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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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最終章・君と見た最後の海 ――魚雷の中で交わした、最後の約束――

最終章・君と見た最後の海

――魚雷の中で交わした、最後の約束――


「出撃!」


号令が響いた。


ドンッ――!!


全身を突き上げるような衝撃が、二人を襲った。


ガガガガガガッ――!!


金属が激しく震え、訓練用魚雷が船体から押し出される。さとるは反射的に薫の手をつかんだ。


「薫!」


「さとる!」


二人の声が重なった。






次の瞬間、機体は海へ飛び出した。


ゴォォォォォ――ッ!!


轟音と振動。全身を揺さぶる衝撃。狭い機内で体が前後に振られ、二人は互いの手を必死に握りしめた。


海の中へ入った途端、外の世界が変わった。


甲板で聞こえていた人の声も、仲間たちの足音も、上官の怒声も、もう聞こえない。


聞こえるのは、機体の震える音と、耳の奥に響く低い唸りだけだった。


そして、自分たちの荒い呼吸。


「……薫、大丈夫か!」


さとるは、声を張り上げた。


「うん! 大丈夫!」


薫は答えたが、その声は震えていた。


本当は大丈夫ではなかった。


怖かった。


暗い機内。激しい振動。外に広がる、どこまでも冷たい海。


自分たちが今、どこへ向かっているのか。


あとどれくらい進めば、何が起きるのか。


そのすべてが、恐ろしかった。


薫は、さとるの手を強く握った。


「さとる……手を離さないで」


「離さない。絶対に離さないから」


さとるは、そう答えた。


けれど、自分自身の手も震えていた。


強がることなどできなかった。


死にたくなかった。


本当は、今すぐこの機体を止めて、海の上へ戻りたかった。


薫を連れて、あの丘へ帰りたかった。


初めて二人で海を見た、あの場所へ。


戦争などなかったかのように、ただの青年と少女として、もう一度笑い合いたかった。


しかし、機体は進み続けていた。


ゴォォォォォ――ッ。


その音は、まるで二人を急き立てるようだった。


「薫……」


「うん?」


「怖いか?」


薫は、すぐには答えなかった。


さとるの手を握り、涙を浮かべた目で彼を見つめた。


「……怖いよ」


ようやく、声が出た。


「すごく怖い。こんなに怖いなんて、思わなかった」


さとるは、黙ってうなずいた。


「私、ここに来るまでは、あなたに会うことばかり考えていたの。会えたら、それでいいと思っていた。あなたの顔を見て、声を聞いて、一緒にいられたら、それだけで……」


薫の声が途切れた。


「でも、今は……」


涙が頬を伝った。


「もっと一緒にいたい。まだ話したいことがある。まだ、あなたと行きたい場所がたくさんある」


さとるは、胸が張り裂けそうになった。


「……俺もだ」


彼は薫の手を両手で包もうとした。


狭い機内では、思うように体を動かすことさえ難しかった。それでも、少しでも彼女に近づこうと、肩を寄せた。


「俺も、まだ君と一緒にいたい」


「さとる……」


「君と結婚したかった。戦争が終わったら、君を迎えに行って、二人で暮らしたかった」


言葉にした途端、胸の奥にしまい込んでいた未来が、鮮やかによみがえった。


小さな家。


朝の光が差し込む部屋。


湯気の立つ食卓。


帰ってきた自分を、玄関で迎えてくれる薫。


そんな、誰にでもあるはずの暮らし。


さとるにとっては、それが何よりも大切な夢だった。


「朝、目を覚ましたら君がいてさ。俺が寝坊したら、君に怒られて……。それでも、君は最後には笑ってくれるんだろうな」


涙で視界がぼやけた。


「そんな毎日が欲しかった」


薫は、声を押し殺して泣いた。


「私も……。あなたが帰ってきたら、おかえりって言いたかった。今日あったことを話して、一緒にご飯を食べて……。あなたが疲れていたら、何も言わずに隣にいたかった」


「……ああ」


「特別なことなんて、いらなかったの」


薫は、さとるの手に頬を寄せた。


「ただ、あなたと一緒に生きたかった」


さとるは目を閉じた。


その願いは、あまりにも小さかった。


誰かを傷つけたいわけではなかった。


誰かに褒められたいわけでもなかった。


ただ、愛する人と生きたかった。


それだけだった。


それなのに、二人は今、暗い海の中を進む機体に閉じ込められている。


外の海は見えない。


空も見えない。


自分たちが生きている世界が、どれほど広いのかさえ、わからなくなりそうだった。


「薫……」


「うん」


「俺、今までずっと、怖いって言えなかった」


薫は、彼の顔を見た。


「訓練のときも、仲間の名前が呼ばれたときも、出撃の命令が出たときも……。本当は、ずっと怖かった。自分の名前が呼ばれるのが怖かった。明日が来るのが怖かった」


さとるの声が震えた。


「でも、怖いなんて言ったら、兵士として失格なんじゃないかって思っていた」


「そんなことないよ」


薫は、すぐに答えた。


「怖いのは、生きたいからだよ」


その言葉に、さとるは薫を見つめた。


「生きたいから……」


「うん。あなたは、ちゃんと生きたいと思っているんだよ。私と一緒に、未来を迎えたいと思っているんだよ」


薫は涙をぬぐった。


「私は、その気持ちを恥ずかしいなんて思わない。あなたが怖いと話してくれて、うれしいよ。だって、あなたの本当の気持ちを聞けたから」


さとるは、かすかにうなずいた。


彼女の言葉が、胸の奥に染み込んでいった。


怖くてもいい。


泣いてもいい。


生きたいと願ってもいい。


それは、最後まで失ってはならない人間の気持ちなのだ。


「……ありがとう、薫」


「どうして、ありがとうなの?」


「君が、俺を一人の人間として見てくれるから」


薫は、泣きながら微笑んだ。


「当たり前でしょう。あなたは、さとるだもの」


その一言に、さとるの目から涙がこぼれた。


兵士としての自分でもない。


命令を受ける者としての自分でもない。


誰かのために死ぬことを求められる自分でもない。


薫が見ているのは、ただ、さとるだった。


二十歳の青年。


怖がりで、不器用で、時には強がるけれど、心から彼女を愛している人。


さとるは、薫の手を握りしめた。


「薫。もし、もう一度、あの丘へ戻れるなら……」


「うん」


「今度は、もっと長く一緒にいよう。夕日が沈んでも帰らないで、星が出るまで海を見ていよう」


薫は、目を閉じてうなずいた。


「うん。そうしよう」


「それから、君に言いたいことがある」


「何?」


さとるは、涙を浮かべたまま微笑んだ。


「君と出会えて、幸せだった」


薫は、首を横に振った。


「過去のことみたいに言わないで」


「……ごめん」


「私は、これからもあなたと一緒にいたいの。だから、まだ終わったみたいに言わないで」


さとるは、息をのんだ。


薫は、自分の願いを口にしていた。


終わりを受け入れたいのではない。


終わりなど、来てほしくない。


それでも、目の前の現実が刻一刻と迫っていることは、二人とも感じていた。


「……そうだな」


さとるは、彼女の手を握り直した。


「まだ終わっていない」


「うん」


「俺たちは、まだここにいる」


「うん」


「だから、今は一緒にいよう」


薫は、静かにうなずいた。


二人は肩を寄せ合った。


狭い機内に、二人の呼吸が重なった。


機体は進み続けていた。


ゴォォォォォ――ッ。


その音の向こうに、敵軍の艦船が近づいていた。


***

やがて、さとるは前方の計器に目を向けた。


見慣れない振動が、機体を揺らしていた。


訓練用魚雷で、本当に出撃できるのか。


正式な許可も、安全の保証もないまま、二人はここまで来てしまった。


さとるは、その事実を改めて思い知らされた。


「薫……」


「何?」


「俺たちは、本当にここまで来てしまったんだな」


薫は、彼の目を見つめた。


「うん」


「……戻れたらいいのにな」


口にした途端、さとるの顔が歪んだ。


それは、弱音だった。


けれど、隠す必要はなかった。


「戻りたい。君を連れて、帰りたい。こんなところじゃなくて、あの丘へ帰りたい」


薫は、さとるの手を強く握った。


「私も帰りたい」


二人は、互いの気持ちを確かめ合った。


この出撃を、勇ましい言葉で飾ることはできなかった。


恐怖があった。


後悔もあった。


生きたいという願いがあった。


そして、まだ見ぬ明日への思いがあった。


さとるは、目を閉じた。


脳裏に、剛の顔が浮かんだ。


「帰ってこいよ、さとる」


あの声が、耳の奥によみがえった。


料理人の顔も浮かんだ。


自分たちを心配し、危険を承知で見守ってくれた人たち。


そして、訓練の日々をともに過ごした仲間たち。


彼らもまた、家族のもとへ帰りたかったのだろう。


恋人に会いたかった者もいたかもしれない。


母親の作った食事を、もう一度食べたかった者もいたかもしれない。


誰にも言えない夢を、胸に抱いていた者もいたかもしれない。


けれど、戦争は彼らの願いを一つずつ奪っていった。


「薫……俺、剛に謝りたい」


「剛さんに?」


「ああ。あいつは最後まで、俺たちを止めようとしてくれた。俺たちを助けようとしてくれたのに……」


さとるは唇をかんだ。


「きっと、悲しむだろうな」


薫の目にも涙が浮かんだ。


「うん……」


「俺たちが戻らなかったら、あいつは自分を責めるかもしれない」


「そんなこと、してほしくないね」


「……ああ」


さとるは、薫の手を握った。


「剛には、生きてほしい。俺たちの分まで、なんて言いたくない。ただ、あいつ自身の人生を生きてほしい」


薫は、静かにうなずいた。


「私もそう思う」


しばらく、二人は何も言わなかった。


機体の音だけが続いていた。


ゴォォォォォ――ッ。


その音は、二人の言葉を飲み込んでいく。


やがて、薫が小さく口を開いた。


「さとる。私ね、あなたに一つだけ約束してほしいことがあるの」


「何だ?」


「もし……もしも、あなたが帰れたら」


さとるは、彼女を見た。


薫は涙をこらえながら、言葉を続けた。


「私と一緒に見た海のことを、忘れないで。私たちが生きたいと思ったことを、忘れないで」


さとるは、答えられなかった。


薫は、彼の手を包み込んだ。


「あなたが生きて帰れたなら、私のことを悲しい思い出だけにしないで。私たちが笑ったことも、未来を夢見たことも、ちゃんと覚えていてほしい」


さとるの頬を、涙が伝った。


「……薫」


「あなたには、生きてほしい」


その言葉は、さとるの胸に深く突き刺さった。


彼女は、自分と一緒に死ぬことを望んでいるのではない。


本当は、彼に生きてほしいのだ。


そして自分も、生きたかった。


二人で一緒に。


「俺も、君に生きてほしい」


さとるは、ようやく答えた。


「君と一緒に帰りたい。君に生きていてほしい。君の笑顔を、もう一度見たい」


「うん……」


「薫。俺たちは、本当は、こんなところに来るはずじゃなかったんだ」


薫は、涙を流しながらうなずいた。


「うん。私たちは、もっと普通に生きていたかった」


その言葉が、二人の間に静かに落ちた。


普通に生きる。


朝起きて、食事をして、働いて、帰って、眠る。


好きな人と話し、時にはけんかをして、仲直りをする。


明日も、その次の日も、同じように生きていけると信じる。


そんな暮らしが、二人の夢だった。


その夢を奪ったのは、二人の恋ではなかった。


戦争だった。


***


そのとき、機体の前方に、大きな影が見えた。


敵軍の艦船だった。


さとるは息をのんだ。


遠くにあった影が、次第に大きくなっていく。


もう、目をそらすことはできなかった。


薫も、その影に気づいた。


「……さとる」


「ああ」


二人は、互いの手を握りしめた。


恐怖が、一気に押し寄せた。


さとるの胸は激しく打ち、呼吸が乱れた。


これが、本当に最後になるのだろうか。


もう二度と、あの丘へ戻れないのだろうか。


薫の笑顔を、もう見られないのだろうか。


「薫……!」


「ここにいるよ!」


「俺は……まだ、君と一緒にいたい!」


「私も!」


薫は、涙を流しながら叫んだ。


「私も、あなたと一緒に生きたい!」


その声が機内に響いた。


二人は、互いを見つめた。


もう、未来を約束することはできなかった。


「愛している」


さとるが言った。


薫は、泣きながらうなずいた。


「私も、愛している」


「君と出会えてよかった」


「私も……あなたに出会えてよかった」


さとるは、薫を抱きしめようとした。


狭い機内で、二人はできる限り互いに身を寄せた。


彼女の肩の温もり。


握り合った手。


涙で濡れた頬。


それらが、さとるにとって最後まで失いたくないものだった。


「薫……」


「うん」


「ごめんな」


薫は、首を横に振った。


「謝らないで」


「君を、こんなところに連れてきてしまった」


「私が、自分で選んだ道だよ」


「それでも……」


「さとる」


薫は、彼の目をまっすぐに見つめた。


「私たちが本当に望んでいたのは、死ぬことじゃない。生きることだった。それだけは、忘れないで」


さとるは、涙を流しながらうなずいた。


「……ああ」


前方の艦船が、さらに大きくなった。


機体の振動が激しくなる。


金属がきしみ、低い音が一段と強くなった。


さとるは、薫の手を最後まで握りしめた。


「薫!」


「さとる!」


二人は、互いの名を呼んだ。


その声は、機体の轟音に飲み込まれていった。


ドォォォォォン――!!


激しい衝撃が走った。


白い光。


轟音。


海を震わせる爆発。


大きな水柱が上がり、黒い煙が空へと立ち上った。


二人の乗る機体は、敵軍の艦船に激突した。


そして――。


二十歳のさとると薫は、二度と帰らない命となった。


***


海は、何も語らなかった。


ただ、波が寄せては返していた。


二人が初めて一緒に見た海も、最後に向かった海も、同じ海だった。


けれど、その海の下には、二人が夢見た未来はなかった。


二人が暮らすはずだった家。


一緒に歩くはずだった道。


いつか迎えるはずだった朝。


それらは、どこにも残されなかった。


残されたのは、二人を知る人々の記憶だった。


剛は、遠くに立ち上る煙を見つめていた。


「……さとる」


声が震えた。


「薫……」


返事はなかった。


剛は、ただ海を見つめ続けた。


二人は、本当は生きたかった。


愛する人と一緒に暮らしたかった。


戦争が終わった世界を見たかった。


その願いを、剛は知っていた。


だからこそ、涙が止まらなかった。


「……どうしてだよ」


剛は、誰に向けるでもなくつぶやいた。


「どうして、お前たちが……」


その問いに答える者はいなかった。


戦争は、何も説明しなかった。


ただ、若い命を奪い、残された者たちに悲しみを背負わせた。


***

二人が最後に見た海は、静かに波を寄せている。


さとるが夢見た未来。


薫が願った明日。


二人が交わした約束。


そのすべては、海の向こうへ消えていった。


けれど、二人が生きていたこと。


互いを愛していたこと。


そして、心の底から生きたいと願っていたことまで、消えてしまったわけではない。


戦争の中にも、人がいた。


死ぬことを恐れた人がいた。


帰りたいと願った人がいた。


愛する人と、何でもない毎日を送りたかった人がいた。


さとると薫は、英雄として生まれたのではなかった。


二人は、ただの二十歳の恋人たちだった。


その二人から、未来が奪われた。


だからこそ、私たちは忘れてはならない。


平和とは、ただ戦争が起きていないということだけではない。


大切な人に会えること。


自分の未来を、自分で選べること。


明日も生きていたいと、安心して願えること。


そんな日々を守ることなのだ。


海は今日も、静かに波を寄せている。


あの日、二人が最後に向かった海を。


そして、二人が生きたかった未来を。


**二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。**


――二度と、こんな悲しい恋を生まないために。


――二度と、若い命が戦争に奪われないために。


――私たちは、平和な明日をつないでいく。


**完**





この物語はフィクションです。


しかし、かつて「回天」という人間魚雷に乗り、日本のため、そして家族のために命を捧げた若者たちがたくさんいたことを知り、私はとても胸が苦しくなりました。


今ある平和が、これからも永久に続いていくために――。

戦争という悲しい出来事を、どうすれば伝えていけるのだろう。


そう考えたことが、この悲しい恋愛物語を創作するきっかけとなりました。


戦争という時代の中で、二人が交わした短い恋。


それは、未来へ続くことはありませんでした。


それでも、最後の海へ向かった二人の心には、確かに愛がありました。


この物語が、二人が見つめた海と、そこに咲いた二十歳の恋を、少しでも心に残していただけたら幸いです。

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