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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第十九話 呼ばれなかった名前

第十九話 呼ばれなかった名前


その朝、基地の空気は、いつもと違っていた。


何かが起こる。


さとるは、目を覚ました瞬間から、そんな気がしていた。


理由は分からない。


けれど、周囲の様子が妙だった。


いつもなら聞こえる笑い声がない。


廊下を歩く兵たちの足音が、どこか重い。


教官たちの動きも慌ただしく、何人かは小声で話しながら、何度も時計を確認していた。


訓練生たちも、それを感じ取っていた。


誰も口には出さない。


けれど、皆が同じことを考えている。


――出撃が近い。


その言葉が、基地全体に見えない霧のように広がっていた。


さとるは、制服の袖に腕を通した。


指先が震えている。


「……寒いのか?」


隣にいた剛が言った。


「いや」


さとるは答えた。


けれど、自分でも分かっていた。


寒いからではない。


手が震えている。


止めようとしても、止まらない。


さとるは両手を握りしめた。


強く。


爪が手のひらに食い込むほど。


それでも震えは消えなかった。


「さとる」


「……なんだ」


「大丈夫か?」


さとるは少しだけ笑った。


「大丈夫だよ」


そう言った。


けれど、剛は何も返さなかった。


おそらく、分かっている。


大丈夫な人間は、そんな顔をしない。


その日の午前。


突然、集合の命令が出た。


「全員、集合!」


鋭い声が響く。


訓練生たちは一斉に立ち上がった。


足音が重なる。


整列する。


誰も喋らない。


さとるの心臓が、異常なほど速くなっていた。


胸の奥で、何度も大きな音を立てる。


どくん。


どくん。


どくん。


前方に教官が立った。


その表情は硬かった。


しばらく沈黙が続いた。


そして、教官が口を開いた。


「これより、出撃者の名前を読み上げる」


その瞬間。


空気が変わった。


さとるは息を止めた。


とうとう来た。


頭では分かっていたはずなのに、実際にその言葉を聞くと、体が動かなくなりそうだった。


出撃。


その言葉だけで、喉が締めつけられる。


死ぬ。


その二文字が、頭の中に浮かんだ。


そして同時に、別の顔が浮かんだ。


薫。


港で笑っていた顔。


海辺で話した声。


二人で見た海。


「戦争が終わったら……」


そう言って笑った薫。


さとるは、ぎゅっと拳を握った。


「第一号――」


教官が読み上げる。


「山本一郎」


前列の青年が顔を上げた。


「はい!」


声が響いた。


その瞬間、さとるの背中に冷たいものが走った。


次の名前。


「田中清二」


「はい!」


また一人。


「中村浩」


「はい!」


三人目。


さとるは、もう周囲を見ることができなかった。


前だけを見つめていた。


「佐々木誠」


「はい!」


四人目。


そして――。


「高橋修」


「はい!」


五人目。


その声が響いたあとも、名前は続いた。


次々と読み上げられていく。


呼ばれる者。


返事をする者。


その声が、一人、また一人と、さとるの胸を締めつけていった。


三十名。


出撃する者の名前が読み上げられた。


そして――。


「以上」


その言葉で終わった。


さとるは、自分の名前が呼ばれなかったことに気づいた。


一瞬。


何も考えられなかった。


そして、次の瞬間。


大きく息を吐いた。


「……俺じゃない」


小さく呟いた。


その瞬間、胸の奥に安堵が広がった。


生きられる。


少なくとも、今日は。


今日だけは。


自分は出撃しない。


死なない。


薫に会える。


また海を見ることができる。


また家族を思うことができる。


また明日が来る。


そう思った。


けれど――。


その安堵は、すぐに苦しさへ変わった。


目の前にいる仲間たちは、呼ばれた。


自分の隣にいた青年も。


少し前まで笑っていた仲間も。


家族の話をしていた者も。


故郷へ帰ったらやりたいことを話していた者も。


みんな、出撃する。


みんな、死ぬかもしれない。


いや。


この任務に選ばれたということは――。


帰ってこない可能性の方が高い。


さとるは、唇を噛んだ。


さっきまで、


「自分じゃなくてよかった」


と思っていた。


その自分が、急に恥ずかしくなった。


けれど――。


本当に自分が選ばれていたら。


自分はどうしていただろう。


死にたくない。


そう思ったはずだ。


逃げたい。


帰りたい。


薫に会いたい。


家族に会いたい。


生きたい。


その気持ちを、誰が責められるのだろう。


さとるには分からなかった。


ただ、自分が今、生き残ったことに安堵している。


その事実だけが、胸に重く残った。


集合が解かれたあと。


訓練生たちは、無言のままそれぞれの場所へ戻っていった。


剛も隣を歩いていた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


やがて、さとるが口を開いた。


「……俺」


剛を見る。


「俺、呼ばれなくて……ほっとした」


剛は黙っていた。


「最低だよな」


「……違う」


「でも、そう思った」


さとるは足を止めた。


「死にたくないって思った」


剛も立ち止まった。


そして、しばらくしてから言った。


「俺もだ」


さとるが顔を上げる。


剛は苦しそうに笑った。


「だって、死にたくないからな」


二人はそれ以上、何も言わなかった。


それで十分だった。


怖いのは、自分だけではなかった。


強がっていた仲間も。


笑っていた仲間も。


家族の話をしていた仲間も。


みんな同じ人間だった。


みんな、生きたかった。


その日の夕方。


さとるは基地を出た。


薫に会いたかった。


本当は、出撃者の名前が読み上げられたことを話したかった。


怖かったこと。


自分の名前が呼ばれなくて、安心してしまったこと。


呼ばれた仲間たちを見て、胸が苦しくなったこと。


全部、薫に聞いてほしかった。


けれど――。


さとるは何も言わなかった。


二人が話せる場所へ行く。


薫は、いつものように海の近くで待っていた。


さとるの姿を見つけると、少しだけ笑った。


「来てくれたんだ」


その声を聞いた瞬間、さとるの胸が痛くなった。


「うん」


それだけ答えた。


薫は何も知らない。


今日、基地で何があったのか。


誰の名前が呼ばれたのか。


何人が出撃するのか。


そして、さとるがどんな気持ちでそこを出てきたのか。


何も知らない。


さとるは、そんな薫の顔を見つめた。


「どうしたの?」


「……いや」


言えなかった。


出撃のことを。


死のことを。


自分が怖がっていることを。


今だけは。


今だけは、薫と普通の話をしていたかった。


二人で海を見た。


夕日が海に沈んでいく。


薫が言った。


「また明日、会える?」


さとるは答えた。


「うん」


けれど、その言葉を口にした瞬間。


胸の奥が痛んだ。


また明日。


以前なら、何でもない言葉だった。


明日も会える。


明日も話せる。


明日も、この海を見ることができる。


それが当たり前だと思っていた。


でも、今日。


出撃者の名前を聞いたあとでは違った。


「また明日」は、約束ではなかった。


願いだった。


さとるは薫の横顔を見つめた。


この笑顔を、もう見られなくなるかもしれない。


そう思っただけで、息が苦しくなる。


だから、言った。


「……また明日」


薫は笑った。


「うん。また明日」


その声を、さとるは心の中にしまった。


忘れないように。


いつか、この声を思い出せるように。


基地へ戻る道を、一人で歩いた。


今日、自分の名前は呼ばれなかった。


だから、まだ生きている。


まだ薫に会える。


まだ家族を思うことができる。


まだ、帰ることができる。


けれど――。


さとるには分かっていた。


出撃の順番が、永遠に自分を避けてくれるわけではない。


今日呼ばれなかっただけだ。


次は分からない。


次の集合で。


次の朝で。


次の命令で。


自分の名前が呼ばれるかもしれない。


そのとき、自分はどうするのだろう。


逃げられるのだろうか。


それとも――。


命令に従うのだろうか。


答えは出なかった。


ただ一つだけ、はっきりしていた。


今日、呼ばれなかった名前は――。


さとるの名前だった。


ただ――。


一度目の「その日」が、過ぎただけだった。

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