第七十話 覚悟を決めた二人、動き出す計画
第七十話 覚悟を決めた二人、動き出す計画
朝の光が、船の窓から細く差し込んでいた。
港には冷たい風が吹き、出撃を控えた船の上では、兵士たちが慌ただしく行き交っていた。整備の音、交わされる指示、足早に通り過ぎる兵士たちの姿。そのすべてが、戦争という現実をさとるに突きつけていた。
さとるは、ほとんど眠れない夜を過ごしていた。
目を閉じると、薫の顔が浮かんだ。
回天は特攻兵器であり、出撃すれば生きて帰れる保証はない。そのことを、昨日、さとるは薫に隠さず話した。
薫は怖いと言った。
生きたいとも言った。
そして、それでも自分と一緒にいたいと、まっすぐに伝えてくれた。
その言葉を思い出すたび、さとるの胸は締めつけられた。
薫は、死を望んでいるのではない。
自分と生きたいのだ。
そして、さとる自身も同じだった。
戦争が終わったら、薫と一緒に暮らしたい。朝になれば顔を合わせ、食事をし、何でもない話をして笑いたい。夕暮れには一緒に海を眺め、明日も会えることを当たり前に思える日々を送りたい。
そんな未来を、ずっと夢見てきた。
けれど今、その未来は、手を伸ばしても届かないほど遠くにある。
自分が出撃すれば、二度と薫に会えないかもしれない。
だからといって、薫を残していくことが、彼女を守ることになるのだろうか。
自分のいない未来を生きてほしいと願うことは、彼女の気持ちを無視して、自分が勝手に決めることではないのか。
さとるは、何度も考えた。
そして、ようやくひとつの答えにたどり着いた。
薫と一緒に行くことが正しいのか、まだわからない。
一緒に行けば、二人とも命を失うかもしれない。
それでも、二人で生きる可能性が残されているのなら、何もせずに諦めたくなかった。
さとるは、ゆっくりと拳を握った。
「……剛に話そう」
声はかすれていた。
恐怖が消えたわけではない。
迷いがなくなったわけでもない。
ただ、もうひとりで答えを出そうとするのはやめようと思った。
薫の覚悟を受け止め、自分の願いも隠さずに伝え、二人で生きる道を探す。
それが、今のさとるにできることだった。
***
さとるは、船内で剛を探した。
剛は、整備に関する書類を確認しながら、誰かと短く言葉を交わしていた。さとるの姿に気づくと、相手に断ってからこちらへ歩いてきた。
「さとる。どうした?」
「話がある。少し、いいか」
剛は、さとるの表情を見て、すぐにうなずいた。
二人は、人目につきにくい場所へ移動した。
さとるは、しばらく言葉を探していた。
いざ口にしようとすると、胸の奥に押し込めていた恐怖が、再び込み上げてくる。
それでも、さとるは顔を上げた。
「剛。俺、決めたよ」
「……何をだ?」
「お前が考えてくれた、訓練用の魚雷のことだ。あの計画を、進められるかどうか、正式に確かめたい」
剛は、さとるをじっと見つめた。
「本当に、覚悟を決めたんだな」
「ああ」
さとるはうなずいた。
「ただし、薫を連れていけば何とかなるなんて、簡単に考えているわけじゃない。俺は、あいつを危険にさらしたくない。今だって、本当は自分のそばにいてほしいのと同じくらい、安全な場所で生きていてほしいと思っている」
その言葉を口にした途端、さとるの目が潤んだ。
「でも、薫の気持ちを聞いたんだ。あいつは、俺と一緒に死にたいと言っているんじゃない。俺と一緒に生きたいと言っている。俺だって同じだ。俺は死にたくない。薫と生きたいんだ」
剛は黙って聞いていた。
「だから、二人で一緒にいられる可能性があるなら、最後まで探したい。もちろん、訓練用の魚雷が本当に使えるのか、二人で乗ることが許されるのか、俺にはわからない。勝手に使えるものじゃないこともわかっている」
さとるは、剛の目を見た。
「それでも、正式に確認してほしいんだ。できることと、できないことを、はっきりさせたい」
剛は、ゆっくりとうなずいた。
「わかった。俺も、そのつもりだ」
「ありがとう」
「礼はいい。俺だって、お前たちに生きていてほしいんだからな」
剛は、少しだけ視線を落とした。
「最初は、薫を連れていくことに反対だった。あいつを危険に巻き込みたくなかったし、お前の気持ちもわかっていたからな。でも、あいつの覚悟を聞いて、ただ止めるだけでは何も変わらないと思った」
「……ああ」
「だからといって、危険なことを何でも認めるわけにはいかない。訓練用の魚雷は、実戦用の回天とは違う。二人で乗れると聞いたからといって、それが今回の出撃に使えるとは限らない。整備の状態も、用途も、上官の判断もある」
剛は、ひとつひとつ確かめるように話した。
「俺は、そこを曖昧にしたくない。使えないものを使えると言ったり、危険がないように見せかけたりするつもりはない。お前たちの命が懸かっているんだからな」
さとるは深くうなずいた。
「わかってる。俺も、薫に嘘はつきたくない」
「だったら、今日、確認してみる。まずは訓練用のものがどんな状態なのか、どういう目的で使われるものなのかを調べる。そのうえで、上官に相談する」
剛は、さとるの肩に手を置いた。
「ただ、ひとつ約束してくれ」
「何だ?」
「結果がどうなっても、勝手なことはするな。許可が出ないからといって、無断で乗り込むようなことはするなよ。俺はお前たちに生きてほしいんだ。無理に計画を進めて、余計な危険を増やしたくない」
さとるは、しっかりとうなずいた。
「ああ。約束する」
「よし」
剛は、さとるの肩を軽く叩いた。
「それと、薫にもちゃんと話しておけ。お前がどうするつもりなのか、何が決まっていて、何がまだ決まっていないのか。あいつも一緒に考えるんだろう?」
「そうする。もう、俺ひとりで決めたりしない」
その言葉を聞き、剛はわずかに表情を和らげた。
「だったら、行ってこい。俺は俺にできることをする」
さとるは、深く頭を下げた。
剛は友達だった。
厳しい訓練の中で、互いの恐怖を隠しながら過ごしてきた仲間だった。
その剛が、自分と薫のために動いてくれている。
そのことが、さとるには何より心強かった。
***
薫は、炊事場での手伝いを終え、片づけをしていた。
男の姿で船に乗り込んでから、彼女は自分の正体を知られないよう、細心の注意を払っていた。
不用意に声を出さない。
人から話しかけられたときは、うなずくか、首を横に振る。
困ったことがあれば、炊事係や剛に助けを求める。
何気ない動作ひとつにも気を配らなければならない日々だった。
けれど、薫は弱音を吐かなかった。
すべては、さとるに会うためだった。
そして今は、ただ会うだけではなく、彼と一緒に生きる道を探すためだった。
炊事係の男が、片づけを終えた薫に声をかけた。
「少し休んだらどうだ。ここ数日、ずっと気を張っているだろう」
薫は、心配をかけまいと小さく笑い、頭を下げた。
男は彼女の表情を見つめてから、声を落とした。
「剛が何か動いているらしいな」
薫は驚いたように顔を上げた。
「詳しいことは知らない。だが、あいつも必死なんだろう。お前たちがどうなるのか、俺にもわからない。それでも、できることがあるなら、最後まで諦めるな」
薫は、胸が熱くなった。
声を出してお礼を言うことはできなかった。
だから、深く頭を下げた。
そのとき、入り口の方にさとるの姿が見えた。
薫の胸が、大きく鳴った。
さとるは炊事係に目礼し、彼女のそばまで歩いてきた。
「薫。少し、話せるか?」
薫は、すぐにうなずいた。
炊事係が周囲を確かめ、二人が短く話せるように場所を空けてくれた。
さとるは、薫と向き合った。
昨日、回天が特攻兵器であることを話したときの、彼女の涙を思い出す。
怖いと言いながら、それでも一緒に行きたいと伝えてくれた。
その覚悟を、もう一度、確かめなければならなかった。
「薫。昨日から、ずっと考えていたんだ」
薫は静かにうなずいた。
「お前がどんな気持ちで、ここまで来たのか。俺と一緒にいたいと思ってくれていることも、わかっているつもりだった。でも、俺はお前を守りたいと思うあまり、何もかも自分ひとりで決めようとしていた」
さとるは、少し苦しそうに笑った。
「俺は、お前を失うのが怖いんだ。お前を連れていって、守れなかったらどうしようと思う。だけど、お前を残していって、二度と会えなくなったらと思うと、それも怖い」
薫の目に、涙が浮かんだ。
「俺は、どっちの未来も怖い。だからこそ、お前の気持ちを聞いて、一緒に考えたいと思った」
さとるは、まっすぐに薫を見つめた。
「俺、覚悟を決めたよ」
薫の表情が変わった。
「剛が考えてくれた、訓練用の魚雷のことだ。二人で乗れる可能性があると聞いた。剛は今日、その装備の状態や用途を確認して、上官に相談してくれることになった」
薫は、驚きと期待が入り混じった目で、さとるを見つめた。
「……本当に、一緒に行ける可能性があるのですか?」
「まだ、わからない」
さとるは、はっきりと答えた。
「二人で乗れるものがあるとしても、今の状況で使えるとは限らない。訓練用のものを出撃に使うことが認められるかもわからない。だから、俺はお前に、必ず一緒に行けるとは約束できない」
薫の顔に、緊張が戻った。
けれど、さとるは言葉を続けた。
「ただ、俺はもう、何もせずに諦めたくないんだ。お前と一緒に生きる道があるのなら、最後まで探したい。俺は、そのために剛と一緒に動くことを決めた」
薫の目から、涙がこぼれた。
「さとる……」
「それと、もうひとつ」
さとるは、彼女の目を見た。
「この計画を進めることになっても、危険がなくなるわけじゃない。俺はそれを忘れない。お前にも、忘れてほしくないんだ」
薫は、涙をぬぐい、しっかりとうなずいた。
「はい。わかっています」
「俺は、お前と死にたいわけじゃない。お前と生きたいんだ」
その言葉に、薫は唇を噛んだ。
「私もです」
「だから、もし一緒に行ける道が見つかったとしても、ただ命令に従って、何も考えずに進むつもりはない。俺たちに何ができるのか、どうすれば生きる可能性を少しでも残せるのか、きちんと考えたい」
薫は、涙を流しながら微笑んだ。
「私も、あなたと一緒に考えたいです」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
「それでいいんだ。お前の気持ちも、俺の気持ちも、どちらも大切にしながら決めたい」
薫は、そっと手を伸ばした。
周囲に人がいないことを確かめてから、二人は指先を重ねた。
ほんの一瞬のぬくもりだった。
それでも、その手の温かさが、さとるには何より確かなものに感じられた。
「さとる」
薫は、声を潜めた。
「私は、あなたと一緒に行きたいという気持ちは変わりません。でも、それは死にたいからではありません。あなたと生きる道を、最後まで諦めたくないからです」
「ああ。わかってる」
「だから、どうか、あなたも生きることを諦めないでください」
さとるの目に涙が浮かんだ。
「……諦めない。俺も、お前と生きたい」
薫は、何度もうなずいた。
「一緒に、未来を探しましょう」
その言葉は、二人の間に小さな灯りをともした。
それは、必ず助かるという約束ではない。
明日が保証されたという意味でもない。
ただ、二人が互いの気持ちを隠さずに、同じ方向を見つめ始めたということだった。
その日の午後、剛は訓練用の魚雷について、正式な確認を進めた。
記録を調べ、整備に関わる者に話を聞き、使用目的や現在の状態を確かめる。
二人で乗ることができるという話が事実だったとしても、それがどのような条件で使われるものなのか、確認しなければならなかった。
訓練用の装備は、実戦用の回天とは異なる。
訓練のために作られたものを、そのまま出撃に使えるとは限らない。
剛は、そのことを十分に理解していた。
だからこそ、噂だけを頼りに話を進めることはしなかった。
やがて、必要な確認を終えた剛は、上官のもとへ向かった。
「お話ししたいことがあります」
上官は、手元の書類から顔を上げた。
「何だ」
剛は緊張を押し隠しながら、訓練用の魚雷について相談したいと伝えた。
上官の表情は、すぐに厳しくなった。
「訓練用の装備を、出撃に使いたいということか?」
「まずは、現在の状態と用途を確認したうえで、使用の可能性があるかどうか、ご判断いただきたいのです」
剛は、慎重に言葉を選んだ。
「訓練用のものは、実戦用とは用途が異なります。二人で乗ることができるものがあると聞きましたが、それが今回の状況で使用できるかどうか、正式に確認する必要があると考えています」
上官は、しばらく剛を見つめていた。
「なぜ、そのようなことを調べている?」
剛は、一瞬だけ言葉に詰まった。
さとると薫の事情を、どこまで話すべきなのか。
二人を守りたい。
しかし、嘘を重ねて計画を進めるつもりもなかった。
「仲間に関わることで、確認しておきたいことがあるのです。ただ、規則に反することを勝手に進めるつもりはありません。使用できないのであれば、その判断に従います」
上官は、腕を組んだ。
「装備の使用方法を、個人の判断で変更することはできない。記録と整備状況を確認する。許可できるかどうかは、そのあとだ」
「承知しました」
剛は深く頭を下げた。
許可が出たわけではない。
計画が認められたわけでもない。
それでも、正式に確認してもらう道は開かれた。
剛はその場を離れながら、静かに息を吐いた。
――さとる、薫。まだ、結果はわからない。
けれど、これで終わりではない。
二人が生きる可能性を探すために、自分にできることを続ける。
剛は、その決意を胸に刻んだ。
***
夕方、さとるは船の甲板から海を見つめていた。
夕陽に照らされた水面は、穏やかに輝いていた。
この海の向こうには、沖縄がある。
その先には、戦場が待っている。
海は美しい。
けれど、今のさとるにとって、その美しさは残酷でもあった。
こんなにも美しい世界があるのに、どうして自分たちは、命を懸けて海へ向かわなければならないのだろう。
どうして、好きな人と一緒に生きるという、ただそれだけの願いが、こんなにも難しいのだろう。
さとるは、海を見つめたまま、薫のことを考えた。
彼女は、自分と一緒に行く覚悟を決めている。
その覚悟を、もう疑うつもりはなかった。
けれど、自分は彼女を守りたい。
一緒に生きたい。
その願いを、決して手放したくなかった。
「……薫」
さとるは、小さく名前を呼んだ。
「俺は、お前と生きたい」
その言葉を、今度は胸の中にしまい込まなかった。
恐怖があってもいい。
迷いがあってもいい。
生きたいと願ってもいい。
そう思えるようになったことが、さとるにとっては大きな変化だった。
剛が動いてくれている。
薫も、自分の気持ちを隠さずに伝えてくれた。
二人の未来は、まだ何ひとつ決まっていない。
訓練用の魚雷が使えるかどうかも、上官が許可してくれるかどうかも、わからない。
けれど、もう何もせずに別れを待つつもりはなかった。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、剛が立っていた。
「さとる」
「剛。どうだった?」
剛は、すぐには答えなかった。
そして、静かに告げた。
「正式に確認してもらえることになった。だが、許可が出たわけじゃない。装備の状態や使用目的を調べたうえで、判断するそうだ」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
「そうか……」
「まだ、何も決まっていない。期待しすぎるなよ」
「ああ。わかってる」
さとるは海へ視線を戻した。
「でも、ありがとう。お前が動いてくれたおかげで、まだ諦めずにいられる」
剛は、さとるの隣に立った。
二人はしばらく、何も言わずに海を見つめていた。
やがて剛が、静かに口を開いた。
「さとる。俺は、お前たちに生きてほしい。だから、何ができるのか、最後まで考えるつもりだ」
「……ああ」
「ただ、どんな結果になっても、命を粗末にするな。お前も薫も、生きたいんだろう?」
さとるは、強くうなずいた。
「そうだ。俺たちは、生きたいんだ」
その言葉は、夕暮れの海へ静かに消えていった。
出撃の時刻は、確実に近づいている。
戦争の現実は、何ひとつ変わっていない。
それでも、さとるは初めて、自分の意思で未来を探そうとしていた。
薫と一緒に生きる可能性を。
そして、いつか二人で、戦争のない海を眺める未来を。
その未来が本当に訪れるのか、まだ誰にもわからなかった。
けれど、さとるはもう、ただ命令の日を待つだけではなかった。
剛も、薫も、それぞれの場所で動き始めている。
三人の願いが交わるその先に、どんな結果が待っているのか。
その答えは、まだ出ていなかった。




