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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十七話 剛が気づいた秘密

第十七話 剛が気づいた秘密


翌朝。


さとるは、いつもより早く目を覚ました。


外はまだ薄暗かった。


しばらく布団の中で天井を見つめる。


昨夜は、なかなか眠れなかった。


目を閉じるたびに、薫の顔が浮かんだ。


そして、そのたびに同じ言葉を繰り返した。


――生きて帰る。


何度も。


何度も。


けれど、眠りにつくまで、その言葉が胸の中から消えることはなかった。


さとるはゆっくり起き上がった。


着替えようとしたとき、指が止まった。


手が震えている。


昨日から続いていた。


さとるは右手を握った。


一度、二度。


それでも震えは止まらなかった。


「……またか」


小さく呟いた。


誰にも見られないように、手を袖の中へ隠した。


そのときだった。


「起きてたのか」


声がして、さとるは振り返った。


剛だった。


「……ああ」


「ずいぶん早いな」


「ちょっと眠れなくて」


「また?」


さとるは答えなかった。


剛は、しばらくさとるを見ていた。


「最近、お前変だぞ」


「変?」


「うん」


剛は少し考えてから言った。


「前から考え込むことはあったけど、最近は……なんていうか」


「なんだよ」


「何かを待ってるみたいだ」


さとるの胸が、わずかに跳ねた。


「そんなことない」


「そうか?」


「うん」


剛はそれ以上聞かなかった。


けれど、その目は何かを見抜こうとしているようだった。


---


その日の訓練は、いつもより厳しく感じた。


身体を動かしている間は、何も考えないようにしていた。


けれど、少しでも気を抜くと、薫のことが頭に浮かぶ。


昨日の笑顔。


「明日も、待ってる」


その言葉。


さとるは唇を噛んだ。


自分には、明日が当たり前に来るとは限らない。


それを知っているからこそ、薫の「明日も」という言葉が苦しかった。


訓練の途中、さとるの足が一瞬止まった。


「さとる!」


教官の声が飛ぶ。


「はい!」


さとるはすぐに動いた。


周りに気づかれないように、息を整える。


剛がちらりとこちらを見ていた。


けれど、何も言わなかった。


---


昼になった。


食事を終えたあと、さとるは一人で外へ出た。


海を見たかった。


いや。


海の向こうにいる薫を思い出したかった。


そんな自分に気づいて、少し笑った。


いつから、自分はこんなふうになったのだろう。


少し前までは、海を見れば家のことを考えていた。


父親。


母親。


故郷。


帰る場所。


それだけだった。


今は違う。


海を見ると、薫のことを考える。


あの丘。


あの砂浜。


二人で交わした約束。


「戦争が終わったら……」


その先を考えると、胸が苦しくなる。


「……俺、本当にどうしたんだろうな」


さとるは一人で呟いた。


その声を、少し離れたところから剛が聞いていた。


---


夕方。


訓練が終わると、さとるは港へ向かった。


いつもの道だった。


もう、迷うことはなかった。


海が見えてくる。


そして――


薫がいた。


さとるの顔が、ほんの少し緩んだ。


薫も気づいた。


笑顔になる。


二人は並んで歩き始めた。


「今日も大変だった?」


「うん。でも大丈夫」


「昨日より疲れてる」


「そうかな」


「そうだよ」


薫が笑う。


さとるも笑った。


その笑顔を見ていると、疲れが少し消える気がした。


二人はいつもの丘へ向かった。


誰もいない場所。


海を見下ろせる場所。


薫が腰を下ろした。


さとるも隣に座る。


「ねえ、さとる」


「ん?」


「もし戦争が終わったら、何がしたい?」


突然の質問だった。


さとるは少し考えた。


「……家に帰りたい」


「それから?」


「母さんの飯を食べたい」


薫が笑った。


「それ、前にも言ってたね」


「だって、本当に食べたいから」


「じゃあ、その次は?」


さとるは海を見た。


「父さんと話したい」


「何を?」


「分からない」


さとるは笑った。


「今まで、あんまり話してこなかったから」


「そっか」


少しの沈黙。


それから、さとるは薫を見る。


「薫は?」


「私?」


「うん」


薫は海を見た。


「お母さんと一緒に暮らしたい」


「うん」


「それから……」


薫は少し恥ずかしそうに笑った。


「この海に来たい」


「一人で?」


「……ううん」


薫がさとるを見る。


「二人で」


さとるの胸が熱くなった。


「うん」


二人は笑った。


その光景を、少し離れた道から剛が見ていた。


---


剛は、すぐには声をかけなかった。


ただ、二人の姿を見ていた。


さとるが、あんな顔で笑っているのを見たことがなかった。


訓練のときの顔とも違う。


仲間と話しているときとも違う。


家の話をしているときとも違う。


もっと柔らかい。


もっと普通の、二十歳の青年の顔だった。


剛は、そこでようやく気づいた。


――そういうことか。


さとるには、好きな人がいる。


そして、その相手があの少女なのだ。


剛は静かにその場を離れた。


邪魔をするつもりはなかった。


---


夜。


宿舎に戻ると、さとるは剛と二人になった。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


剛が突然口を開いた。


「……さとる」


「ん?」


「今日、港に行っただろ」


さとるの動きが止まった。


「……行ったけど」


「誰かと会ってたな」


心臓が跳ねた。


さとるは答えなかった。


剛も急かさなかった。


「女の子だった」


さとるの顔が固まる。


「……見てたのか」


「ああ」


しばらく沈黙が続いた。


さとるは俯いた。


隠すつもりだった。


誰にも知られたくなかった。


薫を巻き込みたくなかった。


けれど――


剛には、もう隠せなかった。


「……薫っていうんだ」


初めて、剛に名前を口にした。


剛は何も言わなかった。


ただ、静かに頷いた。


「そうか」


「……怒らないのか?」


「なんで俺が怒るんだよ」


「こういうの……」


「好きになったんだろ?」


さとるは黙った。


「……うん」


小さな声だった。


剛は笑わなかった。


からかいもしなかった。


ただ、しばらくさとるの横顔を見ていた。


「お前、本当に好きなんだな」


さとるは返事をしなかった。


けれど、その沈黙が答えだった。


剛はため息をついた。


「そりゃ、帰りたくなるわけだ」


その言葉に、さとるの胸が詰まった。


「……うん」


「家だけじゃないんだな」


「……うん」


「薫にも会いたいんだな」


さとるは、ゆっくり頷いた。


「会いたい」


その言葉を口にした瞬間、目の奥が熱くなった。


剛は、それを見ないふりをした。


「じゃあ、帰らないとな」


「……うん」


「約束したんだろ?」


さとるは顔を上げた。


「うん」


「だったら、帰れ」


剛はそう言った。


「家にも。薫のところにも」


さとるは唇を噛んだ。


「……帰りたい」


その声は震えていた。


「俺、本当に……帰りたいんだ」


剛は黙っていた。


さとるは続けた。


「昔はさ、戦争が終わったら家に帰るって、それだけ考えてた」


「うん」


「でも今は……」


さとるは言葉を探した。


「帰りたい場所が、増えた」


剛は静かに頷いた。


「だから、怖いんだ」


その言葉だけは、隠せなかった。


「失いたくないものが増えるほど……怖くなる」


剛は何も言わなかった。


ただ、隣に座った。


二人の間に、しばらく沈黙が流れた。


やがて剛が言った。


「だったら、怖いままでいいんじゃないか」


さとるが顔を上げる。


「怖いから帰りたいんだろ」


その言葉に、さとるは何も返せなかった。


剛は立ち上がった。


「俺は誰にも言わない」


「……剛」


「お前の秘密だろ」


剛はそれだけ言って、先に歩いていった。


さとるは一人残った。


胸の奥に、何かが込み上げていた。


安心した。


嬉しかった。


そして――


怖かった。


自分の気持ちを知ってくれる人ができたことで、逆に失うことが現実になったような気がした。


---


その夜。


さとるは布団の中で、薫のことを考えていた。


剛に知られた。


それだけなのに、何かが変わった気がした。


もう、自分の心の中だけにしまっておく恋ではない。


誰かが知っている。


それは少し怖くて。


それでも、どこか嬉しかった。


さとるは目を閉じた。


薫の笑顔が浮かぶ。


「明日も、待ってる」


その声を思い出す。


さとるは胸元で手を握った。


また震えていた。


けれど今度は、その手を隠さなかった。


「……帰る」


小さく呟く。


「絶対に帰る」


そして、その言葉のあとに、もう一つだけ続けた。


「……薫に、会うために」


暗い部屋の中で、その言葉だけが静かに残った。

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