第十一話 高台で泣く君
第十一話 高台で泣く君
翌日。
朝から、さとるの胸には小さな緊張があった。
昨日の夜、布団の中で何度も考えた。
――明日こそ、声をかけよう。
港で見かける、あの少女に。
名前も知らない。
話したこともない。
ただ何度か目が合っただけ。
それなのに、朝起きてからというもの、さとるは落ち着かなかった。
顔を洗っているときも、食事をしているときも、頭の片隅に彼女の姿が浮かんでいた。
「さとる」
向かいに座っていた剛が声をかける。
「何?」
「箸、止まってるぞ」
さとるは自分の手元を見た。
確かに、箸を持ったまま動かしていなかった。
「……考え事してた」
「珍しいな」
剛は笑った。
「何を?」
「別に」
さとるはご飯を口に入れた。
けれど、味がよく分からなかった。
喉を通す。
もう一口。
それでも、胸の奥の緊張は消えなかった。
今日、話す。
そう決めた。
たった一言でいい。
「こんにちは」
それだけ言えばいい。
頭の中では簡単だった。
けれど、実際に港へ近づくにつれて、足取りが重くなっていった。
訓練を終え、仲間たちと一緒に歩く。
いつもの道。
いつもの港。
いつもの海。
そして、いつもの場所に――彼女がいた。
さとるの足が、一瞬だけ止まった。
剛が先に歩いていく。
「どうした?」
「……いや」
さとるは歩き出した。
しかし、彼女の姿を見た瞬間、胸が強く締めつけられた。
今なら言える。
昨日から、何度もそう思っていた。
けれど、いざ目の前にすると、喉が固まったようになった。
彼女もこちらを見た。
目が合う。
さとるは反射的に目をそらした。
歩き続ける。
何も言えなかった。
少し離れたところまで来てから、さとるは振り返った。
彼女はまだそこにいた。
そして、こちらを見ていた。
さとるは唇を少し開いた。
「……」
声にならなかった。
結局、その日も話しかけられなかった。
昼を過ぎると、雲が少し増えた。
午後の訓練を終えたさとるは、いつもとは違う道を歩いていた。
理由はなかった。
ただ、部屋へ戻る気になれなかった。
足が自然に高台へ向かっていた。
そこからは海がよく見えた。
港も見える。
町も見える。
遠くには、水平線が広がっている。
さとるは立ち止まった。
海を見つめる。
その海の向こうには、家がある。
父がいる。
母がいる。
自分が帰る場所がある。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
けれど、その温かさは長く続かなかった。
もし――。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
もし帰れなかったら。
さとるはすぐに、その考えを振り払った。
首を横に振る。
考えるな。
まだ何も決まっていない。
まだ帰れる。
そう自分に言い聞かせた。
そのときだった。
少し離れた場所から、かすかな声が聞こえた。
泣いているような声だった。
さとるは振り向いた。
木の陰に、誰かがいる。
長い黒髪が見えた。
見覚えがあった。
港で何度も見かけた少女だった。
彼女は一人で座っていた。
肩が小さく震えている。
さとるは動かなかった。
声をかけるべきか。
そのまま離れるべきか。
胸の中で迷いが生まれた。
ここで声をかけたら――。
また、あの空気を思い出した。
訓練生と町の人間。
互いに近づきすぎない。
それが、この場所では当たり前のようになっていた。
さとるは一歩後ろへ下がった。
そして、もう一歩。
帰ろうと思った。
自分には関係ない。
そう思えばいい。
少女が泣いている理由も知らない。
自分が何かできるわけでもない。
だから、帰ればいい。
さとるは踵を返した。
その瞬間だった。
少女の肩が大きく震えた。
それを見た。
さとるの足が止まった。
しばらく動けなかった。
拳を握る。
開く。
また握る。
喉が乾いていた。
何度も息を吸った。
それでも声が出ない。
さとるは一度、海を見た。
そして、家のことを思った。
母のことを思った。
父のことを思った。
もし、自分がここで泣いていたら。
誰かが見つけてくれたら。
声をかけてくれたら。
そんなことを考えた。
そして――。
さとるは一歩、少女のほうへ歩いた。
もう一歩。
近づくほど、心臓の音が大きくなる。
「……あの」
声が震えた。
少女が顔を上げた。
驚いたように目を見開く。
涙で濡れた頬が見えた。
さとるは、それ以上言えなくなった。
少女も何も言わない。
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
さとるは目をそらしかけた。
けれど、今度はそらさなかった。
「……大丈夫ですか」
やっと、それだけ言った。
少女は少し戸惑ったように、さとるを見つめた。
「……大丈夫、です」
声が小さい。
明らかに泣いていたのに、少女はそう答えた。
さとるは何と言えばいいのか分からなかった。
「そう……ですか」
それだけだった。
沈黙。
風が吹いた。
少女の髪が揺れる。
さとるは立ったまま、どうしていいか分からずにいた。
帰るべきなのか。
ここにいていいのか。
話しかけたことを後悔しそうになった。
けれど、少女の涙を見たら、帰ることができなかった。
「……すみません」
少女が言った。
「え?」
「泣いているところを見られて……」
「いや」
さとるは慌てて首を横に振った。
「謝らなくていいです」
また沈黙した。
少女は俯いた。
さとるは自分の手を見た。
何か言わなければと思う。
でも、言葉が出てこない。
普段なら仲間と話すことができる。
家族とも話せる。
けれど、目の前の少女には、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて少女が小さく尋ねた。
「……どうして、ここに?」
「僕は……」
さとるは言葉を探した。
「海を見に」
少女は海を見た。
「海が、好きなんですか?」
「……はい」
そう答えてから、少し考えた。
「でも、最近は……」
そこで言葉が止まった。
最近は、海を見ると怖くなる。
そう言いかけた。
けれど、言えなかった。
少女は何も聞かなかった。
ただ、海を見ていた。
二人で同じ海を見る。
それだけだった。
しばらくして、少女がぽつりと言った。
「私も……海を見るのが好きでした」
「でした?」
「……今は、少し怖いです」
さとるは少女を見た。
自分と同じ言葉だった。
海が好きなのに。
海を見ると怖い。
その意味を、さとるは聞かなかった。
聞けなかった。
少女の顔には、まだ涙が残っていた。
「……何かあったんですか?」
さとるが尋ねる。
少女はしばらく黙っていた。
やがて、首を横に振った。
「うまく話せません」
「そうですか」
さとるはそれ以上聞かなかった。
無理に聞いてはいけないと思った。
ただ、そこにいた。
それだけだった。
しばらくすると、少女の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「……ありがとうございます」
「え?」
「話しかけてくれて」
さとるは返事ができなかった。
自分は何もしていない。
ただ、少し話しただけだ。
それでも少女は、小さく笑った。
泣いたあとだから、その笑顔はどこか寂しかった。
けれど、さとるには、その笑顔が忘れられなかった。
「……僕は、何もしていません」
「それでも……」
少女は少しだけ顔を上げた。
「一人じゃなくなった気がしました」
その言葉を聞いた瞬間、さとるの胸が苦しくなった。
自分も同じだった。
一人で怖がっていた。
一人で帰りたいと思っていた。
誰にも言えないことを抱えていた。
それなのに、今こうして誰かの隣にいる。
たったそれだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
夕方になった。
海の色が少しずつ変わっていく。
さとるは立ち上がった。
「……そろそろ戻らないと」
「はい」
少女も立ち上がった。
さとるは一歩歩き出した。
けれど、すぐに止まった。
振り返る。
少女もこちらを見ている。
さとるは迷った。
それから、思い切って尋ねた。
「……名前を、聞いてもいいですか?」
少女は少し驚いた顔をした。
そして、ほんの少し笑った。
「薫です」
「……薫さん」
初めて口にした名前だった。
その名前が、胸の中に残った。
「あなたは?」
「さとるです」
「……さとるさん」
自分の名前を呼ばれた。
それだけのことなのに、さとるは妙に嬉しかった。
「じゃあ……また」
薫が言った。
さとるは一瞬、意味が分からなかった。
「また……?」
「はい」
薫は海のほうを見た。
「また、ここで会えたら」
さとるは返事をするまでに少し時間がかかった。
「……はい」
二人は別れた。
さとるは坂を下りながら、何度も振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
ただ、胸の中では何度もその名前を繰り返していた。
薫。
薫。
薫。
今日まで知らなかった名前。
今日、初めて聞いた名前。
そして――。
今日、初めて自分の名前を呼んでくれた人。
さとるは歩きながら、自分の手を見た。
まだ少し震えていた。
訓練のときと同じ震えだった。
けれど、今度は違った。
怖い。
それでも、誰かと話したかった。
帰りたい。
それでも、もう一度会いたいと思った。
海の向こうには、自分の帰る場所がある。
そして今日から、その海辺にもう一つ、心に残る場所ができた。
さとるは知らなかった。
この小さな出会いが、やがて二人の運命を大きく変えていくことを。
ただ、このときのさとるは――。
明日も薫に会えたらいい。
そのことだけを考えていた




