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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第二十二話 訓練と君との時間

第二十二話 訓練と君との時間


 三十人がいなくなってから、基地の空気は変わった。


 誰も口にはしなかった。


 けれど、全員が分かっていた。


 昨日まで一緒にいた仲間がいなくなる。


 その現実を、もう誰も「いつか来ること」だとは思えなかった。


 次に名前を呼ばれるのは、自分かもしれない。


 その思いが、訓練生たちの胸の中に重く残っていた。


 さとるも同じだった。


 朝、整列すると、以前よりも周囲の顔を見るようになった。


 誰がいる。


 誰がいない。


 昨日まであった席。


 昨日まで聞こえていた声。


 それらを無意識に確かめてしまう。


 そして、自分の名前がまだ呼ばれていないことに気づくと、一瞬だけ安心する。


 その安心に気づいた瞬間、胸が痛くなる。


 ――自分は、生きたいと思っている。


 それは間違いなかった。


 死ぬのが怖い。


 帰りたい。


 家族に会いたい。


 薫に会いたい。


 その気持ちは、日を追うごとに強くなっていた。


     *


「始め!」


 号令が響いた。


 訓練が始まる。


 何度も繰り返してきた動作。


 身体の動き。


 姿勢。


 確認。


 さとるは一つ一つを必死にこなしていった。


 けれど、今日は以前とは違った。


 訓練の先に何があるのか。


 それを、もう知ってしまったからだ。


 昨日までなら、ただの訓練だった。


 けれど今は違う。


 その訓練を終えた先に、実際の出撃がある。


 そして、その出撃から帰ってこられない者がいる。


 さとるは手を握った。


 汗が滲んでいる。


 呼吸が荒くなる。


 それでも動きを止めなかった。


 隣を見る。


 剛も黙って訓練を続けている。


 一瞬、目が合った。


 剛は何も言わなかった。


 さとるも何も言わなかった。


 けれど、互いに同じことを考えているのが分かった。


 ――次は、自分かもしれない。


     *


 休憩に入る。


 さとるは地面に座り、水を飲んだ。


 喉が渇いていた。


 身体も重い。


 剛が隣に座った。


「きついな」


「ああ」


「前よりきつく感じる」


「……俺も」


 剛は空を見上げた。


「昨日の三十人を見たからかな」


「たぶん」


 少し沈黙する。


「なあ、さとる」


「ん?」


「もし俺が先に行くことになったら」


 さとるは剛を見た。


「そんなこと言うなよ」


「いや」


 剛は苦笑した。


「そういうこともあるだろ」


「……」


「そのときは、ちゃんと生きてくれよ」


 さとるは答えられなかった。


「お前もな」


 それだけ言った。


 剛は笑った。


「そうだな」


 二人は、それ以上話さなかった。


     *


 午後の訓練。


 何度も何度も同じ動作を繰り返す。


 腕が痛い。


 足も重い。


 それでも、身体は動く。


 訓練生たちは、黙々と続けていた。


 誰も「怖い」と言わない。


 誰も「死にたくない」と言わない。


 けれど、さとるには分かっていた。


 きっと皆、同じことを考えている。


 帰りたい。


 まだ生きたい。


 家族に会いたい。


 好きな人に会いたい。


 それでも、訓練を続ける。


 さとるは、その姿を見ながら思った。


 ――覚悟というのは、怖くなくなることじゃない。


 怖いままでも、身体を動かすことなのかもしれない。


 そして、自分もまた、その中の一人なのだ。


     *


 訓練が終わった。


 さとるは汗を拭きながら、海を見た。


 夕方の光が水面に伸びている。


 その海を見た瞬間、薫の顔が浮かんだ。


 会いたい。


 ただ、それだけだった。


 さとるは高台へ向かった。


     *


 薫は、いつもの場所にいた。


 海を見ながら立っている。


「薫」


 呼びかけると、薫が振り返った。


「さとるさん」


 その笑顔を見た瞬間。


 さとるの中にあった緊張が、少しだけほどけた。


「今日は遅かったですね」


「ああ。訓練が長かった」


「大変でした?」


「うん」


 さとるは苦笑した。


「かなり」


「疲れてますね」


「分かる?」


「顔に書いてあります」


 薫が笑った。


 さとるも笑った。


 その瞬間だけだった。


 基地にいるときの自分ではなくなった。


 訓練生でもない。


 軍人でもない。


 ただの二十歳の青年だった。


 好きな女の子と海を見に来た。


 それだけの青年。


「座りましょう」


「ああ」


 二人は並んで座った。


 海を見つめる。


「今日は何をしてたんですか?」


「訓練」


「ずっと?」


「ずっと」


「それは疲れますね」


「薫は?」


「私は家の手伝いをしてました」


「そうか」


「今日は魚が少なかったんです」


「そうなのか」


「はい。だから夕飯は少し寂しいかもしれません」


「じゃあ、俺の分も少なくしていいよ」


「だめです」


 薫が笑う。


「ちゃんと食べないと」


「でも、食べ過ぎたら眠くなる」


「眠くなったら寝ればいいじゃないですか」


「訓練中に寝たら怒られる」


「じゃあ、ちゃんと起きててください」


 二人は笑った。


 そんなくだらない話だった。


 戦争とは何の関係もない。


 出撃とも関係がない。


 死とも関係がない。


 ただ、夕飯の話をした。


 訓練がきつかったという話をした。


 そんな、普通の話。


 けれど――。


 さとるには、その時間が何より大切だった。


     *


「さとるさん」


「ん?」


「今日も怖かったですか?」


 薫の声が少しだけ静かになった。


 さとるは海を見た。


「……うん」


「訓練?」


「ああ」


「昨日の三十人のこと?」


「それもある」


 さとるは少し間を置いた。


「訓練してると、考えるんだ」


「何を?」


「この先に、本当に出撃があるんだって」


 薫は黙って聞いていた。


「今までなら、ただ訓練してるだけだと思えた」


「……はい」


「でも、昨日三十人がいなくなって……」


 さとるは手を握った。


「訓練の一つ一つが、怖くなった」


「……」


「これをやった先に、死ぬかもしれない場所があるって分かってしまったから」


 薫の目が潤んだ。


「怖いです」


 さとるは言った。


「本当に怖い」


 薫は何も言わなかった。


 ただ、隣にいた。


 それだけでよかった。


「でも」


 さとるが続けた。


「ここに来ると、少し忘れられる」


「ここ?」


「ああ」


 さとるは薫を見た。


「薫といると、普通のことを考えられる」


「普通のこと?」


「夕飯のこととか」


「ふふ」


「海のこととか」


「はい」


「戦争が終わったら何をしたいとか」


 薫の笑顔が少し曇った。


「……何がしたいですか?」


「そうだな」


 さとるは考えた。


「海の近くで暮らしたい」


「海の近く?」


「ああ」


「どうして?」


「薫と海を見たいから」


 薫は恥ずかしそうに俯いた。


「……そんなこと言われたら、何も言えません」


「本当のことだから」


「ずるいです」


 二人は小さく笑った。


     *


 しばらくして、薫が言った。


「この前のこと……」


「約束?」


「はい」


 さとるの表情が少し変わった。


「私、今でも……約束してほしいと思うことがあります」


「……うん」


「でも、約束してほしくないとも思うんです」


「どうして?」


「さとるさんが苦しそうだから」


 さとるは何も言わなかった。


「『必ず帰る』って言ってほしい」


 薫は涙をこらえながら続けた。


「でも、言わせたくない」


「……薫」


「だって、さとるさんは帰れるか分からないんですよね」


「ああ」


「だったら……」


 薫は海を見た。


「今、一緒にいられる時間を大切にしたいです」


 さとるの胸が熱くなった。


「俺も」


「約束じゃなくて」


「うん」


「未来を決めるんじゃなくて」


「うん」


「今日を、一緒に過ごす」


「……うん」


 それだけでよかった。


 未来を約束することができなくても。


 明日を保証できなくても。


 今日、ここにいることはできる。


 今、隣にいることはできる。


 だから二人は、しばらく何も言わずに海を見ていた。


     *


 夕日が海の向こうへ沈み始めた。


 そろそろ戻らなければならない。


 さとるは立ち上がった。


「じゃあ……」


「はい」


 二人とも、言葉を探した。


 いつものように「また明日」と言いたい。


 けれど、その言葉を約束にはしたくない。


 明日が来るか分からないから。


 しばらく沈黙したあと、薫が小さく笑った。


「……明日も、会えたらいいですね」


 さとるは頷いた。


「うん」


「それだけでいいです」


「……うん」


 さとるは薫を見つめた。


「じゃあ、また」


「はい。また」


 二人はそれだけで別れた。


 約束はしなかった。


 必ず帰るとも言わなかった。


 明日会うとも言い切らなかった。


 ただ――。


 会いたいと思った。


 また一緒に海を見たいと思った。


 それだけだった。


     *


 宿舎へ戻る道を、さとるは一人で歩いた。


 昼間の訓練で感じた恐怖が、また胸に戻ってくる。


 薫といる間は忘れていた。


 けれど、現実は何も変わっていない。


 出撃は近づいている。


 次に名前を呼ばれるかもしれない。


 そうなれば、薫と会えなくなる。


 その可能性は消えない。


 それでも――。


 さとるは振り返った。


 高台の向こうに、海が見える。


 今日も海は静かだった。


 そして、その海のそばに、薫がいる。


 そのことだけを胸に刻んだ。


 訓練では、死を意識する。


 薫といると、生きていることを感じる。


 その二つの間を行ったり来たりしながら、さとるは歩いた。


 まだ二十歳だった。


 本当なら、未来の話をする年齢だった。


 どこへ行きたい。


 何をしたい。


 誰と暮らしたい。


 そんなことを考えているはずだった。


 なのに今は――。


 明日、生きているか。


 それを考えている。


 さとるは胸元に手を当てた。


 心臓が動いている。


 まだ生きている。


 そして、心の中には薫がいる。


 だから今夜だけは、その二つを大切にしようと思った。


 生きていること。


 そして、好きな人を好きでいられること。


 それだけでよかった。

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