第十八話 戦争が終わったら
第十八話 戦争が終わったら
朝から、基地の空気が少し違っていた。
何が変わったのか、さとるにはすぐには分からなかった。
訓練はいつも通りだった。
食事も同じ。
仲間たちも、表面上はいつもと変わらない。
それでも、どこか落ち着かなかった。
人が話している。
声を落として。
誰かが近づくと、急に口を閉じる。
そんなことが何度かあった。
さとるは気になった。
けれど、自分から聞くことはできなかった。
聞いてしまえば、本当に何かが起きていることを認めることになる気がした。
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昼前。
訓練の合間に、何人かの訓練生が集まっていた。
さとると剛も少し離れた場所にいた。
そのとき、一人の訓練生が低い声で言った。
「……聞いたか?」
「何を?」
「近いうちに、出撃があるらしい」
さとるの手が止まった。
剛も顔を上げた。
「本当なのか?」
「分からない」
「じゃあ、何でそんな話になってるんだよ」
「昨日、上のほうで何か話してたって」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
その男は周囲を見回した。
そして、さらに声を落とした。
「出撃に向けた準備が進んでるらしい」
誰も口を開かなかった。
その一言だけで、空気が重くなった。
さとるは膝の上で手を握った。
「誰が出るんだ?」
別の男が聞いた。
「そこまでは分からない」
「人数は?」
「知らない」
「いつ?」
「……近いうち、らしい」
曖昧な言葉だった。
誰も確かなことを知らない。
なのに、その「近いうち」という言葉だけが、妙に現実味を持っていた。
さとるの喉が乾いた。
近いうち。
それは、今日かもしれない。
明日かもしれない。
数日後かもしれない。
「まだ正式な命令じゃないんだろ?」
誰かが言った。
「そうらしい」
「じゃあ、ただの噂だ」
「そうだよ」
そう言いながら、誰も笑わなかった。
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午後になると、噂は少しずつ形を変えていった。
「近いうちに出撃するらしい」
それが、
「近日中に出撃する部隊があるらしい」
になった。
さらに、
「もう出撃の準備が始まっているらしい」
という話になった。
誰が言い始めたのか分からない。
どこから伝わったのかも分からない。
けれど、昼まで曖昧だった話が、夕方になるころには基地の中を静かに広がっていた。
さとるは、そのたびに胸が苦しくなった。
「……剛」
「ん?」
「これ、本当なのかな」
剛は答えなかった。
しばらくしてから言った。
「分からない」
「そうだよな」
「でも……」
剛が言葉を止める。
「でも、噂が出るってことは、何かあるのかもしれない」
さとるは俯いた。
その言葉が、一番怖かった。
何もなければいい。
ただの噂であってほしい。
そう思う。
けれど、完全に嘘だとも思えなかった。
基地の空気が変わっている。
人の顔が変わっている。
いつもより口数が少ない。
誰かが何かを待っている。
その「何か」が、さとるには分かってしまっていた。
――出撃命令。
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夕方。
さとるは一人で港へ向かった。
いつもなら、薫に会えることを考えるだけで少し心が軽くなる。
けれど今日は違った。
足が重い。
薫に会いたい。
でも、会うのが怖い。
もし今日が最後になったら。
そう思ってしまうからだった。
港に着く。
海を見る。
そして、薫を探す。
――いた。
薫がこちらに気づいた。
いつものように笑った。
「さとる」
その声を聞いた瞬間。
さとるの胸がいっぱいになった。
会えた。
今日も会えた。
それだけのことなのに、涙が出そうになった。
「どうしたの?」
「……いや」
「顔、変だよ」
「そう?」
「うん」
薫が心配そうに見る。
さとるは笑った。
「ちょっと疲れただけ」
また嘘をついた。
出撃の噂がある。
そんなことを言えば、薫も不安になる。
だから言えなかった。
二人は並んで歩いた。
いつもの海辺。
いつもの場所。
けれど、今日だけは何もかもが違って見えた。
海の色。
風の匂い。
薫の声。
一つ一つが、さとるの中に強く残っていく。
まるで、自分が知らないうちに「最後」を探しているようだった。
「ねえ」
薫が言った。
「うん?」
「戦争が終わったら、またここに来ようね」
さとるの胸が痛んだ。
「……うん」
「約束だよ」
「うん」
「絶対ね」
さとるは薫を見た。
そして、言った。
「絶対に帰る」
薫は笑った。
「うん。待ってる」
その言葉を聞いた瞬間。
さとるは目を伏せた。
――待っていてほしい。
――でも、待たせたくない。
その二つの気持ちが胸の中でぶつかった。
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夜。
宿舎に戻ると、昼間よりも空気が重かった。
何人かが小声で話している。
「明日かもしれないって」
「誰から聞いた?」
「分からない」
「でも、準備が始まってるらしい」
「本当か?」
「知らない」
また同じ言葉だった。
本当か分からない。
誰が出るか分からない。
いつかも分からない。
なのに――
皆が怖がっていた。
さとるは布団の端に座った。
剛が隣に来た。
「……寝られそうか?」
「無理だと思う」
「俺も」
二人は黙った。
しばらくして、廊下から足音が聞こえた。
二人とも同時に顔を上げた。
足音が近づく。
さとるの心臓が速くなる。
また、あの感覚だった。
――呼ばれる。
――名前を呼ばれる。
――出撃が決まる。
足音は部屋の前まで来た。
止まった。
さとるは息を止めた。
けれど、しばらくして足音は再び動き出した。
遠ざかっていく。
さとるはようやく息を吐いた。
「……まだだ」
剛が小さく言った。
「うん」
さとるは自分の手を見る。
震えていた。
噂しかない。
正式な命令は来ていない。
まだ何も決まっていない。
それなのに、身体はもう「出撃」を待つことができなくなっていた。
さとるは目を閉じた。
薫の顔が浮かぶ。
母親の顔が浮かぶ。
父親の背中が浮かぶ。
そして、今日聞いた言葉が頭の中で繰り返された。
――近いうちに。
その「近いうち」が、どんどん自分のところへ近づいているような気がした。
さとるは小さく呟いた。
「……来ないでくれ」
剛は何も言わなかった。
さとるはもう一度言った。
「まだ……来ないでくれ」
それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
二十歳の青年が、まだ終わってほしくない人生に向かって、必死にしがみつくような祈りだった。




