↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/100

第十話 声をかけてはいけない

第十話 声をかけてはいけない


 朝の訓練が始まる前。


 さとるは、一度だけ港の方を見た。


 昨日と同じ海。


 昨日と同じ港。


 そして、昨日と同じように町の人々が行き交っている。


 けれど、さとるにとっては、少しだけ違って見えた。


 昨日、目が合った少女がいる。


 薫。


 まだ名前すら知らない。


 それでも、あの笑顔が頭から離れなかった。


「さとる」


 剛の声がした。


「ああ」


「行くぞ」


「分かってる」


 さとるは港から視線を戻した。


 訓練が始まる。


 身体を動かす。


 声を出す。


 教えられたことを繰り返す。


 いつもと同じ。


 けれど、今日は何度も集中が途切れた。


 ふとした瞬間に、薫の顔が浮かぶ。


 目が合った瞬間。


 小さく笑った顔。


 そして、自分も笑い返せたのかどうか。


 そんなことばかり考えてしまう。


「おい」


 剛が横から声をかけた。


「何だ?」


「今日、ぼんやりしてるぞ」


「してない」


「してる」


 剛は少し笑った。


「昨日の子か?」


 さとるは答えなかった。


「……名前も知らないんだろ?」


「ああ」


「なら、まず名前を聞けばいい」


 さとるは剛を見た。


「簡単に言うなよ」


「何が?」


「声をかけるのが」


 剛は少し黙った。


「……そうだな」


 それ以上は言わなかった。


 二人とも、この町の空気を知っていた。


 訓練生と町の人間。


 近くにいるからといって、自由に話していいわけではない。


 誰かから明確に禁止されているわけではない。


 けれど、訓練生の側も、町の側も、それぞれに一線を引いていた。


 余計な関わりを持たない。


 それが、この場所では自然なことになっていた。


 さとるも、その空気を感じていた。


 だからこそ、薫に声をかけることができなかった。


 昼になった。


 食事を終えたさとるは、仲間たちと一緒に港の近くを歩いていた。


 そのとき。


 いた。


 薫だった。


 少し離れた場所で、何かを持って歩いている。


 さとるの足が止まりそうになる。


 声をかけたい。


 たった一言でいい。


 こんにちは。


 それだけでもいい。


 けれど、声が出ない。


 薫がこちらを見た。


 また目が合った。


 今度は、薫が少しだけ頭を下げた。


 さとるも、慌てて頭を下げる。


 それだけだった。


 言葉はない。


 それなのに、胸の奥が温かくなった。


 薫が歩いていく。


 さとるは、その後ろ姿を見つめていた。


「……行っちゃったな」


 剛が言った。


「ああ」


「声かけなかったな」


「……無理だよ」


「どうして?」


「分からない」


 さとるは海を見た。


「なんか……怖いんだ」


 剛は少し驚いた顔をした。


「怖い?」


「ああ」


 死ぬこととは違う。


 訓練で感じる恐怖とも違う。


 もっと小さくて、もっと身近な恐怖だった。


 もし声をかけて。


 もし話をして。


 もし仲良くなったら。


 その先に何があるのだろう。


 今の自分には、未来があるのか。


 それすら分からない。


 だからこそ、誰かを好きになることが怖かった。


 大切なものが増えるほど、失うことが怖くなる。


 家族だけでも、十分だった。


 父。


 母。


 帰る家。


 そこに、もう一人、大切な人が増えてしまったら。


 もし帰れなかったら。


 その人を悲しませることになる。


 そう考えると、近づくことができなかった。


 夜。


 宿舎の窓から、さとるは外を見ていた。


 遠くに海が見える。


 月明かりが海面に細く伸びている。


 ふと、昨日の手紙を思い出した。


 父さんとも、もっと話したい。


 母さんのご飯が食べたい。


 帰りたい。


 家族と一緒にいたい。


 それは、今も変わらない。


 けれど――。


 最近は、もう一つ思うことがある。


 薫と話してみたい。


 名前を知りたい。


 声を聞きたい。


 どんな人なのか知りたい。


 さとるは自分でも驚いていた。


 ほんの少し前までは、戦争が終わったら家へ帰る。


 それだけを考えていた。


 それだけで十分だった。


 なのに今は、港にいる少女のことが気になって仕方がない。


 さとるは窓を閉めた。


「……明日こそ」


 そう呟いた。


 明日こそ、声をかけよう。


 そう決めた。


 けれど、翌朝になれば、また迷うかもしれない。


 それでもいい。


 まずは名前を知りたい。


 それだけだった。


 その頃。


 薫もまた、自分の部屋で今日のことを思い出していた。


 朝、港で目が合った青年。


 そして昼にも、また目が合った。


 言葉は交わしていない。


 それなのに、なぜか気になる。


 薫は窓の外を見た。


 海が見える。


 あの人も、海を見ているのだろうか。


 そう思った。


「……変なの」


 小さく呟く。


 まだ名前も知らない人なのに。


 それでも、また会えたらいいと思った。


 そして翌日。


 さとるは港へ向かった。


 薫に声をかけるために。


 けれど、その一歩を踏み出すことが、思っていたよりずっと難しいことを、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。