第十四話 港で待つ君
第十四話 港で待つ君
朝の海は、静かだった。
薄い雲の向こうから朝日が差し込み、港の水面がゆっくりと光を返している。
さとるは、いつものように仲間たちと並んで歩いていた。
足音が重なる。
誰も余計なことは話さない。
今日も訓練がある。
昨日も訓練だった。
明日もきっと、同じような一日になる。
そう思いながら歩いていた。
けれど、さとるの頭の中には、昨日のことが残っていた。
――また明日。
薫と別れるときに交わした言葉だった。
たった四文字ほどの言葉。
それなのに、朝になっても消えなかった。
さとるは歩きながら、右手を握った。
ぎゅっと握る。
それから、ゆっくり開く。
指先が少し震えていた。
「……」
さとるは手を見た。
最近、こういうことが増えている。
最初は訓練の疲れだと思っていた。
身体を酷使しているからだ。
緊張しているだけだ。
そう思えば、それで済んだ。
けれど、本当は分かっている。
怖いのだ。
何が怖いのかも、分かっている。
出撃命令が出ること。
そして、その命令が出たら――
帰れない。
さとるは、そのことを知っていた。
ここに来たときから、知らなかったわけではない。
回天の訓練を受けているということは、いつか出撃する可能性があるということだった。
そして出撃とは、普通の任務とは違う。
帰ることを前提にしたものではない。
その現実を、さとるは理解していた。
だからこそ、家族への手紙には書けなかった。
怖い。
帰りたい。
そんな言葉を書けば、母はきっと心配する。
父も、何も言わなくても分かってしまうだろう。
だから、書かない。
書けない。
さとるは手を下ろした。
「行くぞ」
仲間の声がした。
「うん」
返事をして、歩き出した。
その日の訓練は厳しかった。
身体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
だから、さとるは必死だった。
走る。
止まる。
動く。
息を整える。
また動く。
繰り返す。
それでも、ふとした瞬間に頭の中へ浮かんでくる。
家。
母。
父。
そして、薫。
さとるは一度、目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その瞬間に思った。
――帰りたい。
その言葉が浮かんだことに、自分自身が驚いた。
以前も、帰りたいと思ったことはある。
けれど、今はその意味が違った。
以前は、ただ故郷が恋しかった。
今は違う。
帰る場所がある。
待っている人がいる。
だから、帰れなくなることが怖い。
訓練が終わった。
食事の時間になった。
さとるは飯を受け取り、席についた。
いつもの食事。
飯。
汁物。
おかず。
いつもと変わらない。
箸を持つ。
飯を口に運ぶ。
噛む。
そのとき、母の顔が浮かんだ。
母の作る飯。
家の食卓。
父が向かいに座っている。
「もっと食え」
そう言われたことまで思い出した。
さとるの箸が止まった。
「どうした?」
隣の剛が聞いた。
「いや」
さとるは笑った。
「何でもない」
箸を動かす。
飯を食べる。
けれど、胸の奥には同じ言葉が残っていた。
――帰りたい。
食事を終えると、さとるは食器を片づけた。
歩きながら、無意識に右手を握る。
また、指先が震えた。
さとるは手をポケットに入れた。
誰にも見られないようにした。
午後。
訓練を終えたさとるは、港へ向かった。
自分でも分かっていた。
薫を探している。
以前なら、港に女の子がいても気にしなかった。
今は違う。
人影を見る。
黒い髪が見える。
足を止める。
違う。
また歩く。
別の人影が見える。
違う。
それでも探してしまう。
そして――
いた。
薫だった。
港の端で、荷物を抱えて立っている。
さとるに気づく。
薫の顔が明るくなる。
「さとる」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけた。
「薫」
それだけでよかった。
名前を呼ぶ。
名前を呼ばれる。
それだけで、今日という一日が少しだけ違って見えた。
「待った?」
「いや」
さとるは首を振った。
「今来たところ」
本当は、少し前から待っていた。
けれど、それは言わなかった。
二人は港を離れ、いつもの高台へ向かった。
途中、薫が買い物の話をした。
母親に頼まれたものを買ってきたらしい。
さとるはそれを聞きながら笑った。
「家では、いつもそんな感じ?」
「うん。お母さん、細かいことまで頼むの」
「いいな」
「何が?」
「家の話ができるの」
薫は少し黙った。
さとるは、言ってから気づいた。
薫には、もう父親がいない。
以前なら三人だった食卓。
今は二人。
「……ごめん」
「ううん」
薫は首を振った。
「大丈夫」
それから、二人で歩いた。
高台に着く。
海が見える。
薫が隣に座った。
さとるも座った。
しばらく何も話さなかった。
ただ、海を見ていた。
「ねえ」
薫が言った。
「うん?」
「戦争が終わったら、何したい?」
さとるは少し考えた。
「家に帰りたい」
薫が笑った。
「やっぱり、それ?」
「ああ」
さとるも笑った。
「母さんの飯が食いたい」
「何が好きなの?」
「煮物かな」
「ふふ」
薫が笑う。
「お母さん、喜ぶね」
「うん」
さとるは海を見た。
「父さんとも話したい」
「うん」
「それから……」
言葉が止まる。
薫が待っている。
さとるは少しだけ迷ってから言った。
「薫とも、町を歩きたい」
薫の目が少し大きくなった。
「私と?」
「うん」
「どこに行くの?」
「どこでもいい」
「それじゃ分からないよ」
「じゃあ、食べ物屋」
「食べることばっかり」
二人で笑った。
その笑い声が、海風に乗って消えていく。
さとるは思った。
こんな日がずっと続けばいい。
ただ町を歩く。
一緒に飯を食べる。
海を見る。
それだけでいい。
それだけの未来が欲しかった。
けれど、その未来を考えた直後だった。
胸の奥が、急に重くなった。
出撃命令。
その言葉が頭をよぎった。
さとるは笑顔を消した。
「……どうしたの?」
薫が尋ねる。
「いや」
さとるは首を振った。
「何でもない」
また右手を握る。
薫がその手を見る。
「また握ってる」
「え?」
「手」
さとるは慌てて手を開いた。
「……癖になったのかな」
「疲れてる?」
「たぶん」
嘘だった。
疲れているだけではない。
怖い。
けれど、それを薫に言うことはできなかった。
言えば、彼女も怖くなる。
自分がいつか帰れないかもしれないと知れば、今の笑顔が消えてしまう。
だから、さとるは笑った。
「大丈夫」
薫も、それ以上は聞かなかった。
二人の間を、海風が通り抜けた。
やがて薫が言った。
「明日も来る?」
「うん」
さとるは答えた。
「来る」
「じゃあ、待ってる」
その言葉に、さとるは一瞬だけ黙った。
待ってる。
その言葉が嬉しかった。
けれど同時に、胸が痛くなった。
もし出撃命令が出たら。
自分は、ここへ来られない。
薫を待たせることになる。
もう会えないかもしれない。
そのことを知っているから、簡単に「明日」という言葉を口にするのが怖くなった。
それでも、さとるは笑った。
「僕も……会いたい」
薫が微笑む。
「私も」
その瞬間。
さとるは、薫の顔をじっと見た。
いつもより長く。
薫が少し不思議そうにする。
「どうしたの?」
「……何でもない」
さとるは目を逸らした。
言えなかった。
今日の顔を覚えておきたい。
声を覚えておきたい。
笑った顔を覚えておきたい。
そんなことを考えている自分が、嫌だった。
まるで、今日が最後になるかもしれないと考えているみたいだった。
二人は港まで戻った。
別れる時間になった。
「また明日」
薫が言う。
「……うん」
さとるは少し遅れて答えた。
「また明日」
薫が歩き出す。
さとるは、その背中を見つめた。
いつもなら、すぐに自分も戻る。
けれど今日は、動けなかった。
薫の姿が小さくなる。
角を曲がる。
見えなくなる。
それでも、さとるはそこに立っていた。
やがて一人になる。
海の音だけが聞こえる。
さとるはゆっくりと右手を握った。
震えていた。
今度は、隠そうとしなかった。
「……怖い」
初めて、声にした。
誰もいない港だった。
だから言えた。
「怖い……」
出撃命令が出れば、帰れない。
そのことを、さとるは知っている。
家に帰れない。
母に会えない。
父に会えない。
薫にも会えない。
それが分かっているから、明日が怖かった。
それでも、明日が来てほしかった。
薫に会いたかった。
だから、さとるは海を見つめた。
そして、震える手をゆっくり握りしめた。
「明日も……会いたい」
それは、願いだった。
約束ではない。
命令が出れば、すべてが変わる。
そのことを知りながら、それでもさとるは願った。
明日も薫が港で待っていてくれることを。
そして、自分もそこへ行けることを。
その小さな願いを胸に抱えたまま、さとるは暗くなり始めた港を離れた。
まだ、出撃命令は出ていない。
だから今は、明日を信じるしかなかった。




