第二十一話 残された者たち
第二十一話 残された者たち
三十人がいなくなった翌朝。
大津島の海は、何も知らないように静かだった。
朝の光が水面に細く伸びている。
風が吹き、波が岸へ寄せては静かに返っていく。
鳥の声も聞こえた。
遠くでは船の音もする。
昨日までと、何も変わらない朝だった。
けれど、さとるには、その景色がひどく空っぽに見えた。
いつもの道を歩いても、聞き慣れた声がしない。
食事の場所を見ても、空いた席がある。
訓練場にも、昨日までいた人間の姿がない。
山本一郎。
田中清二。
中村浩。
佐々木誠。
高橋修。
そして、そのほかの二十五人。
三十人。
名前を呼ばれた三十人は、もうここにはいなかった。
「……静かだな」
隣を歩いていた剛が呟いた。
さとるは頷いた。
「ああ」
「昨日まで、あんなにうるさかったのにな」
「……そうだな」
二人とも、それ以上は言わなかった。
空いた場所を見るたびに、昨日の姿が思い浮かぶ。
山本が何度も時計を確認していたこと。
田中が手紙を書こうとして、何度も筆を止めていたこと。
中村が海をじっと見つめていたこと。
佐々木が家族写真を握っていたこと。
高橋が震える手で靴紐を結び直していたこと。
誰もが怖がっていた。
それでも、誰も逃げなかった。
さとるは昨日の光景を思い出しながら、胸の奥で考えた。
――覚悟とは、怖くなくなることではない。
怖いままでも、その日を迎えることなのかもしれない。
「さとる」
「ん?」
「俺たちも、いつかああなるのかな」
剛の声は低かった。
さとるはすぐには答えられなかった。
「……分からない」
それが精いっぱいだった。
だが、二人とも分かっていた。
分からないという言葉の中に、答えはほとんど入っている。
昨日は三十人だった。
次は、誰になるのか。
その中に自分が入っていないとは、もう思えなかった。
*
その日の訓練は、いつも通り行われた。
号令。
整列。
説明。
訓練。
何も変わらない。
けれど、さとるの中では何もかもが変わっていた。
昨日までは、出撃というものを、どこか遠い場所にあるものとして考えていた。
いつか来るもの。
まだ先のこと。
そう思いたかった。
だが、昨日三十人の名前が呼ばれた。
名前を呼ばれた者たちは、その瞬間から残された者たちとは違う場所へ進んでいった。
さとるは訓練をしながら、何度も手を握った。
汗で手のひらが濡れている。
胸の奥が落ち着かなかった。
――次は、自分かもしれない。
その考えが、頭から離れない。
もし自分の名前が呼ばれたら。
そのとき、自分は何を考えるのだろう。
母の顔。
父の顔。
故郷。
海。
そして――。
薫。
その名前を思い浮かべただけで、胸が締めつけられた。
昨日、薫と別れるときに交わした言葉が蘇る。
「また明日」
その言葉は、昨日まではただの挨拶だった。
けれど今は違う。
明日が来ることさえ、当たり前ではない。
ましてや、自分がそこにいることも。
*
昼休み。
さとると剛は、人の少ない場所で弁当を食べていた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて剛が箸を置いた。
「なあ」
「ん?」
「今日、薫さんに会うんだろ?」
「ああ」
「会ってこいよ」
さとるは剛を見る。
「……うん」
剛は少しだけ目を伏せた。
「会えるうちに、会っとけ」
さとるの手が止まった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
会えるうちに。
その「うちに」という言葉が、あまりにも残酷だった。
*
午後。
訓練が終わると、さとるは高台へ向かった。
薫と初めて話した場所。
二人だけで海を見た場所。
何度も未来の話をした場所。
そこへ行くたびに、少しだけ現実を忘れることができた。
けれど今日は違った。
高台から海を見下ろしながら、さとるは一人で立っていた。
海は美しかった。
あまりにも静かで、美しかった。
だからこそ、怖かった。
この海の向こうへ行ったら、自分は戻ってこられないかもしれない。
そう思うと、胸が苦しくなった。
「さとるさん」
後ろから声がした。
振り返る。
薫だった。
「薫……」
「待ちましたか?」
「ううん」
薫が隣に座った。
二人はしばらく海を見つめた。
「今日も……怖かったですか?」
薫が聞いた。
さとるは黙った。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
「昨日の三十人のこと?」
「それもある」
「それも?」
「……次は俺かもしれないって思った」
薫の顔から、少しずつ笑みが消えていった。
「……そうですよね」
それだけ言って、薫は海へ視線を戻した。
さとるは何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
「薫」
「はい」
「俺……」
そこで止まる。
言いたい言葉は分かっていた。
帰りたい。
薫のところへ帰りたい。
だから、約束したい。
必ず帰ってくると。
またここで会うと。
戦争が終わったら、一緒に海を見ると。
けれど――。
その言葉を口にすることができなかった。
「どうしました?」
「……いや」
「何か言おうとしましたよね」
薫が静かに笑った。
「分かりますよ」
さとるは俯いた。
「……約束したいんだ」
「え?」
「またここに来るって」
薫の目が揺れた。
「また明日、ここで会うって」
「はい……」
「戦争が終わったら、一緒に海を見るって」
「……はい」
「でも……」
さとるの声が震えた。
「約束できない」
薫は何も言わなかった。
「約束したいのに……できないんだ」
さとるは拳を握った。
「だって俺、自分が生きて帰れるって分からない」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
「必ず帰るって言ったら、薫は安心するかもしれない」
「……」
「俺だって、そう言いたい」
さとるは海を見た。
「でも……嘘になるかもしれない」
薫の目に涙が浮かんだ。
「俺が約束して、帰れなかったら……」
そこで言葉が詰まった。
「薫をずっと待たせることになる」
薫は俯いた。
涙が一粒、膝の上へ落ちた。
「だから……」
さとるは声を絞り出した。
「『帰ってくる』って、簡単には言えない」
長い沈黙があった。
海の音だけが聞こえる。
波が寄せてくる。
そして、静かに戻っていく。
薫は涙を拭った。
「……約束しなくてもいいです」
「薫……」
「帰ってくるって、無理に言わなくてもいいです」
薫の声は震えていた。
「私も……本当は分かってます」
「……」
「さとるさんが、帰ってこられるかどうか……誰にも分からないって」
さとるは唇を噛んだ。
「でも」
薫が顔を上げた。
「私は、待ちたい」
「……」
「約束じゃなくていいんです」
薫は涙を流しながら、それでも笑おうとした。
「私は、待ちたいから待つんです」
さとるの胸が締めつけられた。
「帰ってきてください、とは言います」
「うん」
「でも、それを約束にしたくない」
「……どうして?」
「約束にしたら……もし帰ってこられなかったとき、さとるさんが嘘をついたことになってしまうから」
さとるは目を閉じた。
その言葉が、胸の奥まで届いた。
帰りたい。
本当に帰りたい。
薫の隣に帰りたい。
それでも、自分にはそれを保証する力がない。
だからこそ苦しい。
「……俺も」
さとるは静かに言った。
「帰りたい」
薫は頷いた。
「はい」
「本当に帰りたい」
「はい」
「薫と、もう一度ここで海を見たい」
「……はい」
「戦争が終わったら、普通に暮らしたい」
薫の目から、また涙がこぼれた。
「一緒に、ご飯を食べたり」
「はい」
「くだらないことで笑ったり」
「はい」
「朝になったら、また会えるって思える毎日を……過ごしたい」
それは、二十歳の青年が望むには、あまりにも普通の未来だった。
けれど今のさとるにとって、その普通こそが一番遠かった。
「……帰りたいな」
さとるが呟いた。
薫は何も言わず、隣にいた。
二人の間に、約束はなかった。
「必ず帰る」という言葉もなかった。
だからこそ、二人はただ隣にいることしかできなかった。
それが今の二人にできる、精いっぱいのことだった。
*
やがて日が傾き始めた。
帰らなければならない時間が近づいていた。
さとるは立ち上がった。
「……そろそろ戻る」
「はい」
二人は向き合った。
いつものように、別れの言葉を交わそうとした。
けれど、さとるは迷った。
「また明日」
その言葉を言えばいい。
いつもなら、そうしていた。
けれど今日は、その一言がひどく重かった。
明日、自分がここへ来られる保証はない。
次に名前を呼ばれるかもしれない。
この海を見るのが、今日で最後になるかもしれない。
それでも――。
さとるは薫を見た。
「……また明日」
薫も涙をこらえながら笑った。
「……また明日」
それは約束ではなかった。
約束にすることが怖かった。
けれど、二人とも願っていた。
明日も会いたい。
明日もここにいたい。
だから、その言葉だけを交わした。
「また明日」
それ以上は、何も言えなかった。
*
夜。
宿舎に戻ったさとるは、布団の中で目を閉じた。
眠れなかった。
薫の言葉が頭の中に残っている。
――約束にしなくてもいい。
その言葉が、優しくて、苦しかった。
自分は薫に「必ず帰る」と言えなかった。
言いたかった。
言ってあげたかった。
けれど、自分自身がそれを信じ切れない。
だから言えなかった。
それが悔しかった。
怖かった。
そして何より――。
薫を愛しているからこそ、嘘をつきたくなかった。
さとるは布団の中で、胸元を握った。
「……帰りたい」
誰にも聞こえない声だった。
「薫のところに……帰りたい」
その願いだけは、本物だった。
約束にはできない。
未来を保証することもできない。
それでも、生きたい。
帰りたい。
もう一度、薫と海を見たい。
もう一度、何でもない話をしたい。
そして、できることなら――。
戦争のない未来を、一緒に生きたい。
さとるは暗い天井を見つめた。
昨日、三十人が出ていった。
次は自分かもしれない。
その恐怖は、消えなかった。
けれど、その恐怖の中に初めて、はっきりとした願いがあった。
――生きて帰りたい。
それは覚悟とは呼べないのかもしれない。
けれど、さとるにとっては、それが一番強い願いだった。
そしてその夜。
さとるは、明日という日が来ることを祈りながら、静かに目を閉じた。




