第七十二話 告げられた答え、揺れる希望
第七十二話 告げられた答え、揺れる希望
朝の船内には、いつもと変わらない音が響いていた。
兵士たちの足音。整備に向かう者たちの声。食事の準備をする音。そして、出撃に向けて少しずつ進められていく作業。
けれど、さとるにとって、その朝はいつもと同じではなかった。
剛が上官に相談してくれた、訓練用の魚雷のこと。
その結果が、今日にもわかるかもしれない。
希望を持ちたい。
けれど、期待してしまえば、許可が出なかったときに立ち上がれなくなるのではないか。
そんな思いが、朝から胸の中を行き来していた。
さとるは、支給された食事を前にしても、なかなか箸を進められなかった。
「食べないのか?」
近くにいた兵士に尋ねられ、さとるは慌てて顔を上げた。
「ああ。食べるよ」
そう答えたものの、喉を通る食事の味はほとんどわからなかった。
食べなければならない。
身体を動かすためにも、体力を保たなければならない。
それは理解していた。
けれど、心は別の場所にあった。
薫は今、どうしているだろう。
昨夜、別れ際に見た彼女の顔が浮かんだ。
怖いのは自分だけではない。
薫だって、命を失うことを恐れている。それでも、自分と一緒に生きる可能性を探したいと言ってくれた。
その気持ちを、無駄にしたくなかった。
さとるは箸を置き、静かに息を吐いた。
「……剛」
まだ姿の見えない友の名前を、小さくつぶやいた。
どうか、道が残されていますように。
そう願わずにはいられなかった。
***
午前中、さとるは点検作業を続けていた。
作業の手順を確認し、指示に従い、必要な報告を行う。
いつもなら、訓練で繰り返してきた動作に集中することで、余計な考えを振り払うことができた。
しかし今日は、何度時計を見ても、時間がなかなか進まないように感じられた。
やがて休憩の時間になった。
さとるが水を飲んでいると、通路の向こうから剛が歩いてくるのが見えた。
剛の表情は、いつもより硬かった。
さとるは、すぐに立ち上がった。
「剛……!」
剛は周囲を確かめ、声を落とした。
「少し、話そう」
その言葉だけで、さとるにはわかった。
何か、進展があったのだ。
二人は人目を避け、静かに話せる場所へ移動した。
さとるは、剛が口を開くのを待った。
「……それで、どうだった?」
剛は、すぐには答えなかった。
一度、深く息を吐いてから、ゆっくりと話し始めた。
「訓練用の魚雷について、確認を進めてもらった。だが、今回の出撃に使用することについては、簡単に許可できるものではないと言われた」
さとるの胸が、強く締めつけられた。
「……使えない、ということか?」
「今の段階では、許可は出ていない」
剛は、はっきりと答えた。
「訓練用の装備は、訓練を目的に使われるものだ。実戦で使う回天とは、用途も条件も異なる。二人で乗れる可能性があるからといって、それをそのまま出撃に使えるわけじゃない」
さとるは、視線を落とした。
わかっていたことだった。
昨日も、剛は同じことを言っていた。
簡単にはいかない。
許可が出る保証もない。
それでも、心のどこかでは期待していた。
もし、使えると認められたら。
もし、二人で乗ることが許されたら。
薫と一緒に生きる道が、少しでも見つかるのではないかと。
「……そうか」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
剛は、さとるの肩に手を置いた。
「まだ、すべての確認が終わったわけじゃない。だが、今のところ、出撃に使えるという判断はされていない。そこは、きちんと受け止めなきゃならない」
「ああ……」
「俺も、簡単に諦めたくはない。けれど、装備の問題を無視することはできないし、危険なものを無理に使うわけにもいかない」
さとるは、しばらく黙っていた。
胸の中で、何かが崩れかけていた。
薫と生きたい。
その願いは、昨日よりも強くなっていた。
けれど、願うだけでは何も変わらない。
自分たちは、戦争という大きな流れの中にいる。
一兵士の願いで、出撃の命令を変えることはできない。
それでも、さとるは顔を上げた。
「剛。確認してくれて、ありがとう」
剛は驚いたように目を見開いた。
「さとる……」
「お前が動いてくれたことは、わかってる。許可が出なかったからって、お前を責めるつもりはない」
さとるは、苦しそうに笑った。
「ただ……正直に言うと、怖いんだ。これで、薫と一緒に生きる道がなくなってしまうんじゃないかと思うと」
剛は何も言わず、彼の言葉を聞いていた。
「俺は、あいつを守りたい。だけど、あいつを残していくのも怖い。何が正しいのか、今でもわからないんだ」
「……わかるよ」
剛の声も、少しかすれていた。
「俺だって、お前たちにどうしてやればいいのか、わからない。助けたいと思っても、俺にできることには限りがある」
剛は、さとるの目を見つめた。
「でも、ひとつだけ言えることがある。お前たちが生きたいと願うことは、間違っていない。だから、その気持ちまで捨てるな」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
希望は、まだ消えたわけではない。
けれど、目の前の道が、想像していたよりもずっと険しいことはわかった。
昼過ぎ、薫は炊事場の仕事を終え、使った器具を片づけていた。
いつもなら、作業に集中することで余計な考えを抑えられる。
けれど今日は、さとるのことが頭から離れなかった。
剛は、訓練用の魚雷について確認してくれている。
結果が出たら、さとるから何か聞けるかもしれない。
そう思うたびに、期待と不安が交互に押し寄せた。
「どうした。今日はずいぶん静かだな」
炊事係の男が、薫に声をかけた。
薫は、慌てて首を横に振った。
「何でもない」という意味を込めて、いつものように小さく頭を下げる。
男は、彼女の顔を見つめた。
「何でもない顔には見えないがな」
薫は困ったように笑った。
声を出せないふりをしている以上、本当の気持ちを自由に話すことはできない。
それでも、心の中にある思いは、簡単には隠せなかった。
炊事係は、それ以上問い詰めなかった。
「剛が何か調べているらしい。お前が気にしているのは、そのことだろう?」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
「まだ、どうなるかはわからない。だが、あいつは真面目な男だ。できることと、できないことをきちんと確かめているはずだ」
薫は、その言葉を聞いて、胸の前で手を握りしめた。
できることと、できないこと。
その違いを知るのは怖かった。
できないと告げられたら、自分はどうすればいいのだろう。
さとるが出撃することを、ただ見送るしかないのだろうか。
彼が帰ってこないかもしれないという現実を、受け入れるしかないのだろうか。
薫は、目を伏せた。
炊事係は、静かに言った。
「お前が何を願っているのか、俺には全部わかるわけじゃない。だが、ひとつだけ覚えておけ。どんなに強い覚悟があっても、怖いものは怖い。怖いと思うことを、恥ずかしがる必要はないんだ」
薫の目に、涙が浮かんだ。
彼女は声を出さずに、深く頭を下げた。
男は、そっと彼女の肩をたたいた。
「今は、できることをひとつずつやればいい。あの青年と話せる時間があるなら、ちゃんと話しておくんだ」
薫は、何度もうなずいた。
今、できること。
それは、さとると気持ちを確かめ合うこと。
どんな結果になっても、互いに何を望んでいるのか、隠さずに伝えること。
薫は、涙をぬぐった。
まだ、諦めると決めたわけではない。
***
夕方、剛の取り計らいで、さとると薫は短い時間だけ顔を合わせることができた。
人の出入りが少ない場所だったが、長く話すことはできない。
二人は、互いの顔を見た瞬間、何かを察した。
薫は、さとるの表情から、良い知らせではないことを感じ取った。
「……どうでしたか?」
彼女は、声を潜めて尋ねた。
さとるは、少しだけ目を閉じた。
「まだ、許可は出ていない」
薫の顔から、かすかな期待が消えた。
「そうですか……」
「訓練用の魚雷は、訓練のためのものだからな。出撃に使えるかどうかは、簡単には決められないらしい。剛が確認してくれているけど、今のところ、使えるとは言われていない」
薫は、唇を噛んだ。
わかっていた。
簡単な話ではないことは、最初からわかっていた。
それでも、少しだけ期待してしまっていた。
さとると一緒に行けるかもしれない。
同じ海へ向かい、同じ場所で生きる道を探せるかもしれない。
その可能性が、今、遠ざかっていくように感じられた。
「……さとる」
薫は、震える手を握りしめた。
「私は、どうしたらいいのでしょう」
その問いに、さとるはすぐには答えられなかった。
自分だって、答えがほしかった。
薫を連れていけば、彼女を危険にさらす。
残していけば、もう二度と会えないかもしれない。
どちらを選んでも、苦しみが待っているように思えた。
「……ごめん」
さとるは、思わずそう言った。
薫は、驚いて顔を上げた。
「どうして、謝るのですか?」
「お前に、こんな思いをさせているからだ。俺がもっと何かできたら、お前をこんな場所まで来させずに済んだのかもしれない。もっと早く、二人で生きる方法を見つけられたのかもしれない」
「違います」
薫は、強く首を横に振った。
「私がここへ来たのは、私自身が決めたことです。あなたのせいではありません」
さとるは、目を伏せた。
「でも……」
「さとる。私は、あなたに何もかも解決してほしいわけではありません」
薫の声は、震えていた。
「あなたと一緒にいたい。でも、あなたひとりに責任を負わせたいわけではないのです。私だって、自分の選択に責任を持ちたい。だから、一緒に考えたいのです」
さとるは、彼女を見つめた。
薫は、涙をこらえながら続けた。
「もし、二人で乗ることが許されなかったら、そのときは、また考えましょう。私は怖いです。あなたと離れるのも、あなたを失うのも怖い。でも、今ここで、何もかも終わったと決めたくはありません」
その言葉に、さとるの胸が熱くなった。
「……薫」
「あなたも、そうでしょう?」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
「ああ。俺も、まだ諦めたくない」
「だったら、一緒に考えましょう」
薫は、涙をぬぐい、小さく微笑んだ。
「あなたがひとりで苦しむ必要はありません。私も一緒にいます」
さとるは、何度もうなずいた。
「ありがとう」
本当は、抱きしめたかった。
彼女を腕の中に閉じ込めて、もう離したくなかった。
けれど、ここではそれができない。
二人は、そっと手を重ねた。
指先から伝わる温もりは、かすかだった。
それでも、確かにそこにあった。
「俺は、お前と生きたい」
さとるは、もう一度伝えた。
「私も、あなたと生きたいです」
薫は、まっすぐに答えた。
その願いが、今すぐかなうわけではない。
けれど、二人は互いの気持ちを見失わなかった。
***
夜、剛は再び上官のもとへ向かった。
訓練用の魚雷について、確認できたことを整理し、今後どのような判断が必要なのかを尋ねるためだった。
上官は、剛の話を最後まで聞いてから、厳しい声で言った。
「装備は、個人の希望だけで使い方を変えられるものではない。安全性も、使用目的も、作戦上の必要性も確認しなければならない。特に、今回の出撃に関しては、勝手な判断は許されない」
「承知しています」
剛は、頭を下げた。
「だからこそ、正式な判断をお願いしたいのです」
上官は、しばらく黙っていた。
「確認は続ける。ただし、許可できるかどうかは、まだ答えられない。出撃の準備は予定どおり進める。判断が出るまで、装備に関して独断で動くことは認めない」
「はい」
剛は、それ以上、何も言わなかった。
相談は、完全に退けられたわけではない。
しかし、道が開けたとも言えなかった。
まだ、答えは出ていない。
剛はその現実を受け止め、静かに頭を下げて、その場を離れた。
通路を歩きながら、彼は考えた。
さとるも、薫も、死にたいわけではない。
二人で生きたいと願っている。
それなのに、その願いをかなえるための道は、こんなにも狭い。
戦争がなければ、二人はこんな場所で、命の行方を相談する必要などなかったはずだ。
好きな人と一緒に暮らしたい。
朝を迎え、食事をし、明日の話をしたい。
その程度の願いが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
剛は、拳を握りしめた。
「……まだ、できることはある」
小さくつぶやき、顔を上げた。
できることが残っている限り、諦めたくはなかった。
***
その夜、さとるは甲板へ出た。
海は暗く、遠くの水平線も見えなかった。
昼間は美しく輝いていた水面が、今は底知れない闇に包まれている。
この海の向こうに、戦場がある。
そして、自分には、そこへ向かう命令がある。
さとるは、手すりに手を置いた。
薫と一緒に生きる道は、まだ見つかっていない。
訓練用の魚雷についても、許可が出るかどうかはわからない。
もしかしたら、最後まで認められないかもしれない。
そのとき、自分はどうするのだろう。
薫に何と言えばいいのだろう。
考えても、答えは出なかった。
それでも、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
自分は、死にたいわけではない。
命令に従うことだけが、自分の人生のすべてではない。
二十歳の青年として、好きな人と生きたい。
その願いを、恥じる必要はない。
さとるは、夜の海を見つめながら、静かに目を閉じた。
「薫……俺は、まだ諦めない」
誰にも聞こえない声だった。
けれど、その言葉は、今までのどの誓いよりも強く、さとるの胸に刻まれた。
そして船内の別の場所では、薫もまた、さとるのことを考えていた。
剛も、炊事係も、自分たちを助けようとしてくれている。
けれど、誰も未来を約束することはできない。
それでも、薫は願っていた。
どうか、二人で生きる道が残されていますように。
どうか、さとるが自分の命を諦めませんように。
どうか、戦争が二人の未来を奪い尽くしてしまいませんように。
その夜、答えは出なかった。
希望は、まだ確かな形を持たない。
それでも、二人の願いは消えていなかった。
生きたい。
一緒にいたい。
そして、いつか戦争のない海を、二人で眺めたい。
その願いを胸に抱きながら、さとると薫は、それぞれの場所で静かに夜を迎えた。
翌朝、彼らを待っているのが希望なのか、それとも新たな現実なのか。
それは、まだ誰にもわからなかった。




