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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十二話 初めて交わした言葉

第十二話 初めて交わした言葉


翌朝。


さとるは、いつもより早く目を覚ました。


まだ外は薄暗かった。


隣では、仲間たちが眠っている。


誰も起きていない。


さとるは布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。


眠れなかったわけではない。


けれど、何度も目が覚めた。


そのたびに、昨日のことを思い出した。


高台。


海。


涙を流していた少女。


薫。


そして、自分の名前を呼んだ声。


――さとるさん。


その言葉を思い出すと、不思議と胸が温かくなった。


さとるは布団から起き上がった。


顔を洗い、身支度をする。


いつもの朝だった。


訓練もある。


食事もある。


やることは昨日までと何も変わらない。


それなのに、何かが違っていた。


港へ向かう途中、さとるは何度も海のほうを見た。


昨日、薫と話した高台が見える。


足が一瞬だけ止まりそうになった。


けれど、仲間たちが先を歩いている。


さとるは急いで後を追った。


「おい、さとる」


剛が振り返った。


「何?」


「昨日、どこ行ってた?」


さとるの足が止まった。


「……どこって?」


「夕方、戻るの遅かっただろ」


「少し歩いてただけだよ」


「一人で?」


「うん」


剛はさとるの顔を見た。


何か言いたそうだった。


けれど、それ以上は聞かなかった。


「そうか」


「うん」


さとるは前を向いた。


胸の奥が少し苦しくなった。


昨日のことを隠している。


そのことが、なぜか申し訳なく感じた。


けれど、誰にも話したくなかった。


薫とのことを知られたくない。


理由は自分でも分からなかった。


ただ、大切なものを人に触れられたくないような気がした。


その日の訓練は、いつも以上に厳しく感じた。


身体を動かしている間は、薫のことを考えずに済んだ。


けれど、休憩になると、すぐに思い出してしまう。


――また、ここで会えたら。


昨日、薫がそう言った。


その言葉が何度も頭の中を巡った。


午後。


訓練を終えたさとるは、仲間たちと別れて一人になった。


港へ向かう。


歩く速度が、自然と遅くなる。


昨日と同じ道。


同じ海。


同じ風。


けれど今日は、少しだけ違って見えた。


高台を見る。


誰もいない。


さとるは立ち止まった。


「……いないか」


小さく呟いた。


自分でも驚いた。


薫を探している。


そう気づいた瞬間、胸が少し熱くなった。


しかし、そのまま高台へ行く勇気はなかった。


もし、いなかったら。


もし、いたとしても。


何を話せばいいのか分からない。


昨日は、薫が泣いていたから声をかけられた。


今日は、何もない。


ただ会いたい。


それだけだった。


さとるは海を見つめた。


そのとき。


「……さとるさん?」


後ろから声がした。


身体が固まった。


振り返る。


薫が立っていた。


昨日と同じ黒い髪。


けれど、今日は泣いていなかった。


さとるは何か言おうとした。


「……あ」


それだけしか出なかった。


薫が少し笑った。


「こんにちは」


「……こんにちは」


二人とも、ぎこちなかった。


昨日、一度話しただけ。


それなのに、今日は昨日より緊張する。


さとるは自分の手を見た。


指先が落ち着かない。


何度も握って、開いている。


薫がそれに気づいた。


「緊張していますか?」


「……え?」


「少し」


さとるは苦笑した。


「分かりますか?」


「はい」


薫も少し笑った。


「私もです」


その言葉を聞いて、さとるの肩から力が抜けた。


自分だけではない。


それだけで、少し安心した。


「昨日は……」


薫が口を開いた。


「ありがとうございました」


「いや……」


「話しかけてくれて」


さとるは首を横に振った。


「僕も……」


言葉を止める。


「僕も、話したかったから」


薫が目を上げた。


「私と?」


「……はい」


さとるは恥ずかしくなって、海へ目を向けた。


薫は少し黙っていた。


やがて、優しい声で言った。


「嬉しいです」


その一言で、さとるの胸が大きく鳴った。


しばらく二人は海を見ていた。


昨日と同じ場所。


昨日とは違う時間。


「さとるさんは、どこから来たんですか?」


薫が尋ねた。


「山口のほうです」


「ご家族は?」


「父と母がいます」


「二人とも元気ですか?」


「……たぶん」


さとるは少し笑った。


「手紙が来ました」


「何て?」


「元気にしているかって」


「心配しているんですね」


「はい」


そこで、さとるの顔が少し曇った。


「……母は、いつも身体に気をつけろって」


「お母さんらしいですね」


「そうですね」


さとるは笑った。


けれど、その笑顔は長く続かなかった。


家を思い出したからだ。


母の声。


父の背中。


家の匂い。


食卓。


帰る場所。


そのすべてが胸に浮かんだ。


「……帰りたいな」


気づかないうちに、口から言葉がこぼれた。


薫は何も言わなかった。


ただ、さとるの隣に立っていた。


「帰れますよ」


しばらくして、薫が言った。


さとるは彼女を見た。


「……そう思いますか?」


「はい」


薫は海を見つめた。


「帰れるって、思っていたいです」


その言葉に、さとるは何も返せなかった。


薫も、何かを抱えている。


昨日泣いていた理由。


まだ聞いていない。


聞いてはいけないような気もした。


だから、さとるは別のことを尋ねた。


「薫さんは、この町にずっと住んでいるんですか?」


「はい」


「海は昔から好き?」


「子どもの頃から好きです」


「僕もです」


「そうなんですね」


「家の近くにも海があって」


さとるは少し笑った。


「小さい頃、父に連れて行ってもらいました」


「何をしていたんですか?」


「ただ、海を見ていました」


薫が笑った。


「それだけ?」


「それだけです」


二人で笑った。


ほんの短い笑いだった。


けれど、さとるにはそれがとても嬉しかった。


昨日まで、知らない人だった。


港ですれ違うだけだった。


名前すら知らなかった。


それが今は、こうして話している。


好きな海のこと。


家のこと。


父親のこと。


子どもの頃のこと。


ほんの少しずつ。


二人の間に言葉が増えていく。


「さとるさんは、訓練は大変ですか?」


薫が尋ねた。


さとるは黙った。


答えようとして、やめた。


「……大変です」


それだけ言った。


薫はそれ以上聞かなかった。


けれど、さとるの表情を見ていた。


「怖いですか?」


その言葉に、さとるの指が動いた。


無意識に、手を握る。


昨日から何度も隠してきた気持ちだった。


「……怖いです」


初めて、誰かにそう言った。


剛にも言っていない。


家族にも言っていない。


手紙にも書けなかった。


それなのに、薫には言えた。


「怖いです」


もう一度、さとるは言った。


薫は黙って聞いていた。


「でも……」


さとるは海を見た。


「怖いって言ったら、弱いって思われそうで」


薫は首を横に振った。


「思いません」


さとるは彼女を見る。


「怖いものは、怖いです」


薫は静かに言った。


「それは、弱いことじゃないと思います」


その言葉を聞いて、さとるは俯いた。


目の奥が熱くなった。


泣くつもりはなかった。


泣きたくもなかった。


けれど、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。


「……ありがとうございます」


薫は何も言わなかった。


ただ、隣にいた。


それだけでよかった。


夕方の風が吹いた。


海面が光を受けて揺れている。


「また、来てもいいですか?」


さとるが聞いた。


薫は少し驚いたように目を瞬かせた。


そして笑った。


「はい」


「明日も?」


「……明日も」


その返事に、さとるも笑った。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


二人は別れた。


さとるは坂を下りながら、胸の中に不思議な感覚を覚えていた。


怖さは消えていない。


訓練も続く。


明日も同じ一日が待っている。


それでも――。


明日が来るのが、少しだけ怖くなくなった。


明日になれば、薫に会えるかもしれない。


そんな小さな理由が、できたからだった。


一方、薫も高台に残っていた。


遠ざかっていくさとるの背中を見る。


そして、小さく呟いた。


「……さとるさん」


初めて知った名前。


初めて交わした言葉。


その名前を、薫は心の中でもう一度呼んだ。


二人はまだ知らなかった。


この短い時間が、二人にとってどれほど大切なものになっていくのかを。


そして――。


戦争という大きな時代の中で、


「また明日」


という言葉が、どれほど尊い約束になっていくのかを。

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