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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十三話 二人だけの秘密

第十三話 二人だけの秘密


翌日。


さとるは、いつもより早く目を覚ました。


まだ外は薄暗かった。


隣では、仲間たちが眠っている。


誰も起きていない。


さとるは布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。


眠れなかったわけではない。


けれど、何度も目が覚めた。


そのたびに、昨日のことを思い出した。


高台。


海。


涙を流していた薫。


そして、初めて交わした言葉。


「また、ここで会えたら」


その言葉が、頭の中に残っていた。


さとるは布団から起き上がった。


顔を洗い、身支度をする。


いつもの朝だった。


訓練もある。


食事もある。


やることは、昨日までと何も変わらない。


それなのに、心の中だけが少し違っていた。


港へ向かう途中、さとるは何度も海のほうを見た。


高台が見える。


昨日、薫と話した場所だった。


足が止まりそうになる。


けれど、仲間たちが先を歩いている。


「さとる!」


剛の声がした。


「はい!」


さとるは急いで後を追った。


「ぼんやりするなよ」


「ごめん」


「昨日も戻ってくるの遅かっただろ」


さとるの歩みが少しだけ鈍った。


「……少し歩いてただけだよ」


「一人で?」


「うん」


剛はさとるの顔を見た。


何か言いたそうだった。


けれど、それ以上は聞かなかった。


「そうか」


「うん」


さとるは前を向いた。


胸の奥が少し苦しくなった。


薫のことを話したくない。


なぜなのか、自分でも分からなかった。


ただ、この時間だけは誰にも触れられたくなかった。


その日の訓練は長く感じた。


身体は疲れている。


足も重い。


それでも、訓練が終わると、さとるの足は自然に高台へ向かった。


昨日と同じ道。


同じ海。


同じ風。


高台へ着く。


誰もいない。


さとるは立ち止まった。


海を見つめる。


「……今日は来ないのかな」


小さく呟いた。


そのときだった。


「待ちましたか?」


後ろから声がした。


さとるが振り返る。


薫が立っていた。


昨日とは違って、今日は泣いていない。


さとるの顔を見ると、薫は少し笑った。


「こんにちは」


「……こんにちは」


二人は並んで海を見た。


昨日よりも、少しだけ自然だった。


「今日は何をしてたんですか?」


薫が聞いた。


「訓練です」


「大変でした?」


「うん。今日は特に」


さとるは苦笑した。


「じゃあ、少し休んでください」


「そうする」


二人は近くの場所に腰を下ろした。


しばらく、何も話さなかった。


海の音だけが聞こえている。


昨日までは気まずかった沈黙が、今日は不思議と心地よかった。


やがて、薫が口を開いた。


「さとるは、家族は何人?」


「父さんと母さん。三人家族」


「仲がいい?」


「うん」


さとるは少し笑った。


「母さんは、いつも食べろって言うんだ」


「ふふ」


「父さんは、あまり話さないけど……」


そこで言葉を止めた。


「でも、ちゃんと見てくれてる」


「いいお父さんですね」


「うん」


さとるは海を見た。


家を思い出す。


食卓。


母の声。


父の背中。


帰る場所。


「薫は?」


「私?」


「うん」


薫は少し黙った。


「……母と二人」


それだけ言った。


さとるはそれ以上聞かなかった。


けれど、薫は海を見ながら続けた。


「昔は、三人だったの」


さとるは薫を見た。


薫は海から目を離さなかった。


「父がいた」


その声は、とても静かだった。


「……そうなんだ」


「うん」


薫は小さく笑った。


「海が好きな人だった」


そのとき、風が吹いた。


薫の黒い髪が頬にかかる。


薫は髪を耳にかけた。


「子どもの頃、よくここに連れてきてもらった」


そう言って、海を指さす。


「ここ?」


「うん」


「何してたの?」


「何もしないの」


薫が笑った。


「ただ座って、海を見てた」


「僕と同じだ」


「そうだね」


二人は顔を見合わせて笑った。


けれど、薫の笑顔はすぐに消えた。


視線が海へ戻る。


「父は、海を見るといつも機嫌がよかった」


「……うん」


「家に帰ると、母がご飯を作っていて」


そこで薫の声が少しだけ止まった。


「三人で食べた」


さとるは何も言わなかった。


薫は自分の手を見た。


指先を、ゆっくり擦る。


「今でもね」


「うん」


「ご飯をよそうとき……」


薫はそこで言葉を止めた。


少し笑おうとした。


「つい、三つ目の茶碗を出しそうになるの」


さとるは黙って薫を見た。


薫は俯いた。


「棚を開けて、茶碗を取って……」


その声が少し震えた。


「そこまでしてから、あ……って思うの」


風が吹いた。


薫は涙を見せまいとするように、顔を横に向けた。


「もう、いないんだったって」


さとるは何も言えなかった。


何か言えば、薫の涙がこぼれてしまうような気がした。


だから、ただ隣にいた。


薫はしばらく黙っていた。


やがて、静かに続けた。


「父がいなくなってから、家が広くなった気がする」


「広く?」


「うん」


薫は頷いた。


「同じ家なのに」


それから、ほんの少し笑った。


「変でしょう?」


「変じゃないよ」


さとるは答えた。


「僕も……」


言いかけて、止める。


自分が家に帰れなかったら。


そんな考えが頭をよぎった。


胸の奥が冷たくなる。


さとるは無意識に手を握った。


「……僕も、家のことを考えると怖くなることがある」


薫がこちらを見る。


「何が?」


さとるはすぐに答えられなかった。


そして、ゆっくり言った。


「帰れなくなること」


薫の表情が変わった。


さとるは海を見た。


「父さんも母さんも待ってる」


少し間を置いて、


「だから、帰りたい」


と言った。


薫は何も言わなかった。


ただ、さとるの言葉を聞いていた。


そして、小さく頷いた。


「帰ってきてね」


その一言に、さとるは胸を突かれた。


「……うん」


短く答えた。


「帰るよ」


それは、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。


二人はまた海を見た。


薫の父が見ていた海。


さとるの父と見た海。


同じ海だった。


それぞれの家族の記憶が、そこに重なっている。


「さとる」


「ん?」


「戦争が終わったら、何したい?」


突然の質問だった。


さとるは少し考えた。


「家に帰る」


「それだけ?」


「母さんのご飯を食べる」


薫が笑った。


「さっき聞いた」


「じゃあ……」


さとるも笑った。


「町を歩きたい」


「どこへ?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、一緒に考えよう」


薫が言った。


さとるは薫を見る。


「一緒に?」


「うん」


「……いいね」


二人は笑った。


それは、未来の約束というほど大きなものではなかった。


ただ、戦争が終わったら。


そのとき、どこへ行くか。


何を食べるか。


何をするか。


そんな話をしただけだった。


けれど、二人にとっては、それだけで十分だった。


その日から、二人は時々、高台で会うようになった。


毎日ではない。


会えない日もあった。


それでも、会える日は自然とそこへ向かった。


話すことは、いつも普通のことだった。


好きな食べ物。


子どもの頃のこと。


好きな季節。


町のこと。


家族のこと。


戦争が終わったら、何をしたいか。


そんな話をしているときだけは、戦争という言葉が少し遠くなった。


ある日、薫が言った。


「さとる」


「うん」


「敬語じゃなくてもいいよ」


「……いいの?」


「うん」


さとるは少し考えた。


「じゃあ……薫」


「うん」


名前を呼んだだけだった。


それなのに、二人とも少し照れた。


「薫」


もう一度呼ぶ。


「なに?」


「……なんでもない」


薫が笑う。


「変なの」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


二人で笑った。


その帰り道。


さとるは一人で歩きながら、自分の胸に手を当てた。


心臓が少し速い。


最近、薫と会った日はいつもこうだった。


嬉しい。


会いたい。


明日も会いたい。


そんな気持ちが増えている。


けれど――。


同じくらい、怖かった。


大切になればなるほど、失うことが怖くなる。


家族も。


故郷も。


そして、薫も。


さとるは立ち止まり、海を見た。


波が静かに揺れている。


「……帰らないと」


小さく呟いた。


帰る場所がある。


待っている人がいる。


だから、帰らなければならない。


その夜。


薫は家に戻った。


玄関を開ける。


「ただいま」


母の声が奥から聞こえる。


「おかえり」


薫は靴を脱いだ。


廊下を歩く。


父の部屋の前を通る。


襖は閉まっている。


薫は一瞬、足を止めた。


手を伸ばす。


けれど、開けなかった。


そのまま通り過ぎる。


夕食の時間。


母と二人で食卓につく。


母がご飯をよそう。


二人分。


薫はそれを見ていた。


以前なら、ここにもう一つあった。


けれど、今日は何も言わなかった。


「いただきます」


母が言う。


「いただきます」


薫も言った。


二人で食べる。


静かな食卓。


けれど、今日は少しだけ違った。


薫の胸の中には、昼間に聞いた言葉が残っていた。


――帰るよ。


さとるがそう言った。


薫は箸を止めた。


そして、ほんの少し笑った。


「……帰ってきてね」


誰にも聞こえない声で呟いた。


その言葉が、誰に向けたものなのか。


薫自身にも、まだはっきりとは分からなかった。


ただ、海の向こうへ行ってしまうかもしれない青年に。


自分と同じように、帰る場所を大切にしている青年に。


もう一度会いたい。


そう思っていた。


二人だけの秘密は、まだ小さかった。


名前を呼ぶこと。


高台で会うこと。


未来の話をすること。


そして、互いに「帰ってきて」と願うこと。


それだけだった。


けれど――。


戦争の中では、


「また明日」


という言葉さえ、


二人にとっては大切な約束になっていた。

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