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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十五話 海辺の約束

第十五話 海辺の約束


翌日。


さとるは、目を覚ますより先に夢を見ていた。


家だった。


母が台所に立っている。


父が庭にいる。


開いた窓から風が入ってきて、カーテンが静かに揺れている。


何も変わっていない。


戦争が始まる前と同じ朝だった。


「さとる、ご飯よ」


母の声がする。


さとるは返事をしようとした。


けれど、その声が出る前に目が覚めた。


天井が見えた。


見慣れた部屋ではない。


基地の部屋だった。


一瞬だけ、何が現実なのか分からなかった。


さとるはゆっくり起き上がった。


夢の中の家が、まだ頭の中に残っている。


母の声。


父の姿。


家の匂い。


そして、目が覚めた瞬間に感じる、この場所の空気。


さとるは布団の上で、両手を見つめた。


右手を握る。


開く。


また握る。


指先が震えていた。


「……まただ」


小さく呟いた。


以前は、震える理由を疲れだと思っていた。


今は違う。


自分でも分かっている。


怖い。


出撃命令が出れば、帰れない。


そのことを考えるだけで、身体が勝手に反応する。


けれど、今日はその恐怖を考えないようにした。


なぜなら、今日は薫と会う約束をしているからだ。


「また明日」


昨日、薫と交わした言葉。


その「明日」が今日になった。


それだけで、少しだけ胸が軽くなった。


さとるは立ち上がった。


朝の訓練が始まる。


いつもと変わらない。


号令がかかる。


走る。


身体を動かす。


汗が流れる。


呼吸が乱れる。


さとるは必死に動いた。


けれど、頭の片隅にはずっと薫がいた。


今日も港で待っているだろうか。


昨日と同じように笑ってくれるだろうか。


そう思うだけで、ほんの少し力が出た。


昼。


食事の時間になった。


さとるは飯を口に運んだ。


今日は昨日より食べられた。


母が作ってくれた飯を思い出す。


そして、ふと考える。


もし帰れたら。


母の飯を食べる。


父と話す。


家の庭を見る。


そして、薫と町を歩く。


そんな未来を考えることが、最近増えていた。


以前なら、未来のことなど考えなかった。


明日の訓練。


その次の日の訓練。


それだけだった。


けれど、薫と出会ってから違う。


明日が欲しくなった。


その先も欲しくなった。


一年後。


二年後。


戦争が終わったあと。


そんな遠い時間まで、初めて考えるようになった。


だからこそ、怖かった。


自分には、その未来が確約されていない。


むしろ、出撃命令が出れば、その未来を失う可能性のほうが高い。


箸を握る手が止まった。


さとるは、ゆっくり息を吐いた。


「……帰る」


小さく呟いた。


それは、自分自身への言葉だった。


午後。


訓練が終わる。


さとるは港へ向かった。


昨日と同じ道。


昨日と同じ海。


けれど、今日のさとるには違って見えた。


少し歩いたところで、薫の姿が見えた。


薫もさとるを見つけた。


笑う。


さとるも笑った。


「待った?」


「ううん」


薫は首を振った。


「私も今来たところ」


二人は並んで歩いた。


何を話すでもなく、しばらく海のそばを歩いた。


波の音が聞こえる。


鳥の声がする。


遠くから船の音がする。


戦争の最中なのに、この場所だけは時間が止まっているようだった。


薫が言った。


「今日は、少し遠くまで行ってみない?」


「いいよ」


二人は港から少し離れた海辺まで歩いた。


人の少ない場所だった。


砂浜が続いている。


海は穏やかだった。


薫が靴を脱いで、砂の上に立った。


「冷たい」


「海水?」


「うん」


さとるも笑った。


「風も冷たいな」


「でも気持ちいい」


二人は並んで海を見た。


薫が言った。


「ここ、好きだな」


「僕も」


「戦争が終わったら、ここにまた来たい」


さとるの胸が、少し痛んだ。


戦争が終わったら。


その言葉は、二人にとって希望だった。


けれど、さとるにとっては、同時に怖い言葉でもあった。


そこまで生きていられるのか。


自分は、その未来を見ることができるのか。


答えは分からない。


それでも、薫は海を見ながら笑っている。


さとるは、その横顔を見た。


「来よう」


「うん」


「戦争が終わったら」


「うん」


「二人で」


薫が振り返った。


「約束ね」


さとるは頷いた。


「約束」


その言葉を口にしたとき、さとるの胸の奥で何かが強く締めつけられた。


約束。


守りたい。


絶対に守りたい。


でも――


出撃命令が出たら、自分は帰れない。


その現実を、さとるは知っている。


だから、この約束は簡単なものではなかった。


ただの「また会おう」ではない。


生きて帰るという意味だった。


薫はそんなことを知らない。


だから、笑っている。


「楽しみだね」


「うん」


さとるも笑った。


「楽しみだ」


本当だった。


楽しみだった。


その未来が欲しかった。


だからこそ、怖かった。


薫が砂浜に座った。


さとるも隣に座る。


二人の間を、海風が通り過ぎた。


薫が言った。


「さとるは、怖くないの?」


さとるは海を見た。


すぐには答えなかった。


「……怖いよ」


「やっぱり?」


「うん」


さとるは手を膝の上に置いた。


指先が震えている。


「最近、前より怖くなった」


薫は黙って聞いていた。


「前は、自分がどうなるかだけ考えてた」


「うん」


「でも今は……」


さとるは言葉を探した。


「帰りたいって思うんだ」


「家に?」


「うん」


少し間を置いて。


「薫のところにも」


薫は目を伏せた。


「私も、帰ってきてほしい」


その言葉を聞いた瞬間。


さとるの手が強く握られた。


震えが大きくなる。


それでも、隠さなかった。


「帰るよ」


「うん」


「絶対に」


そう言った。


けれど、その言葉を言ったあと、さとるは海を見つめた。


自分が絶対などと言える立場ではないことを知っている。


それでも言いたかった。


薫に安心してほしかった。


自分自身にも、そう言い聞かせたかった。


帰る。


帰らなければならない。


母のところへ。


父のところへ。


そして薫のところへ。


しばらくして、薫が小さな声で言った。


「もし戦争が終わったら……」


「うん」


「普通に暮らしたいね」


さとるは頷いた。


「うん」


「朝起きて」


「うん」


「ご飯を食べて」


「うん」


「町を歩いて」


「うん」


「また海を見て」


さとるは笑った。


「それだけでいいな」


「うん」


二人は海を見つめた。


大きな夢ではなかった。


何か特別なことをしたいわけでもない。


ただ、生きていたい。


朝を迎えたい。


誰かとご飯を食べたい。


好きな人と歩きたい。


海を見たい。


それだけだった。


夕方になった。


二人は港へ戻った。


別れの時間が近づく。


薫が言った。


「明日も来る?」


「来る」


今度は迷わなかった。


「待ってる」


「うん」


薫が笑う。


「また明日」


「また明日」


薫が歩いていく。


さとるは、その姿を見送った。


昨日と同じように。


けれど、今日は昨日より長く見送った。


姿が見えなくなってからも、しばらく動けなかった。


そして一人になると、右手を握った。


やはり震えている。


さとるはその手を見つめた。


「怖い……」


小さく呟く。


出撃命令が出れば、帰れない。


それは分かっている。


だからこそ、今が大切だった。


今日、薫と話せたこと。


笑えたこと。


海を見たこと。


「また明日」と言えたこと。


すべてが、いつか失われるかもしれない。


それでも、さとるは明日を望んだ。


明日も薫に会いたい。


その次の日も。


その次も。


そしていつか、本当に戦争が終わったら――


二人で、この海へ戻ってきたい。


さとるは海を振り返った。


夕暮れの海は、静かに光っていた。


「約束だからな」


誰もいない海に向かって、さとるは呟いた。


それは薫との約束であると同時に、自分自身との約束でもあった。


――生きて帰る。


その願いを胸に抱きながら、さとるはゆっくりと基地へ戻っていった。

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