第六十九話 帰れない海と、あなたへの覚悟
第六十九話 帰れない海と、あなたへの覚悟
出撃まで、残された時間は二日。
朝の光が船の窓から差し込んでいた。
けれど、さとるの心は少しも明るくならなかった。
昨夜、薫と交わした言葉が、何度も胸の中によみがえっていた。
――私は、さとるとなら、どんな人生も覚悟できます。
――さとるのいない未来が、一番苦しい未来だから。
薫の言葉は、さとるにとって何よりも嬉しかった。
自分と同じように、彼女も一緒に生きたいと願ってくれている。その気持ちを疑うつもりはなかった。
けれど、だからこそ、さとるは伝えなければならないことがあった。
これまで、薫には自分の恐怖を話してきた。
死ぬのが怖いこと。
離れたくないこと。
戦争が終わったら、一緒に暮らしたいこと。
しかし、まだ、いちばん大切なことを十分に伝えていなかった。
回天は、人間が乗り込む特攻兵器だった。
出撃すれば、帰還することを前提とした任務ではない。
機体に不具合が起きても、海の中で何があっても、必ず助かるという保証はない。母艦へ戻れる見込みもなく、命を落とす可能性が極めて高い。
さとるは、その現実から目をそらしたまま、薫の覚悟を受け入れることはできなかった。
彼女が自分と一緒に来ることを選ぶのなら、知らないまま選ばせたくなかった。
どんなに残酷でも、真実を伝えなければならない。
「……薫に、全部話そう」
さとるは、小さくつぶやいた。
それは、彼女を説得するためだけではなかった。
自分自身が、恐怖から逃げずに向き合うためでもあった。
***
昼過ぎ、剛が手配してくれた短い時間に、さとると薫は人目につかない場所で向き合った。
近くでは兵士たちが忙しく行き交っていた。出撃前の点検や準備が進み、船内には普段以上の緊張が漂っている。
二人に与えられた時間は、決して長くなかった。
薫は、さとるの顔を見るなり、静かに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、さとるは言葉を失った。
好きだった。
初めて高台で目が合ったときから、ずっと好きだった。
戦争がなければ、今ごろ二人は何をしていただろう。
港で会う約束をして、薫の好きなものを聞いて、いつか一緒に暮らす場所を探していたかもしれない。
朝になれば、また会える。
明日も、明後日も、その先も。
そんな当たり前の未来を、二人で夢見ていたかった。
けれど、今の自分に残された時間は、出撃までのわずかな日々だった。
「薫」
さとるは、彼女の名を呼んだ。
「今日は、ちゃんと話しておきたいことがある」
薫は表情を引き締め、うなずいた。
「はい」
「昨日、剛から訓練用の魚雷の話を聞いただろう。二人で乗れるものがあるかもしれないって」
「はい。剛さんが上官に話してくださると聞きました」
「まだ、どうなるかわからない。許可が出るかどうかも、代わりのものを使えるかどうかも、何も決まっていない」
さとるは一度、息を吸った。
「でも、その話をする前に、お前に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
薫は、黙って彼を見つめていた。
さとるは、彼女の目から逃げないように、まっすぐに見返した。
「回天は……特攻兵器なんだ」
その言葉を口にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
わかっていたことだった。
入隊してから、何度も聞かされてきたことだった。
それでも、愛する人に向かって説明するとなると、ひとつひとつの言葉が刃のように自分の胸へ返ってきた。
「人間が乗って、敵の艦船に向かうための兵器だ。俺たちは、そのための訓練を受けてきた。出撃すれば、帰ってくることを前提にはできない」
薫の唇が、わずかに震えた。
さとるは続けた。
「俺は、命令を受けた。出撃することになった。海の中で何が起きるか、俺にもわからない。機体に問題が起きても、助けてもらえるとは限らない。母艦に戻れるとも限らない」
声がかすれた。
「つまり……生きて帰れる保証なんて、どこにもないんだ」
薫は何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
さとるは、彼女の表情を見つめながら、さらに言葉を重ねた。
「いや、そんな言い方じゃ足りないな」
彼は苦しそうに目を伏せた。
「回天は、帰還を前提としない特攻兵器なんだ。俺は、出撃したら二度とお前に会えないかもしれない。お前の名前を呼ぶことも、手を握ることも、もうできないかもしれない」
そこで言葉が途切れた。
本当は、言いたくなかった。
彼女を悲しませたくなかった。
少しでも希望を残しておきたかった。
けれど、都合のいい言葉だけを並べて薫を連れていくことは、彼女の覚悟に対して不誠実だった。
「薫。俺は、死ぬかもしれないんだ」
とうとう、その言葉を口にした。
「海の中で、誰にも見つけてもらえないまま、命を落とすかもしれない。お前のところへ帰りたくても、帰れないかもしれない。戦争が終わったあと、お前と暮らすことも、約束した未来を迎えることもできないかもしれない」
さとるの目に涙が浮かんだ。
「それでも、お前は俺と一緒に行くと言うのか?」
薫は、すぐには答えなかった。
彼女の胸の中で、さとるの言葉が何度も繰り返されていた。
特攻兵器。
帰還を前提としない。
生きて帰れる保証はない。
二度と会えないかもしれない。
それは、彼女が心のどこかで理解していたことだった。
けれど、さとるの口からはっきりと聞かされると、その現実は想像していたよりも重かった。
薫は、死ぬことを軽く考えていたわけではない。
命が失われることを、怖くないと思っていたわけでもない。
ただ、さとるを失う未来を思うたびに、心が引き裂かれるようだった。
今、その恐ろしさが、初めて本当の形を持って目の前に現れた。
薫はうつむき、両手を強く握りしめた。
さとるは、彼女の返事を待った。
もし、怖いから行かないと言われても、責めるつもりはなかった。
むしろ、それが正しい選択なのかもしれないと思っていた。
彼女には生きていてほしい。
自分のいない世界であっても、命をつないでほしい。
それが、さとるの願いだった。
やがて、薫が顔を上げた。
目には涙があった。
それでも、その瞳はさとるをまっすぐに見つめていた。
「……怖いです」
薫は、正直に言った。
「とても怖いです。さとるが帰ってこないかもしれないと考えるだけで、胸が苦しくなります。あなたが海の中でひとりになることも、もう二度と会えなくなることも、考えたくありません」
さとるは、黙ってうなずいた。
「私だって、生きたいです」
薫の声が震えた。
「あなたと一緒に生きたい。朝になったら目を覚まして、あなたの顔を見たい。食事をして、何でもない話をして、夕方になったら、また明日も会おうねって言いたい」
涙が頬を伝った。
「戦争が終わったら、あなたと暮らしたいんです。高台から海を見るだけじゃなくて、あなたと一緒にいろいろな場所へ行きたい。季節が変わるのを見て、年を重ねて、いつか今日のことを思い出して、あのときは本当に怖かったねって笑いたい」
さとるの目からも、涙がこぼれた。
薫が望んでいる未来は、自分が望んでいるものと同じだった。
二人は死を求めているのではない。
生きて、普通の毎日を送りたいのだ。
けれど、薫は、そこで言葉を止めなかった。
「それでも……私は、あなたと一緒にいたい」
さとるは息をのんだ。
「薫……」
「あなたが特攻兵器に乗ることも、帰ってこられないかもしれないことも、今、あなたの口から聞きました。知らなかったわけではありません。でも、あなたがどれほど怖いのか、どれほど生きたいと思っているのか、私は、もっとちゃんと知りたかったんです」
薫は、涙をぬぐった。
「あなたが死ぬかもしれないことを、軽く考えているわけではありません。あなたの命を、どうでもいいと思っているわけでもありません」
一歩、さとるに近づく。
「私は、あなたに生きてほしい。心から、そう願っています」
さとるの顔が歪んだ。
「だったら……」
「でも、あなたが生きたいと願っていることと、私があなたと一緒にいたいと願うことは、どちらかひとつしか選べないのでしょうか」
その問いに、さとるは答えられなかった。
薫は続けた。
「私は、あなたと一緒に行けば、必ず死ぬことになるなんて思っていません。そんなふうに考えているわけではないんです。生きて帰れる保証がないことは、わかっています。それでも、二人で生きる道を探したい」
彼女は、震える息を整えた。
「もし、あなたがひとりで出撃して、帰ってこなかったら。私は残された場所で、あなたがどんな気持ちで海へ向かったのか、最後に何を思ったのか、それを知ることさえできないかもしれません」
「薫、俺は……」
「あなたが怖かったことも、生きたかったことも、全部知っていたいんです。あなたの気持ちを知らないまま、ただ帰りを待つのは嫌なんです」
薫は、涙を流しながら微笑んだ。
「私は、あなたとなら、どんな人生も覚悟できます」
さとるは、首を横に振った。
「どんな人生だって……そんな簡単なことじゃない。俺たちが向かう先は、普通の暮らしじゃないんだ。いつ命を失うかわからない場所なんだぞ」
「わかっています」
「本当にわかっているのか? お前は、まだ二十歳なんだ。これから先、いくらでも生きていける。俺なんかと一緒に、そんな危険を背負う必要はないんだ」
薫は、悲しそうに笑った。
「さとる。あなたは、自分の命を軽く考えているわけではないでしょう?」
「当たり前だ」
「だったら、私の命も、私の人生も、私自身が選ぶものだと考えてください」
さとるは言葉を失った。
薫の声は、静かだった。
けれど、その静けさの中に、揺るがない覚悟があった。
「私は、あなたと一緒に生きるために、ここまで来ました。あなたと一緒に死ぬために来たんじゃありません。あなたと生きる未来を、最後まで諦めたくないから来たんです」
薫は、さとるの手をそっと握った。
「もし、二人で乗れる道が本当にあるのなら、私は一緒に行きたいです。危険があることを知ったうえで、それでもあなたのそばにいたい」
さとるの涙が止まらなかった。
「……俺は、お前を幸せにできるかわからない」
「私だって、あなたを幸せにできるかなんて、わかりません」
薫は、ほんの少しだけ笑った。
「でも、だからこそ、二人で考えたいんです。どちらかひとりが勝手に諦めるんじゃなくて。あなたが私を守ろうとしてくれるように、私もあなたを支えたい」
そして、薫は、はっきりと言った。
「さとる。私は、あなたと一緒に行く覚悟をしています」
その言葉を聞いたとき、さとるの胸に、喜びと恐怖が同時に押し寄せた。
愛する人が、自分のそばにいてくれる。
そのことは、何よりも嬉しかった。
しかし、もし本当に一緒に行くことになれば、自分は彼女の命を守れるのだろうか。
二人で乗ることができたとしても、その先に何が待っているのかはわからない。
さとるは、薫の手を握り返しながら、声を震わせた。
「……俺は、お前と生きたい」
「はい」
「本当に、生きたいんだ。お前と一緒に、戦争が終わる日を迎えたい。お前と暮らしたい。お前を守るだけじゃなくて、お前に守ってもらいながら、普通の人間として生きていきたい」
薫は、何度もうなずいた。
「私もです」
「でも、もし……」
さとるは、その先を言えなかった。
もし二人とも帰れなかったら。
もし、この手を握ることが最後になったら。
もし、二人で望んだ未来が、海の底で途切れてしまったら。
そのすべてが、恐ろしかった。
薫は、彼の手を両手で包んだ。
「さとる。今は、まだ何も決まっていません。剛さんが上官に話をしてくださることも、訓練用の魚雷に乗れるかどうかも、これからです」
「ああ……」
「だから、まだ諦めないでください。私も諦めません」
さとるは、長い時間をかけて、ようやくうなずいた。
「……わかった」
それは、一緒に行くと決めた返事ではなかった。
薫の覚悟を受け止め、彼女と一緒に考えると決めた返事だった。
「俺はまだ怖い。お前を失うのが怖い。お前を連れていって、守れなかったらと思うと、どうしても決められない」
「はい」
「でも、お前の気持ちを聞かずに、俺ひとりで決めることはしない」
薫の瞳に、少しだけ安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう、さとる」
「礼を言うのは俺の方だ」
さとるは、薫の手をそっと握りしめた。
「俺の本当の気持ちを、ちゃんと聞いてくれてありがとう。俺が怖いと言っても、生きたいと言っても、そばにいてくれてありがとう」
薫は、涙をぬぐいながら微笑んだ。
「あなたの気持ちを、隠さないでください。私は、あなたの強いところだけを好きになったんじゃありません。怖がっているあなたも、生きたいと願っているあなたも、全部好きなんです」
さとるは、とうとう声を立てずに泣いた。
誰にも見せたくなかった弱さを、薫は弱さとして責めなかった。
生きたいと願うことを、恥ずかしいことだとは言わなかった。
彼女もまた、生きたいと願っていた。
二人で生きたい。
その願いが同じであることを、ようやく確かめることができた。
***
二人が別れたあと、剛はさとるのところへ戻ってきた。
「話せたか?」
さとるは、静かにうなずいた。
「全部、話した。回天が特攻兵器であることも、帰ってこられる保証がないことも」
「薫は、なんて?」
「それでも、一緒に行く覚悟があるって」
剛は、目を閉じて短く息を吐いた。
予想していた答えだった。
それでも、実際に聞くと胸が重くなった。
「……そうか」
「剛。俺は、まだ決められない」
さとるは正直に言った。
「薫と一緒にいられる可能性があるなら、そうしたい。でも、あいつを危険に巻き込むことが正しいのか、まだわからないんだ」
「わからなくて当然だ」
剛は、さとるの肩を叩いた。
「命が懸かっているんだ。簡単に決められることじゃない。だからこそ、上官に話す前に、俺ももう一度、できることを確かめる」
「……頼む」
「任せろ。ただし、まだ期待しすぎるな。許可が出なければ、この話は進められない。出たとしても、それで安全になるわけじゃない」
「ああ。わかってる」
剛は、遠くに見える整備場へ目を向けた。
「それでも、何もせずに終わらせるつもりはない」
その言葉を聞き、さとるは深く頭を下げた。
剛は、二人のために危険を引き受けようとしている。
そのことを、さとるは決して忘れないと思った。
***
夜、薫は船の片隅で、ひとり海のことを考えていた。
昼間、さとるから聞かされた言葉が、何度も心の中によみがえった。
――俺は、死ぬかもしれないんだ。
その言葉を思い出すたびに、胸が締めつけられた。
本当は、怖い。
さとるが帰ってこない未来を、考えるだけで涙が出る。
自分がどれほど覚悟を決めても、彼の命を救えるとは限らない。
一緒に行くことができたとしても、二人とも生きて戻れる保証などない。
それでも、薫は自分の決意を変えなかった。
ただ、ひとつだけ、昼間よりも強く思うことがあった。
自分は、さとると一緒に死にたいのではない。
さとると一緒に生きたいのだ。
生きて帰れる保証がない場所へ向かうことを、簡単に選べるわけではない。
だからこそ、二人で乗れる道があるのなら、そこにどんな危険があるのかを確かめたい。
さとるの気持ちを聞きたい。
自分の気持ちも、最後まで伝えたい。
そして、もし一緒に行くことが許されるのなら、ただ運命に身を任せるのではなく、最後まで生きることを諦めずにいたい。
薫は、胸元に手を当てた。
そこには、さとると過ごした日々があった。
高台で見た海。
初めて交わした言葉。
誰にも知られてはいけなかった、二人だけの秘密。
別れ際に交わした「また明日」という言葉。
どれも、戦争がなければ、もっと長く続いていたはずの時間だった。
「……さとる」
薫は、声にならないほど小さく名前を呼んだ。
「私は、あなたと生きたい」
その願いは、どんな覚悟よりも深いところにあった。
死ぬことを受け入れたから一緒に行くのではない。
帰れないかもしれない現実を知ったうえで、それでも生きる可能性を二人で探したいから、一緒に行きたいのだ。
薫は涙をぬぐい、顔を上げた。
明日になれば、剛が上官に話をする。
その結果がどうなるのか、まだわからない。
けれど、さとるはもう、自分の本当の気持ちを隠してはいなかった。
薫もまた、自分の覚悟を伝えた。
二人の未来は、まだ決まっていない。
だからこそ、諦めるには早かった。
同じ夜、さとるは眠れずにいた。
薫にすべてを話したことで、胸の中にあった重いものが、少しだけ形を変えていた。
死ぬことが怖い。
帰りたい。
薫と生きたい。
その気持ちは、何ひとつ変わっていない。
むしろ、薫が自分の言葉を受け止めてくれたことで、いっそう強くなっていた。
さとるは暗い天井を見つめた。
回天は、帰還を前提としない特攻兵器だ。
その現実を、これから変えることはできないかもしれない。
しかし、自分の心まで命令に明け渡す必要はないはずだった。
生きたいと願うこと。
大切な人を守りたいと思うこと。
恐怖を抱きながら、それでも未来を求めること。
それらは、兵士である前に、人間として当たり前の気持ちだった。
さとるは、薫の顔を思い浮かべた。
「……俺は、お前と生きたい」
声に出すと、涙が一筋、頬を伝った。
それは、死を覚悟した者の最後の言葉ではなかった。
生きることを諦めたくない者の願いだった。
出撃まで、残された時間は二日。
明日、剛が上官に話をする。
訓練用の魚雷に二人で乗るという案が認められるのか。
それとも、すべてがここで終わるのか。
まだ、誰にもわからない。
ただ、さとると薫は、互いに真実を伝え合った。
帰れないかもしれない海があること。
それでも、二人で生きる未来を諦めたくないこと。
そして、恐怖を隠さずに、互いの覚悟を受け止めること。
その夜、二人は別々の場所にいながら、同じ願いを胸に抱いていた。
――どうか、二人で生きる道がありますように。
それは、誰にも聞こえない、小さな祈りだった。




