの?」


声を潜めて尋ねる薫に、さとるはすぐに答えられなかった。


言えば、薫を不安にさせるだろう。


けれど、もう自分の胸の中だけにしまっておくこともできなかった。


「薫。剛に話したんだ」


「剛さんに?」


「ああ。訓練用の回天について、許可が下りなかった場合のことを」


薫の表情が、少しだけこわばった。


「……許可が下りなかったら、どうするの?」


さとるは、薫の手をそっと取った。


その手は冷たかった。


「俺は……命令に背いてでも、お前と一緒に行く覚悟を決めた」


薫の目が、大きく見開かれた。


「さとる……」


「俺が出撃すれば、帰ってこられないかもしれない。いや、帰ってこられない可能性の方が高いんだと思う。そんな場所に、お前を残していきたくない。俺はお前と生きたいんだ」


薫は、すぐには何も言わなかった。


握られた手を見つめ、それから、さとるの顔を見上げた。


「……命令に背いてでも、なの?」


「ああ」


「それが、どんなに危険なことか分かっているの?」


「分かってる」


「分かっていたら、そんなふうに簡単に言わないで」


薫の声が震えた。


さとるは、言葉を失った。


薫は怒っているのではなかった。


泣きそうな顔で、必死に自分の気持ちを伝えようとしていた。


「私だって、あなたと離れたくない。あなたが出撃して、二度と帰ってこないかもしれないなんて、考えるだけで怖い。あなたのいない世界で生きていくなんて、想像もできない」


薫は、さとるの手を強く握り返した。


「でも、私はあなたに、私のためにすべてを捨ててほしいわけじゃないの」


「薫……」


「あなたが命令に背いたら、どうなるの? あなたがもっと危険な立場になったら? 私を連れていくことができても、二人とも帰れなかったら?」


涙が、薫の頬を伝った。


「私は、あなたと一緒にいたい。死ぬためにあなたについていきたいんじゃない。あなたと生きたいから、ここまで来たの」


さとるは、薫の涙を指先でぬぐった。


「分かってる。俺も、お前を死なせたいわけじゃない」


「だったら、一人で覚悟を決めないで」


その言葉に、さとるは息をのんだ。


「あなたが私を守ろうとしてくれていることは分かる。でも、私の命のことを、あなた一人で決めないで。私も、あなたの命のことを勝手に決めたりしない。二人で考えたいの」


薫は、涙をぬぐおうともせず、まっすぐにさとるを見つめた。


「もし許可が下りなかったら、そのときはもう一度、一緒に考えよう。どんなに苦しくても、どんなに怖くても。あなたが一人で命令に背くと決めて、私を連れていくと決めるのは、嫌なの」


さとるの胸が、強く締めつけられた。


自分は薫を守りたいと思っていた。


けれど、その思いが強すぎるあまり、薫自身の覚悟を置き去りにしかけていたのかもしれない。


薫は、自分に守られるだけの存在ではない。


彼女もまた、怖さを抱えながら、自分の意思でここにいる。


「……ごめん」


さとるは、薫の額に自分の額をそっと寄せた。


「お前を失うのが怖くて、どうしたらいいのか分からなくなっていた。命令に従えば、お前と二度と会えなくなるかもしれない。命令に背いたら、お前をもっと危険な目に遭わせるかもしれない。どちらを考えても、怖いんだ」


「私も怖いよ」


薫は小さく答えた。


「あなたがいなくなることも、二人で行って何もできないまま終わってしまうことも。私だって、本当は怖くてたまらない」


二人の間に、長い沈黙が流れた。


遠くで、誰かが歩く足音がした。


薫は反射的にさとるから少し離れ、いつものように口を閉じた。足音が通り過ぎ、再び静けさが戻ると、二人はもう一度、そっと向き合った。


さとるは、薫の手を離さなかった。


「一つだけ、約束してくれ」


「何?」


「これから何かを決めるときは、必ずお前と話す。俺一人で勝手に決めない。だから、お前も俺に何でも話してほしい。怖いことも、嫌なことも、全部」


薫は、涙の残る目でうなずいた。


「約束する」


「許可が下りるまでは、正式な答えを待つ。剛にも、もう一度確認してもらう」


「うん」


「でも……俺は、諦めない」


さとるは、薫の手を胸元に引き寄せた。


「命令を守って一人で出撃すれば、お前と生きる未来を失うかもしれない。だから、俺は最後まで道を探したい。お前と生きるための道を」


薫は、さとるの胸に顔を寄せた。


「私も諦めない。あなたと生きることを、諦めたくない」


二人は、しばらく何も言わずに抱き合っていた。


外では、波が船体を叩き続けていた。


その音は、二人を待つ運命を告げているようでもあり、まだ見ぬ未来へ進むよう促しているようでもあった。


     *


薫と別れたあと、さとるは一人で甲板へ向かった。


夜の海は、どこまでも暗かった。


その向こうには、沖縄の海がある。


自分が出撃する場所。

帰ってこられる保証のない場所。

そして、薫と一緒に生きる可能性を探そうとしている場所。


さとるは、手すりを握った。


冷たい金属が、掌に触れた。


本当は、命令に背きたくなどなかった。


仲間を危険にさらしたいわけでも、上官に逆らうことそのものを望んでいるわけでもない。


ただ、生きたかった。


薫と生きる未来が欲しかった。


その願いを抱くことさえ、許されないような時代の中で、さとるは自分の気持ちを捨てられずにいた。


「……俺は、薫と生きたいんだ」


誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。


答える者はいなかった。


それでも、さとるはもう、自分の願いから目をそらさないと決めていた。


命令に従えば、帰れないかもしれない。


命令に背けば、さらに危険なことになるかもしれない。


どちらを選んでも、未来が約束されるわけではない。


それでも、許可が下りないと分かったとき、ただ黙って諦めるつもりはなかった。


薫の意思を聞き、剛の話を聞き、可能性を確かめる。


そして、自分たちの選択がどんな結果を招くのかを、目をそらさずに考える。


それが、今のさとるにできることだった。


一方、剛もまた眠れずにいた。


さとるの決意は、決して一時の感情だけではない。


だからこそ、剛は怖かった。


正式な許可が下りなければ、さとるは本当に行動を起こすかもしれない。薫もまた、さとるを一人にしないために、その決断についていこうとするだろう。


二人の気持ちは、痛いほど分かる。


けれど、気持ちだけでは海を越えられない。


剛は、もう一度上官に話をするため、何をどう尋ねるべきかを考え始めた。


訓練用の回天を出撃に使用できるのか。

安全性や運用上の問題は、どこにあるのか。

正式な許可が下りない場合、ほかに認められる選択肢はないのか。


答えがどうであれ、曖昧なまま二人を追い詰めたくなかった。


夜は、ゆっくりと更けていった。


さとるも、薫も、剛も、それぞれ違う場所で同じことを考えていた。


どうすれば、生きて帰れるのか。


どうすれば、二人の未来を失わずに済むのか。


そして、もしその願いが命令によって拒まれたなら、自分たちは何を選ぶのか。


まだ、答えは出ていない。


けれど、さとるはもう、ただ命令の日を待つだけの人間ではなかった。


薫と生きるために、最後まで道を探す。


その覚悟だけは、夜の海を前にしても揺らがなかった。


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