↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/100

第九話 目が合った二人

第九話 目が合った二人


 翌朝。


 故郷の空は、薄い雲に覆われていた。


 まだ太陽が高く昇っていない。


 家の中には、朝の静かな時間が流れていた。


 文江はいつもより早く目を覚ました。


 布団を出ると、まず台所へ向かう。


 昨日、さとるから届いた手紙のことが頭から離れなかった。


 ――戦争が終わったら、また家でご飯を食べたいです。


 ――母さんのご飯が食べたいです。


 何度読み返しても、その言葉が胸に残っている。


 文江は米を研ぎながら、ふと手を止めた。


「……何を作ろうかね」


 息子が帰ってきたときのことを考えていた。


 さとるが好きだったもの。


 温かいご飯。


 味噌汁。


 焼いた魚。


 それから、子どもの頃から好きだった煮物。


 考えているうちに、文江の顔に小さな笑みが浮かんだ。


「いっぱい作らないとね」


 誰に言うでもなく呟く。


 その声を聞いて、隣の部屋から正一が起きてきた。


「朝から何を言ってる」


「さとるが帰ってきたときのこと」


「気が早いな」


「いいじゃない」


 文江は笑った。


「帰ってきたら、何を食べさせようかって考えてるだけ」


 正一は少し黙ってから、台所の方へ歩いてきた。


「飯なら、腹いっぱい食わせればいい」


「そうだね」


「好きなものも、全部作ってやればいい」


「そうだね」


 二人はそれ以上言わなかった。


 けれど、同じことを考えていた。


 昨日届いた手紙。


 その最後に書かれていた、


 ――またね。


 その言葉を信じていた。


 息子は帰ってくる。


 そう信じていたかった。


 正一は庭へ出た。


 朝の空気が冷たい。


 柿の木を見上げる。


 まだ実はついていない。


 枝だけが、空に向かって伸びている。


 正一はその木を見ながら、ふと思った。


 さとるが小さい頃、この木の下でよく遊んでいた。


 落ちた葉を集めたり。


 土を掘ったり。


 木に登ろうとして、文江に叱られたり。


 そんな小さな記憶が、次々と蘇ってくる。


「……大きくなったな」


 正一は小さく呟いた。


 もう二十歳だ。


 昔のように、父親の後ろをついて歩く子どもではない。


 それでも、正一にとっては息子だった。


 何歳になっても。


 何処に行っても。


 帰ってきてほしい。


 それだけだった。


 家の中では、文江が朝食の準備をしていた。


 食卓に二人分の茶碗を並べる。


 そして一瞬、手が止まった。


 昔なら三人分だった。


 さとるが家にいた頃は、それが当たり前だった。


 今は二人。


 文江は少し寂しそうに笑った。


「……帰ってきたら、三人だね」


 庭から戻ってきた正一が聞いた。


「何がだ?」


「ご飯」


「そうだな」


 正一は席についた。


 朝食を食べながら、二人は昨日の手紙について話した。


「ちゃんと食べてるって書いてあったね」


「ああ」


「訓練にも慣れてきたって」


「ああ」


「でも……」


 文江は箸を置いた。


「怖いとは、一言も書いてなかったね」


 正一は黙った。


 その言葉は、二人とも気づいていたことだった。


 息子は、母親に心配をかけたくない。


 父親にも、弱いところを見せたくない。


 だから書かなかったのだろう。


「……あいつは昔からそうだ」


 正一が言った。


「何でも大丈夫って言う」


「そうね」


「だから、元気だって書いてあっても……」


 正一はそこで言葉を止めた。


 文江が夫を見る。


「分かってる」


 二人はそれ以上、口にしなかった。


 言葉にしてしまえば、怖くなるからだ。


 その頃。


 遠く離れた場所でも、朝が来ていた。


 さとるはまだ眠っていた。


 夜遅くまで家族のことを考えていたため、眠りについたのは遅かった。


 やがて、外から人の声が聞こえてくる。


 朝の支度をする音。


 仲間たちが起きる気配。


 さとるはゆっくりと目を開けた。


 天井を見る。


 ぼんやりした頭の中に、昨夜書いた手紙が浮かんだ。


 母さん。


 父さん。


 家。


 海。


 そして、


 ――またね。


 さとるは布団の中で小さく息を吐いた。


「……帰りたいな」


 昨日までなら、そんな言葉を口にすることさえ躊躇しただろう。


 けれど今朝は、自然に出てきた。


 帰りたい。


 家へ。


 母のご飯を食べたい。


 父と話したい。


 庭の柿の木を見たい。


 故郷の海を見たい。


 そんな普通のことが、今のさとるには何よりも大切だった。


「起きろ、さとる」


 剛の声が聞こえた。


「ああ……」


「朝だぞ」


「分かってる」


 さとるは起き上がった。


 顔を洗い、身支度を整える。


 仲間たちと朝の食事を取る。


 いつもと変わらない朝。


 けれど、さとるの心には昨日までとは少し違うものがあった。


 家に帰りたい。


 生きて帰りたい。


 その気持ちが、はっきりしてきたのだ。


 食事を終え、外へ出る。


 朝の海から風が吹いていた。


 さとるは一度、足を止めた。


 海を見つめる。


 故郷の海とは違う。


 それでも海は海だった。


 同じ水が続いている。


 この海の向こうに、家族がいる。


 そう思うと、不思議な気持ちになった。


「行くぞ」


 剛が呼ぶ。


「ああ」


 さとるは歩き出した。


 訓練へ向かう道。


 昨日と同じ道。


 何度も歩いた道。


 けれど、その朝は、さとるの目に少し違って見えた。


 港へ近づく。


 船。


 倉庫。


 海。


 町の人々。


 そして――。


 少女の姿。


 さとるは、無意識に足を緩めた。


 昨日までにも、何度か見かけた少女だった。


 黒く長い髪。


 朝の光を受けた白い肌。


 海風に髪を揺らしながら、誰かと話している。


 さとるは目を向けた。


 また見てしまった。


 自分でも分かっていた。


 いつの間にか、彼女を探している。


 昨日までは、ただ綺麗な人だと思っていた。


 けれど、昨日目が合ってからは違った。


 もう一度、見たい。


 そう思うようになっていた。


 さとるは慌てて前を向いた。


 話しかけてはいけない。


 そう思う。


 自分は訓練生。


 町の人とは、必要以上に関わらない。


 そんな空気が、この町にはあった。


 誰かに命令されたわけではない。


 ただ、そうするものだと思っていた。


 だから、遠くから見るだけ。


 それでいい。


 そう思っていた。


 そのときだった。


 少女が、ふとこちらを向いた。


 さとるの心臓が跳ねた。


 目が合った。


 一瞬。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、その時間だけ、周りの音が消えたように感じた。


 少女の目が、まっすぐこちらを見ている。


 そして――。


 小さく笑った。


 さとるは息をするのを忘れた。


 胸の奥が熱くなる。


 慌てて視線を逸らす。


 けれど、もう遅かった。


 その笑顔が、頭から離れなかった。


「……どうした?」


 剛が隣から言った。


「いや……」


「今、誰か見てただろ」


「見てない」


「見てた」


「……」


 剛が笑う。


「昨日も見てただろ」


 さとるは答えなかった。


 ただ、もう一度だけ少女の方を見た。


 少女はもう別の方向を向いていた。


 名前も知らない。


 話したこともない。


 それなのに、なぜか気になる。


 さとるは歩きながら考えた。


 昨日まで、自分の頭の中にあったのは家族だった。


 父と母。


 帰る場所。


 戦争が終わった後の暮らし。


 それだけだった。


 でも今は。


 その未来の中に、なぜかあの少女の姿が浮かぶ。


 もし戦争が終わったら。


 もし家へ帰ることができたら。


 もし普通の生活が戻ったら。


 あの少女とも、いつか話すことができるのだろうか。


 そんなことを考えた。


 そして、自分で驚いた。


 まだ何も始まっていないのに。


 たった一度、目が合っただけなのに。


 それでも――。


 もう一度、会いたい。


 そう思った。


 その頃、故郷では。


 文江が食器を洗っていた。


 正一は仕事へ出る準備をしている。


 いつもと変わらない朝。


 けれど、二人の心には昨日届いた一通の手紙が残っている。


 文江は洗った茶碗を拭きながら、ふと呟いた。


「今日も、ちゃんと食べてるかね」


 正一が振り返る。


「ああ。きっと食べてる」


「そうだといいね」


「あいつは母さんの飯が食いたいって書いてたんだ」


「うん」


「帰ってきたら、好きなだけ食わせてやればいい」


 文江は笑った。


「そうするよ」


 そして、二人はそれぞれの一日を始めた。


 遠く離れた場所で、さとるもまた一日を始めていた。


 故郷では、帰ってくる息子を待つ両親。


 こちらでは、帰ることを願う息子。


 その二つの朝は、遠く離れていても、同じ願いでつながっていた。


 ――生きて帰る。


 それが、さとるの願いだった。


 そしてその朝。


 その願いの中に、もう一つ、小さなものが生まれ始めていた。


 港で目が合った少女。


 まだ名前も知らない。


 まだ言葉も交わしていない。


 それでも、さとるは初めて思った。


 ――あの人と、話してみたい。


 海風が吹いた。


 黒い髪が、遠くで揺れた。


 二人はまだ知らない。


 この一度きりの視線が、やがて二人の運命を大きく変えていくことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。