第十六話 訓練と恋
第十六話 訓練と恋
朝の海は、静かだった。
まだ太陽が高く昇る前の海は、薄い灰色をしていた。
波は小さく寄せては返し、岸辺の砂を濡らしている。
さとるは、しばらくその海を見つめていた。
昨日、薫と交わした約束が、頭から離れなかった。
――戦争が終わったら、ここにまた来よう。
――二人で。
あの言葉を思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど、その温かさのすぐ隣には、冷たいものがあった。
もし、戦争が終わる前に出撃命令が出たら。
もし、自分が帰ってこられなかったら。
昨日の約束は、そこで途切れてしまう。
さとるは、無意識に右手を握った。
指先が震えている。
一度、深く息を吸った。
それでも震えは止まらなかった。
さとるは手をポケットに入れた。
誰にも見られたくなかった。
怖がっていると思われたくなかった。
何より――自分自身に、怖がっていることを認めたくなかった。
「……大丈夫だ」
小さく呟いた。
けれど、その声は自分が思っていたより弱かった。
---
「さとる、行くぞ」
後ろから剛の声がした。
さとるは振り返った。
「うん」
いつものように答える。
剛はさとるの顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「眠れなかったのか?」
「……少しだけ」
「また考え事か?」
「まあな」
それ以上は言わなかった。
剛も、それ以上聞かなかった。
二人は並んで歩き出した。
訓練が始まれば、考える暇などなくなる。
身体を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。
だから、さとるは訓練が嫌いではなかった。
厳しい。
苦しい。
身体は重くなる。
それでも、動いている間だけは、恐怖から逃げることができた。
けれど――
休憩になると、また思い出してしまう。
海。
家。
母親。
父親。
そして、薫。
昨日の笑顔。
「約束だからね」
そう言った薫の声。
さとるは目を伏せた。
昨日までは、約束が嬉しかった。
今日は、その約束が怖かった。
約束を守るためには、生きて帰らなければならない。
そのことを、さとるは初めてはっきりと意識した。
---
昼の食事の時間になった。
さとるは膳の前に座った。
目の前には、いつもの食事が並んでいる。
けれど、箸を持つ手が止まった。
食べなければならない。
身体を動かすためにも、食べる必要がある。
頭では分かっている。
それでも、今日はなかなか箸が進まなかった。
「食わないのか?」
剛が隣から声をかけた。
「食べるよ」
さとるは笑った。
そして、少しずつ口に運んだ。
けれど、味がよく分からなかった。
母親の作る飯なら、もっと味がする気がした。
家の食卓なら、父親が黙って箸を動かし、母親が「もっと食べなさい」と言ってくれる。
そんな光景を思い浮かべる。
――帰りたい。
その言葉が、胸の中に浮かんだ。
以前なら、心の中で思うだけだった。
けれど今は違う。
帰りたい理由が増えてしまった。
家に帰りたい。
母親の飯が食べたい。
父親と話したい。
そして――
薫に会いたい。
その全部が、さとるの胸の中に重なっていた。
「……帰ろうな」
剛が突然言った。
さとるは顔を上げた。
剛は前を向いたままだった。
「何が?」
「何がって……」
剛は少し笑った。
「俺たちの話だよ」
さとるも、少しだけ笑った。
「……ああ」
「帰ろうな」
その言葉を聞いて、さとるは頷いた。
「うん」
今度は、はっきりと答えた。
「帰ろう」
けれど、その声の奥では、別の言葉が震えていた。
――帰れるのだろうか。
---
午後の訓練が終わるころには、空が少し赤くなっていた。
さとるは汗を拭いながら海を見た。
海は、いつもと同じようにそこにあった。
昨日、薫と歩いた海辺。
二人で立った場所。
さとるは、しばらく動かなかった。
「さとる」
剛が呼んだ。
「先に戻っててくれ」
「……分かった」
剛は何か言いたそうにしたが、そのまま去っていった。
一人になったさとるは、海を見つめ続けた。
そして、昨日の約束を思い出した。
――また来よう。
――二人で。
「……絶対に」
さとるは呟いた。
「帰ってこないと……」
そこで言葉が止まった。
喉の奥が詰まった。
帰ってくる。
そう言った。
薫にも言った。
剛にも言った。
心の中でも何度も繰り返した。
それなのに。
その言葉を口にするたび、胸が苦しくなっていく。
さとるは目を閉じた。
手が震えていた。
今度はポケットに隠さなかった。
自分の手を見つめた。
まだ二十歳の手だった。
家で飯を食べて、畑を手伝って、父親と海を見ていた手。
手紙を書いた手。
薫と並んで歩いた手。
この手で、もっと先の未来を掴めると思っていた。
けれど――
戦争は、その未来を簡単に奪ってしまう。
「……怖い」
誰もいない海に向かって、さとるは言った。
声に出してしまうと、涙が出そうになった。
だから、すぐに顔を上げた。
泣きたくなかった。
泣けば、何かが壊れてしまいそうだった。
---
夕方。
港へ向かう道を、さとるは一人で歩いていた。
今日は薫に会えるか分からない。
それでも、足は自然と港へ向かっていた。
そして――
いた。
薫が、海を見ながら立っていた。
さとるの姿に気づくと、薫が笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけた。
「さとる」
「薫」
名前を呼ぶ。
それだけで嬉しかった。
薫はさとるの隣に歩いてきた。
「今日も訓練だった?」
「うん」
「大変だった?」
「……うん」
少し間を置いて、さとるは笑った。
「でも、大丈夫」
薫はさとるの顔を見た。
「本当に?」
「……うん」
「さとる」
「何?」
「今日、少し顔が疲れてる」
さとるは答えられなかった。
薫は、それ以上聞かなかった。
ただ、静かに隣に立った。
二人の間を、海から吹く風が通り過ぎていく。
しばらくして、薫が言った。
「昨日の約束……覚えてる?」
「もちろん」
「戦争が終わったら」
「うん」
「ここに来る」
「うん」
「二人で」
さとるは頷いた。
「二人で」
薫は笑った。
その笑顔を見ていると、さとるは思った。
この笑顔を、もっと見たい。
明日も。
その次の日も。
戦争が終わったあとも。
十年後も。
二十年後も。
そんな未来が、本当に来ればいい。
「薫」
「なに?」
「……俺」
そこで、さとるは言葉を止めた。
本当は言いたかった。
怖い。
出撃するのが怖い。
帰れなくなるのが怖い。
薫に二度と会えなくなるのが怖い。
けれど、言えなかった。
代わりに、別の言葉を選んだ。
「……また明日も、会えるかな」
薫は少し驚いた顔をした。
そして、優しく笑った。
「会えるよ」
「……うん」
「明日も、待ってる」
さとるは頷いた。
「俺も、来る」
その瞬間。
また右手が震えた。
さとるは、薫に見えないように背中へ回した。
けれど薫は、何も言わなかった。
ただ、海を見つめていた。
二人の前には、夕暮れの海が広がっていた。
美しかった。
だからこそ、さとるは怖かった。
この景色が、最後になるかもしれない。
この声が、最後になるかもしれない。
この笑顔が――
最後になるかもしれない。
そんな考えが浮かぶたび、胸が締めつけられる。
さとるは、それを振り払うように海へ目を向けた。
そして心の中で、何度も繰り返した。
――帰る。
――帰るんだ。
――約束したんだから。
その言葉は、祈りに近かった。
---
その夜。
さとるは布団の中で目を閉じていた。
眠れなかった。
身体は疲れている。
それなのに、眠れない。
目を閉じれば、海が浮かぶ。
薫の顔が浮かぶ。
家の食卓が浮かぶ。
母親の声が聞こえる。
父親の背中が見える。
そして最後に、海が現れる。
さとるは目を開けた。
暗い天井を見つめる。
胸に手を当てる。
心臓が速く動いている。
「……大丈夫」
また言った。
けれど今度は、自分を安心させるためではなかった。
明日も薫に会うために。
家に帰るために。
約束を守るために。
さとるは目を閉じた。
そして、小さく呟いた。
「……生きて帰る」
その言葉を、今度は何度も繰り返した。
「生きて帰る」
「生きて……帰る」
けれど、何度繰り返しても。
胸の奥にある恐怖は、消えなかった。
むしろ――
昨日より、少し大きくなっていた。




