↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/100

第七十二話 告げられた答え、揺れる希望

第七十二話 告げられた答え、揺れる希望


朝の船内には、いつもと変わらない音が響いていた。


兵士たちの足音。整備に向かう者たちの声。食事の準備をする音。そして、出撃に向けて少しずつ進められていく作業。


けれど、さとるにとって、その朝はいつもと同じではなかった。


剛が上官に相談してくれた、訓練用の魚雷のこと。


その結果が、今日にもわかるかもしれない。


希望を持ちたい。


けれど、期待してしまえば、許可が出なかったときに立ち上がれなくなるのではないか。


そんな思いが、朝から胸の中を行き来していた。


さとるは、支給された食事を前にしても、なかなか箸を進められなかった。


「食べないのか?」


近くにいた兵士に尋ねられ、さとるは慌てて顔を上げた。


「ああ。食べるよ」


そう答えたものの、喉を通る食事の味はほとんどわからなかった。


食べなければならない。


身体を動かすためにも、体力を保たなければならない。


それは理解していた。


けれど、心は別の場所にあった。


薫は今、どうしているだろう。


昨夜、別れ際に見た彼女の顔が浮かんだ。


怖いのは自分だけではない。


薫だって、命を失うことを恐れている。それでも、自分と一緒に生きる可能性を探したいと言ってくれた。


その気持ちを、無駄にしたくなかった。


さとるは箸を置き、静かに息を吐いた。


「……剛」


まだ姿の見えない友の名前を、小さくつぶやいた。


どうか、道が残されていますように。


そう願わずにはいられなかった。


***


午前中、さとるは点検作業を続けていた。


作業の手順を確認し、指示に従い、必要な報告を行う。


いつもなら、訓練で繰り返してきた動作に集中することで、余計な考えを振り払うことができた。


しかし今日は、何度時計を見ても、時間がなかなか進まないように感じられた。


やがて休憩の時間になった。


さとるが水を飲んでいると、通路の向こうから剛が歩いてくるのが見えた。


剛の表情は、いつもより硬かった。


さとるは、すぐに立ち上がった。


「剛……!」


剛は周囲を確かめ、声を落とした。


「少し、話そう」


その言葉だけで、さとるにはわかった。


何か、進展があったのだ。


二人は人目を避け、静かに話せる場所へ移動した。


さとるは、剛が口を開くのを待った。


「……それで、どうだった?」


剛は、すぐには答えなかった。


一度、深く息を吐いてから、ゆっくりと話し始めた。


「訓練用の魚雷について、確認を進めてもらった。だが、今回の出撃に使用することについては、簡単に許可できるものではないと言われた」


さとるの胸が、強く締めつけられた。


「……使えない、ということか?」


「今の段階では、許可は出ていない」


剛は、はっきりと答えた。


「訓練用の装備は、訓練を目的に使われるものだ。実戦で使う回天とは、用途も条件も異なる。二人で乗れる可能性があるからといって、それをそのまま出撃に使えるわけじゃない」


さとるは、視線を落とした。


わかっていたことだった。


昨日も、剛は同じことを言っていた。


簡単にはいかない。


許可が出る保証もない。


それでも、心のどこかでは期待していた。


もし、使えると認められたら。


もし、二人で乗ることが許されたら。


薫と一緒に生きる道が、少しでも見つかるのではないかと。


「……そうか」


ようやく出た声は、ひどく小さかった。


剛は、さとるの肩に手を置いた。


「まだ、すべての確認が終わったわけじゃない。だが、今のところ、出撃に使えるという判断はされていない。そこは、きちんと受け止めなきゃならない」


「ああ……」


「俺も、簡単に諦めたくはない。けれど、装備の問題を無視することはできないし、危険なものを無理に使うわけにもいかない」


さとるは、しばらく黙っていた。


胸の中で、何かが崩れかけていた。


薫と生きたい。


その願いは、昨日よりも強くなっていた。


けれど、願うだけでは何も変わらない。


自分たちは、戦争という大きな流れの中にいる。


一兵士の願いで、出撃の命令を変えることはできない。


それでも、さとるは顔を上げた。


「剛。確認してくれて、ありがとう」


剛は驚いたように目を見開いた。


「さとる……」


「お前が動いてくれたことは、わかってる。許可が出なかったからって、お前を責めるつもりはない」


さとるは、苦しそうに笑った。


「ただ……正直に言うと、怖いんだ。これで、薫と一緒に生きる道がなくなってしまうんじゃないかと思うと」


剛は何も言わず、彼の言葉を聞いていた。


「俺は、あいつを守りたい。だけど、あいつを残していくのも怖い。何が正しいのか、今でもわからないんだ」


「……わかるよ」


剛の声も、少しかすれていた。


「俺だって、お前たちにどうしてやればいいのか、わからない。助けたいと思っても、俺にできることには限りがある」


剛は、さとるの目を見つめた。


「でも、ひとつだけ言えることがある。お前たちが生きたいと願うことは、間違っていない。だから、その気持ちまで捨てるな」


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


希望は、まだ消えたわけではない。


けれど、目の前の道が、想像していたよりもずっと険しいことはわかった。


昼過ぎ、薫は炊事場の仕事を終え、使った器具を片づけていた。


いつもなら、作業に集中することで余計な考えを抑えられる。


けれど今日は、さとるのことが頭から離れなかった。


剛は、訓練用の魚雷について確認してくれている。


結果が出たら、さとるから何か聞けるかもしれない。


そう思うたびに、期待と不安が交互に押し寄せた。


「どうした。今日はずいぶん静かだな」


炊事係の男が、薫に声をかけた。


薫は、慌てて首を横に振った。


「何でもない」という意味を込めて、いつものように小さく頭を下げる。


男は、彼女の顔を見つめた。


「何でもない顔には見えないがな」


薫は困ったように笑った。


声を出せないふりをしている以上、本当の気持ちを自由に話すことはできない。


それでも、心の中にある思いは、簡単には隠せなかった。


炊事係は、それ以上問い詰めなかった。


「剛が何か調べているらしい。お前が気にしているのは、そのことだろう?」


薫は、ゆっくりとうなずいた。


「まだ、どうなるかはわからない。だが、あいつは真面目な男だ。できることと、できないことをきちんと確かめているはずだ」


薫は、その言葉を聞いて、胸の前で手を握りしめた。


できることと、できないこと。


その違いを知るのは怖かった。


できないと告げられたら、自分はどうすればいいのだろう。


さとるが出撃することを、ただ見送るしかないのだろうか。


彼が帰ってこないかもしれないという現実を、受け入れるしかないのだろうか。


薫は、目を伏せた。


炊事係は、静かに言った。


「お前が何を願っているのか、俺には全部わかるわけじゃない。だが、ひとつだけ覚えておけ。どんなに強い覚悟があっても、怖いものは怖い。怖いと思うことを、恥ずかしがる必要はないんだ」


薫の目に、涙が浮かんだ。


彼女は声を出さずに、深く頭を下げた。


男は、そっと彼女の肩をたたいた。


「今は、できることをひとつずつやればいい。あの青年と話せる時間があるなら、ちゃんと話しておくんだ」


薫は、何度もうなずいた。


今、できること。


それは、さとると気持ちを確かめ合うこと。


どんな結果になっても、互いに何を望んでいるのか、隠さずに伝えること。


薫は、涙をぬぐった。


まだ、諦めると決めたわけではない。


***


夕方、剛の取り計らいで、さとると薫は短い時間だけ顔を合わせることができた。


人の出入りが少ない場所だったが、長く話すことはできない。


二人は、互いの顔を見た瞬間、何かを察した。


薫は、さとるの表情から、良い知らせではないことを感じ取った。


「……どうでしたか?」


彼女は、声を潜めて尋ねた。


さとるは、少しだけ目を閉じた。


「まだ、許可は出ていない」


薫の顔から、かすかな期待が消えた。


「そうですか……」


「訓練用の魚雷は、訓練のためのものだからな。出撃に使えるかどうかは、簡単には決められないらしい。剛が確認してくれているけど、今のところ、使えるとは言われていない」


薫は、唇を噛んだ。


わかっていた。


簡単な話ではないことは、最初からわかっていた。


それでも、少しだけ期待してしまっていた。


さとると一緒に行けるかもしれない。


同じ海へ向かい、同じ場所で生きる道を探せるかもしれない。


その可能性が、今、遠ざかっていくように感じられた。


「……さとる」


薫は、震える手を握りしめた。


「私は、どうしたらいいのでしょう」


その問いに、さとるはすぐには答えられなかった。


自分だって、答えがほしかった。


薫を連れていけば、彼女を危険にさらす。


残していけば、もう二度と会えないかもしれない。


どちらを選んでも、苦しみが待っているように思えた。


「……ごめん」


さとるは、思わずそう言った。


薫は、驚いて顔を上げた。


「どうして、謝るのですか?」


「お前に、こんな思いをさせているからだ。俺がもっと何かできたら、お前をこんな場所まで来させずに済んだのかもしれない。もっと早く、二人で生きる方法を見つけられたのかもしれない」


「違います」


薫は、強く首を横に振った。


「私がここへ来たのは、私自身が決めたことです。あなたのせいではありません」


さとるは、目を伏せた。


「でも……」


「さとる。私は、あなたに何もかも解決してほしいわけではありません」


薫の声は、震えていた。


「あなたと一緒にいたい。でも、あなたひとりに責任を負わせたいわけではないのです。私だって、自分の選択に責任を持ちたい。だから、一緒に考えたいのです」


さとるは、彼女を見つめた。


薫は、涙をこらえながら続けた。


「もし、二人で乗ることが許されなかったら、そのときは、また考えましょう。私は怖いです。あなたと離れるのも、あなたを失うのも怖い。でも、今ここで、何もかも終わったと決めたくはありません」


その言葉に、さとるの胸が熱くなった。


「……薫」


「あなたも、そうでしょう?」


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


「ああ。俺も、まだ諦めたくない」


「だったら、一緒に考えましょう」


薫は、涙をぬぐい、小さく微笑んだ。


「あなたがひとりで苦しむ必要はありません。私も一緒にいます」


さとるは、何度もうなずいた。


「ありがとう」


本当は、抱きしめたかった。


彼女を腕の中に閉じ込めて、もう離したくなかった。


けれど、ここではそれができない。


二人は、そっと手を重ねた。


指先から伝わる温もりは、かすかだった。


それでも、確かにそこにあった。


「俺は、お前と生きたい」


さとるは、もう一度伝えた。


「私も、あなたと生きたいです」


薫は、まっすぐに答えた。


その願いが、今すぐかなうわけではない。


けれど、二人は互いの気持ちを見失わなかった。


***

夜、剛は再び上官のもとへ向かった。


訓練用の魚雷について、確認できたことを整理し、今後どのような判断が必要なのかを尋ねるためだった。


上官は、剛の話を最後まで聞いてから、厳しい声で言った。


「装備は、個人の希望だけで使い方を変えられるものではない。安全性も、使用目的も、作戦上の必要性も確認しなければならない。特に、今回の出撃に関しては、勝手な判断は許されない」


「承知しています」


剛は、頭を下げた。


「だからこそ、正式な判断をお願いしたいのです」


上官は、しばらく黙っていた。


「確認は続ける。ただし、許可できるかどうかは、まだ答えられない。出撃の準備は予定どおり進める。判断が出るまで、装備に関して独断で動くことは認めない」


「はい」


剛は、それ以上、何も言わなかった。


相談は、完全に退けられたわけではない。


しかし、道が開けたとも言えなかった。


まだ、答えは出ていない。


剛はその現実を受け止め、静かに頭を下げて、その場を離れた。


通路を歩きながら、彼は考えた。


さとるも、薫も、死にたいわけではない。


二人で生きたいと願っている。


それなのに、その願いをかなえるための道は、こんなにも狭い。


戦争がなければ、二人はこんな場所で、命の行方を相談する必要などなかったはずだ。


好きな人と一緒に暮らしたい。


朝を迎え、食事をし、明日の話をしたい。


その程度の願いが、どうしてこんなにも難しいのだろう。


剛は、拳を握りしめた。


「……まだ、できることはある」


小さくつぶやき、顔を上げた。


できることが残っている限り、諦めたくはなかった。


***


その夜、さとるは甲板へ出た。


海は暗く、遠くの水平線も見えなかった。


昼間は美しく輝いていた水面が、今は底知れない闇に包まれている。


この海の向こうに、戦場がある。


そして、自分には、そこへ向かう命令がある。


さとるは、手すりに手を置いた。


薫と一緒に生きる道は、まだ見つかっていない。


訓練用の魚雷についても、許可が出るかどうかはわからない。


もしかしたら、最後まで認められないかもしれない。


そのとき、自分はどうするのだろう。


薫に何と言えばいいのだろう。


考えても、答えは出なかった。


それでも、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。


自分は、死にたいわけではない。


命令に従うことだけが、自分の人生のすべてではない。


二十歳の青年として、好きな人と生きたい。


その願いを、恥じる必要はない。


さとるは、夜の海を見つめながら、静かに目を閉じた。


「薫……俺は、まだ諦めない」


誰にも聞こえない声だった。


けれど、その言葉は、今までのどの誓いよりも強く、さとるの胸に刻まれた。


そして船内の別の場所では、薫もまた、さとるのことを考えていた。


剛も、炊事係も、自分たちを助けようとしてくれている。


けれど、誰も未来を約束することはできない。


それでも、薫は願っていた。


どうか、二人で生きる道が残されていますように。


どうか、さとるが自分の命を諦めませんように。


どうか、戦争が二人の未来を奪い尽くしてしまいませんように。


その夜、答えは出なかった。


希望は、まだ確かな形を持たない。


それでも、二人の願いは消えていなかった。


生きたい。


一緒にいたい。


そして、いつか戦争のない海を、二人で眺めたい。


その願いを胸に抱きながら、さとると薫は、それぞれの場所で静かに夜を迎えた。


翌朝、彼らを待っているのが希望なのか、それとも新たな現実なのか。


それは、まだ誰にもわからなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。