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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第二十話 次は、自分かもしれない

第二十話 次は、自分かもしれない


朝の基地には、いつもとは違う静けさがあった。


誰もが三十人のことを知っていた。


昨日、名前を呼ばれた三十人。


今日、その三十人は沖縄へ向かう。


さとるは、少し離れた場所から彼らを見ていた。


昨日までなら、ただの仲間だった。


同じ訓練を受けて。


同じ食事をして。


同じように疲れて。


同じように故郷の話をしていた。


けれど今日は違う。


彼らは、出撃する者だった。


そして、その一人ひとりの顔には、隠しきれないものがあった。


恐怖。


それでも、その恐怖の奥には、もう一つのものがあった。


覚悟。


さとるは、その二つが同時に人の顔に浮かぶことを、初めて知った。


山本一郎は、何度も腕時計を見ていた。


出発までの時間を確かめている。


あと三十分。


あと二十分。


あと十分。


時間が近づくほど、山本の指は震えた。


明らかに怖がっている。


それでも、誰にも弱音を吐かなかった。


最後に時計を見たあと、山本はそれを外した。


そして、隣にいた仲間へ渡した。


「これ、母ちゃんに返してくれ」


「自分で返せよ」


仲間が言った。


山本は一瞬だけ黙った。


それから笑った。


「……そうだな」


その笑顔は、少し震えていた。


怖い。


それでも、自分が帰れないかもしれないことを受け入れようとしている。


それが山本の覚悟だった。


田中清二は、手紙を書いていた。


何度も書き直していた。


「元気でいます」


そこまで書いて、止まる。


自分が元気なのか。


これから元気でいられるのか。


分からない。


田中はその言葉を消した。


次に、


「心配しないでください」


と書いた。


また、消した。


心配するに決まっている。


家族なのだから。


田中は長い間、白い紙を見つめた。


そして最後に、短く書いた。


「お母さん、ありがとう」


それだけだった。


涙が一滴、紙に落ちた。


田中は慌てて拭った。


泣いている自分を、誰にも見られたくなかった。


怖い。


家族に会いたい。


帰りたい。


それでも最後に残したのは、家族への感謝だった。


それが田中の覚悟だった。


中村浩は、海を見ていた。


長い時間、何も言わなかった。


「中村」


仲間が声をかける。


「ん?」


「行くぞ」


「ああ」


中村は一度だけ振り返った。


そして海を見た。


「……きれいだな」


その声は小さかった。


死ぬのが怖い。


海の向こうへ行くのが怖い。


二度とこの海を見られないかもしれない。


それでも、中村は最後まで海から目を逸らさなかった。


怖いからこそ、最後に見ておきたかった。


故郷の海を。


それが中村の覚悟だった。


佐々木誠は、胸元から家族の写真を取り出した。


父。


母。


兄弟。


みんな笑っている。


佐々木は写真を見つめた。


その目には涙が浮かんでいた。


「帰りたいな……」


誰にも聞こえない声だった。


けれど、写真をしまうときには、顔を上げた。


もう一度だけ写真に触れる。


そして胸元へ戻す。


帰りたい。


それでも行く。


帰りたいと思う気持ちを抱えたまま、行く。


それが佐々木の覚悟だった。


高橋修は、靴紐を結んでいた。


一度。


二度。


三度。


何度も結び直す。


手が震えている。


剛がそれを見ていた。


「怖いんだろうな」


剛が言った。


さとるは頷いた。


「うん」


やがて高橋は靴紐を強く結んだ。


そして立ち上がった。


「よし」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


震えていた手を、強く握った。


怖い。


でも、もう行く。


その小さな言葉に、高橋の覚悟があった。


そして、残りの二十五人も同じだった。


誰もが違う恐怖を抱えていた。


母親の顔を思い浮かべる者。


父親の言葉を思い出す者。


弟や妹を心配する者。


故郷の山を思い出す者。


恋人の笑顔を思い出す者。


まだやりたいことがある者。


帰ってからの約束をしていた者。


誰もが、未来を諦めきれていたわけではなかった。


むしろ――。


未来が欲しかったからこそ、怖かった。


結婚したかった者もいる。


働きたかった者もいる。


家族を作りたかった者もいる。


故郷へ帰って、何でもない毎日を送りたかった者もいる。


それなのに。


その未来を胸の奥にしまい込んで、彼らは立っていた。


ある者は笑った。


ある者は黙った。


ある者は手紙を書いた。


ある者は家族の写真を握った。


ある者は海を見た。


ある者は何度も深呼吸した。


方法は違っても、全員が同じ場所へ向かっていた。


恐怖の先へ。


覚悟を決めた者たちの列が、ゆっくりと動き始める。


その姿を見ながら、さとるは息を呑んだ。


「……みんな怖いんだ」


「うん」


剛が答えた。


「でも、行くんだな」


「ああ」


三十人の背中が遠ざかっていく。


誰一人として、怖くないわけではない。


誰一人として、死にたくないわけではない。


それでも歩いていく。


その姿を見ているうちに、さとるの胸に別の恐怖が生まれた。


昨日までは、


「自分じゃなくてよかった」


と思っていた。


今日は違う。


三十人の背中を見たからこそ分かった。


出撃するということは、恐怖がなくなることではない。


恐怖を抱えたまま、それでも歩き出すことなのだ。


そして――。


次に歩き出すのが、自分かもしれない。


「剛」


「ん?」


「もし次に、俺の名前が呼ばれたら……」


言葉が止まった。


剛も答えなかった。


二人とも、その先を知っている。


「俺、怖い」


さとるが言った。


「俺も」


「逃げたいって思うかもしれない」


「俺も思うと思う」


二人は海を見た。


遠ざかっていく三十人。


その姿が小さくなっていく。


「でも……」


剛が言った。


「名前を呼ばれたら、俺たちも行くんだろうな」


さとるはしばらく黙っていた。


そして、静かに頷いた。


「……そうだな」


それは勇ましい言葉ではなかった。


誇らしい言葉でもなかった。


ただ、怖いまま現実を受け入れようとする言葉だった。


夕方。


さとるは高台へ向かった。


薫が待っていた。


「遅かったね」


「うん」


薫の隣に座る。


海は静かだった。


さとるはしばらく黙っていた。


薫も急かさなかった。


やがて、さとるが言った。


「今日、三十人が出ていった」


「……うん」


「みんな、怖そうだった」


薫は黙って聞いている。


「でも、みんな行った」


「そう……」


「怖いのに」


さとるは海を見た。


「帰りたいのに」


そして、少し間を置いて続けた。


「それでも行った」


薫の目に涙が浮かんだ。


「さとるも……?」


その質問に、さとるは答えられなかった。


「まだ、俺の名前は呼ばれてない」


「うん」


「でも……次は分からない」


薫の手が震えた。


「怖い?」


「怖い」


今度は、隠さなかった。


「すごく怖い」


薫は俯いた。


「私も怖い」


さとるは薫の手を握った。


「でも」


薫が顔を上げる。


「俺、帰りたい」


「……うん」


「薫のところに」


薫の目から涙が落ちた。


「帰ってきて」


「ああ」


「絶対?」


さとるは少しだけ黙った。


絶対という言葉が、重かった。


それでも、薫の手を握った。


「帰る」


それは約束というより、願いだった。


生きたい。


帰りたい。


薫と一緒にいたい。


それが、さとるの覚悟だった。


恐怖が消えたわけではない。


むしろ、以前より強くなっていた。


でも、その恐怖の中に、一つだけはっきりしたものがあった。


生きたいと思う理由。


帰りたいと思う場所。


守りたいと思う人。


薫だった。


二人は肩を寄せて、夕暮れの海を見つめた。


「戦争が終わったら、何をしたい?」


薫が聞いた。


さとるは少し笑った。


「普通に暮らしたい」


「それだけ?」


「それが一番いい」


「どんな暮らし?」


「朝起きて」


「うん」


「飯食って」


「うん」


「働いて」


「うん」


「夜になったら帰ってきて」


「うん」


さとるは薫を見る。


「それで、薫がいる」


薫は泣きながら笑った。


「私も、それがいい」


海の向こうへ夕日が沈んでいく。


三十人は、もう沖縄へ向かっている。


彼らもまた、恐怖を抱えながら覚悟を決めた。


そして残されたさとると剛にも、いつかその時が来る。


さとるは薫の手を握った。


怖かった。


本当に怖かった。


それでも――。


明日も会いたい。


明後日も会いたい。


そして、いつか戦争が終わったら、この海をもう一度、薫と見たい。


その願いを胸に抱いたまま、さとるは立ち上がった。


「また明日」


薫が笑う。


「うん。また明日」


その言葉は、二人にとってただの挨拶ではなくなっていた。


恐怖の中で交わす、小さな約束だった。


そしてさとるは知っていた。


次に名前を呼ばれる日が、いつか来る。


そのとき自分は、恐怖を抱えたまま立つことになる。


その日まで――。


もう少しだけ、薫の隣にいたかった。

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