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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十八話 戦争が終わったら

第十八話 戦争が終わったら


朝から、基地の空気が少し違っていた。


何が変わったのか、さとるにはすぐには分からなかった。


訓練はいつも通りだった。


食事も同じ。


仲間たちも、表面上はいつもと変わらない。


それでも、どこか落ち着かなかった。


人が話している。


声を落として。


誰かが近づくと、急に口を閉じる。


そんなことが何度かあった。


さとるは気になった。


けれど、自分から聞くことはできなかった。


聞いてしまえば、本当に何かが起きていることを認めることになる気がした。


---


昼前。


訓練の合間に、何人かの訓練生が集まっていた。


さとると剛も少し離れた場所にいた。


そのとき、一人の訓練生が低い声で言った。


「……聞いたか?」


「何を?」


「近いうちに、出撃があるらしい」


さとるの手が止まった。


剛も顔を上げた。


「本当なのか?」


「分からない」


「じゃあ、何でそんな話になってるんだよ」


「昨日、上のほうで何か話してたって」


「それだけ?」


「それだけじゃない」


その男は周囲を見回した。


そして、さらに声を落とした。


「出撃に向けた準備が進んでるらしい」


誰も口を開かなかった。


その一言だけで、空気が重くなった。


さとるは膝の上で手を握った。


「誰が出るんだ?」


別の男が聞いた。


「そこまでは分からない」


「人数は?」


「知らない」


「いつ?」


「……近いうち、らしい」


曖昧な言葉だった。


誰も確かなことを知らない。


なのに、その「近いうち」という言葉だけが、妙に現実味を持っていた。


さとるの喉が乾いた。


近いうち。


それは、今日かもしれない。


明日かもしれない。


数日後かもしれない。


「まだ正式な命令じゃないんだろ?」


誰かが言った。


「そうらしい」


「じゃあ、ただの噂だ」


「そうだよ」


そう言いながら、誰も笑わなかった。


---


午後になると、噂は少しずつ形を変えていった。


「近いうちに出撃するらしい」


それが、


「近日中に出撃する部隊があるらしい」


になった。


さらに、


「もう出撃の準備が始まっているらしい」


という話になった。


誰が言い始めたのか分からない。


どこから伝わったのかも分からない。


けれど、昼まで曖昧だった話が、夕方になるころには基地の中を静かに広がっていた。


さとるは、そのたびに胸が苦しくなった。


「……剛」


「ん?」


「これ、本当なのかな」


剛は答えなかった。


しばらくしてから言った。


「分からない」


「そうだよな」


「でも……」


剛が言葉を止める。


「でも、噂が出るってことは、何かあるのかもしれない」


さとるは俯いた。


その言葉が、一番怖かった。


何もなければいい。


ただの噂であってほしい。


そう思う。


けれど、完全に嘘だとも思えなかった。


基地の空気が変わっている。


人の顔が変わっている。


いつもより口数が少ない。


誰かが何かを待っている。


その「何か」が、さとるには分かってしまっていた。


――出撃命令。


---


夕方。


さとるは一人で港へ向かった。


いつもなら、薫に会えることを考えるだけで少し心が軽くなる。


けれど今日は違った。


足が重い。


薫に会いたい。


でも、会うのが怖い。


もし今日が最後になったら。


そう思ってしまうからだった。


港に着く。


海を見る。


そして、薫を探す。


――いた。


薫がこちらに気づいた。


いつものように笑った。


「さとる」


その声を聞いた瞬間。


さとるの胸がいっぱいになった。


会えた。


今日も会えた。


それだけのことなのに、涙が出そうになった。


「どうしたの?」


「……いや」


「顔、変だよ」


「そう?」


「うん」


薫が心配そうに見る。


さとるは笑った。


「ちょっと疲れただけ」


また嘘をついた。


出撃の噂がある。


そんなことを言えば、薫も不安になる。


だから言えなかった。


二人は並んで歩いた。


いつもの海辺。


いつもの場所。


けれど、今日だけは何もかもが違って見えた。


海の色。


風の匂い。


薫の声。


一つ一つが、さとるの中に強く残っていく。


まるで、自分が知らないうちに「最後」を探しているようだった。


「ねえ」


薫が言った。


「うん?」


「戦争が終わったら、またここに来ようね」


さとるの胸が痛んだ。


「……うん」


「約束だよ」


「うん」


「絶対ね」


さとるは薫を見た。


そして、言った。


「絶対に帰る」


薫は笑った。


「うん。待ってる」


その言葉を聞いた瞬間。


さとるは目を伏せた。


――待っていてほしい。


――でも、待たせたくない。


その二つの気持ちが胸の中でぶつかった。


---


夜。


宿舎に戻ると、昼間よりも空気が重かった。


何人かが小声で話している。


「明日かもしれないって」


「誰から聞いた?」


「分からない」


「でも、準備が始まってるらしい」


「本当か?」


「知らない」


また同じ言葉だった。


本当か分からない。


誰が出るか分からない。


いつかも分からない。


なのに――


皆が怖がっていた。


さとるは布団の端に座った。


剛が隣に来た。


「……寝られそうか?」


「無理だと思う」


「俺も」


二人は黙った。


しばらくして、廊下から足音が聞こえた。


二人とも同時に顔を上げた。


足音が近づく。


さとるの心臓が速くなる。


また、あの感覚だった。


――呼ばれる。


――名前を呼ばれる。


――出撃が決まる。


足音は部屋の前まで来た。


止まった。


さとるは息を止めた。


けれど、しばらくして足音は再び動き出した。


遠ざかっていく。


さとるはようやく息を吐いた。


「……まだだ」


剛が小さく言った。


「うん」


さとるは自分の手を見る。


震えていた。


噂しかない。


正式な命令は来ていない。


まだ何も決まっていない。


それなのに、身体はもう「出撃」を待つことができなくなっていた。


さとるは目を閉じた。


薫の顔が浮かぶ。


母親の顔が浮かぶ。


父親の背中が浮かぶ。


そして、今日聞いた言葉が頭の中で繰り返された。


――近いうちに。


その「近いうち」が、どんどん自分のところへ近づいているような気がした。


さとるは小さく呟いた。


「……来ないでくれ」


剛は何も言わなかった。


さとるはもう一度言った。


「まだ……来ないでくれ」


それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。


二十歳の青年が、まだ終わってほしくない人生に向かって、必死にしがみつくような祈りだった。

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