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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第七十一話 許されない願い、それでも生きたい

第七十一話 許されない願い、それでも生きたい


朝、船内に響く足音で、さとるは目を覚ました。


昨夜は、いつもより少しだけ眠れた。


けれど、目を閉じれば薫の顔が浮かび、目を開ければ出撃が近づいているという現実が待っていた。心のどこかで、訓練用の魚雷が使えるかもしれないという希望を抱いている。それと同時に、その希望が打ち砕かれることを恐れていた。


希望を持たなければ、失望することもない。


そう思ったこともあった。


だが、薫と再会してから、さとるはもう、何も期待せずに生きることができなくなっていた。


一緒に生きたい。


朝、目を覚ましたときに隣にいてほしい。


海を見ながら、戦争が終わったあとの話をしたい。


そんな当たり前の願いが、今の自分には何よりも大切だった。


さとるは上着を整え、部屋を出た。


今日も訓練と点検が待っている。


出撃の準備は、彼の気持ちとは関係なく進んでいくのだった。


***


午前中、さとるは指定された場所で装備の点検に参加していた。


整備兵たちの声が飛び交い、金属の触れ合う音が響く。兵士たちは、それぞれ与えられた作業を黙々と進めていた。


さとるも、指示に従って確認を続けた。


手順を間違えてはならない。


確認を怠ってはならない。


そのことは、訓練を始めた頃から何度も教え込まれてきた。


けれど、今日のさとるには、いつもと違う思いがあった。


以前は、命令に従って技術を身につけることだけを考えていた。自分が何をするために訓練しているのか、わかっていながら、深く考えないようにしていた。


考えれば、怖くなるからだ。


出撃すれば、戻れないかもしれない。


その現実を正面から見つめてしまえば、身体が動かなくなりそうだった。


しかし今は違う。


自分が生きて帰りたい理由を、はっきりと知っていた。


薫がいるからだ。


薫と生きる未来を、まだ諦めていないからだ。


「おい、さとる。そこはもう一度確認しろ」


整備兵の声に、さとるははっと顔を上げた。


「はい。すみません」


慌てて確認し直す。


指先に力が入っていた。


落ち着かなければならない。焦りは、判断を誤らせる。


さとるは深く息を吸い、もう一度、目の前の作業に集中した。


生きて帰りたいと願うのなら、今できることを疎かにしてはいけない。


それは、薫と再会して初めて気づいたことだった。


***


昼近くになり、作業の合間に短い休憩が与えられた。


さとるが水を飲んでいると、剛が近づいてきた。


「さとる、少し話せるか」


その声を聞いた瞬間、さとるの胸が大きく鳴った。


「……訓練用の魚雷のことか?」


剛は、周囲に人がいないことを確かめてから、うなずいた。


「昨日、上官に相談しただろう。あれについて、確認が進んでいる」


さとるは、思わず剛の顔を見つめた。


「それで……?」


「まだ最終的な判断は出ていない。ただ、訓練用の装備を実際の出撃に使えるかどうかは、簡単に決められることじゃないそうだ」


さとるの胸に、重いものが落ちた。


「やっぱり、難しいのか」


「難しいからといって、最初から無理だと決まったわけじゃない。だが、使えると決まったわけでもないんだ」


剛は、言葉を慎重に選んだ。


「訓練用のものは、実戦で使うための回天とは違う。構造や用途が違えば、危険も変わる。二人で乗れるという話だけで、出撃に使えるとは言えないんだ」


「……そうだよな」


さとるは視線を落とした。


頭ではわかっていた。


二人で乗れるものが存在するとしても、それが自分たちの願いをかなえてくれるとは限らない。


規則もある。装備の問題もある。上官の判断もある。


何より、危険な海へ向かうという現実が変わるわけではない。


「さとる」


剛が呼びかけた。


「俺は、できるだけのことをする。だが、結果を約束することはできない」


「ああ。わかってる」


さとるは、かすかに笑った。


「それでも、確認してくれてありがとう。俺ひとりだったら、何もできなかった」


「礼なんかいらない。お前は俺の仲間だろう」


剛は、少しだけ表情を和らげた。


「ただ、ひとつ聞いておきたい」


「何だ?」


「もし、許可が出なかったらどうする?」


その問いに、さとるはすぐには答えられなかった。


許可が出なければ、薫を連れていくことはできない。


自分は、予定どおり出撃しなければならないのだろうか。


薫を残していくのか。


もう二度と会えないかもしれないと知りながら、別れを受け入れるのか。


考えるだけで、息が詰まりそうになった。


「……まだ、わからない」


さとるは正直に答えた。


「でも、無断で何かをするつもりはない。薫を危険にさらすようなこともしたくない。許可が出なかったら、もう一度、薫と話す」


「そうか」


「俺は、あいつの気持ちを大切にしたい。でも、あいつが望んでいるからといって、危険を考えずに連れていくわけにもいかないんだ」


さとるは、拳を握りしめた。


「俺は、薫と生きたい。だからこそ、あいつの命を軽く扱いたくない」


剛は、しばらく黙っていた。


やがて、ゆっくりとうなずいた。


「その気持ちを忘れるなよ。生きるために考えているんだ。追い詰められて、何でもいいから一緒に行こうなんて考えに変わったら、俺が止めるからな」


「……ああ。頼む」


二人は、短くうなずき合った。


希望は、まだ形になっていない。


それでも、諦めるかどうかを決めるには、まだ早かった。


午後、薫は炊事場で働きながら、何度も船内の時計を気にしていた。


さとるに会いたかった。


けれど、会いたいという気持ちだけで、自由に動くことはできない。


自分は男のふりをして、この船に乗っている。


本当の身分を知られれば、ここにいられなくなるかもしれない。さとるのそばにいることさえ、できなくなる可能性があった。


それでも、薫は後悔していなかった。


山口に残って、さとるの帰りを待つことができなかったのだ。


彼が出撃する。


帰ってこられないかもしれない。


その事実を知りながら、何もせずに別れることなど、薫にはできなかった。


けれど、船にたどり着いたからといって、すべてが解決したわけではない。


さとると同じ船にいる。


手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる。


それなのに、二人の未来は、まだ何ひとつ決まっていなかった。


「疲れたか?」


炊事係の男が、作業の手を止めずに尋ねた。


薫は、首を横に振った。


「無理はするな。顔に出ているぞ」


薫は、困ったように微笑んだ。


男は彼女を見て、少し声を落とした。


「剛から、何か聞いたか?」


薫は、一瞬ためらったあと、小さくうなずいた。


「そうか。まだ、はっきりしたことはわからないんだな」


薫は、もう一度うなずいた。


炊事係は、ため息をついた。


「戦争というのは、どうしてこうも、人の願いを簡単に踏みにじるんだろうな」


その言葉に、薫の手が止まった。


男は、しばらく鍋の中を見つめていた。


「俺だって、本当はこんな仕事をしていたいわけじゃない。腹を空かせた人間に飯を食わせて、明日も元気で働いてもらう。それだけでいいはずなのにな」


彼は、薫を見た。


「お前も、あの青年も、まだ若い。普通なら、これから何をして生きていこうかと考えている年頃だ。それなのに、明日生きているかどうかを考えなきゃならない」


薫は、胸が痛くなった。


自分とさとるも、本当なら、こんな場所にいるはずではなかった。


二人で海を眺めて、未来の話をして、笑っていたかった。


ただ、それだけだったのに。


薫は、手元に視線を落とした。


涙を見られないように、そっと目を伏せる。


炊事係は、それ以上何も言わなかった。


ただ、作業の邪魔にならないよう、彼女のそばに水の入った器を置いた。


そのささやかな優しさが、薫にはありがたかった。


***


夕方、さとると薫は、短い時間だけ顔を合わせることができた。


二人の間には、以前よりも多くの言葉があった。


それは、恐怖がなくなったからではない。


むしろ、恐怖がどれほど大きいものなのか、お互いに知ったからだった。


「剛から聞いたか?」


さとるが尋ねると、薫はうなずいた。


「まだ、許可が出たわけではないのですね」


「ああ。確認を進めてくれているけど、どうなるかはわからない」


薫は、しばらく黙っていた。


そして、さとるの顔をまっすぐに見つめた。


「さとる。あなたは、どうしたいですか?」


その問いに、さとるは息をのんだ。


「……俺は、お前と生きたい」


「それは、昨日も聞きました」


薫は、涙をこらえながら微笑んだ。


「でも、私が聞きたいのは、あなた自身の気持ちです。私を守らなければいけないとか、私の願いをかなえなければいけないとか、そういうことではなくて」


彼女は、一度、息を整えた。


「あなたは、本当はどうしたいのですか?」


さとるは、答えようとして、言葉を失った。


薫のために、どうするべきか。


剛のために、何をすべきか。


命令にどう従うべきか。


これまで、そんなことばかり考えていた。


自分が何を望んでいるのか、心の奥に押し込めていた。


本当の気持ちを口にすれば、臆病だと思われるかもしれない。


兵士として、失格だと思われるかもしれない。


けれど、薫は答えを待っていた。


さとるは、ゆっくりと口を開いた。


「……俺は、死にたくない」


薫の目から、涙がこぼれた。


「俺は、怖いんだ。出撃するのが怖い。海の中で、ひとりで死ぬのが怖い。お前にもう会えなくなるのが怖い」


さとるの声が震えた。


「本当は、逃げ出したいと思うこともある。ここから離れて、どこか遠くで、お前と普通に暮らせたらって考えることもある」


彼は、苦しそうに笑った。


「でも、そんなことを考える自分を、ずっと責めていた。自分は兵士なのに、こんなことを考えてはいけないんじゃないかって」


薫は、首を横に振った。


「そんなことはありません」


「……薫」


「怖いと思うのは、当たり前です。死にたくないと思うのも、当たり前です。あなたは兵士である前に、ひとりの人間なのですから」


さとるは、唇を噛みしめた。


ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。


怖いと認めてもいい。


生きたいと願ってもいい。


大切な人と離れたくないと思ってもいい。


薫は、彼の手にそっと触れた。


「私も怖いです。あなたと一緒に行きたいと思っています。でも、あなたが死んでしまうことが怖い。私自身が死ぬことも怖い。できることなら、二人でここを離れて、どこかで静かに暮らしたい」


「……ああ」


「だから、私はあなたと生きたいのです。死ぬ覚悟だけを決めるのではなく、生きるために何ができるのか、考えたいのです」


さとるは、彼女の手を握り返した。


「俺も、同じだ」


二人は、しばらく見つめ合った。


そのとき、遠くから人の声が聞こえた。


二人は、名残惜しそうに手を離した。


人目のある場所では、薫は再び、声を出せない男のふりをしなければならない。


さとるも、彼女と親しい素振りを見せるわけにはいかなかった。


けれど、別れる直前、さとるは小さく告げた。


「薫。どんな結果になっても、俺はお前の気持ちを無視しない」


薫は、涙をこらえながらうなずいた。


「私も、あなたの気持ちを大切にします」


それだけで、二人には十分だった。


まだ答えは出ていない。


けれど、二人はようやく、同じ願いを自分たちの言葉で確かめることができたのだった。


夜。


さとるは、寝台に横になっても、なかなか眠れなかった。


今日、薫に自分の本当の気持ちを伝えた。


死にたくない。


怖い。


生きたい。


今までなら、決して口にできなかった言葉だった。


けれど、口にしたからといって、恐怖が消えるわけではない。


出撃の準備は続いている。


自分の意思だけで、すべてを変えられるわけでもない。


それでも、さとるは少しだけ、息がしやすくなった気がした。


自分は、英雄になりたいわけではない。


誰かに立派だと思われたいわけでもない。


ただ、二十歳の青年として生きたい。


薫と一緒に、明日を迎えたい。


それだけだった。


一方、剛は上官への相談の結果を待ちながら、必要な記録を整理していた。


訓練用の魚雷が使用できるかどうか。


仮に装備そのものに問題がなくても、出撃に使うことが認められるのか。


確認すべきことは、まだ残っていた。


剛は、書類を見つめながら、深く息を吐いた。


「……頼むから、道が残っていてくれ」


それは、誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


薫のためか。


さとるのためか。


それとも、命令に従うことしかできない自分自身のためか。


彼は、もう一度、書類に目を落とした。


できることを、ひとつずつ確かめていくしかない。


そして薫は、与えられた寝場所で、暗い天井を見つめていた。


さとるが怖いと話してくれたことが、胸に残っていた。


彼は、いつも強くあろうとしていた。


自分を守ろうとし、ひとりで恐怖を抱え込もうとしていた。


けれど、本当は彼だって、普通に生きたいのだ。


薫は、目を閉じた。


「さとる……どうか、生きていて」


声に出すことのできない願いを、胸の中で何度も繰り返した。


二人の未来は、まだ見えない。


剛が進めている確認にも、答えは出ていない。


それでも、さとると薫は、ただ死を待つだけの二人ではなくなっていた。


生きたいと願う気持ちを、互いに伝えた。


その願いをかなえるために、できることを探し始めた。


戦争は、そんな二人の願いを待ってはくれない。


船の上では、明日も出撃の準備が続いていく。


その現実を知りながら、さとるは胸の中で、もう一度だけ誓った。


――俺は、薫と生きたい。


それは、まだ誰にも認められていない願いだった。


けれど、さとるにとっては、命令よりも、恐怖よりも、強く手放したくない願いだった。


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