第二十三話 近づくその日
第二十三話 近づくその日
朝の空気が、少し冷たかった。
さとるは目を覚ますと、しばらく布団の中で天井を見つめていた。
昨日、薫と過ごした時間を思い出す。
夕飯の話。
海の話。
戦争が終わったら何をしたいかという話。
どれも、特別なことではなかった。
けれど、今のさとるにとっては、その何でもない時間こそが大切だった。
訓練をしていると、どうしても死を考えてしまう。
出撃のこと。
名前を呼ばれること。
帰れないかもしれないこと。
けれど薫と一緒にいると、そのことを少しだけ忘れられる。
自分が二十歳の青年であることを思い出せる。
だからこそ――。
もっと一緒にいたいと思った。
それが、さとるの心の中で日に日に強くなっていた。
*
「整列!」
号令が響いた。
さとるはすぐに立ち上がった。
訓練が始まる。
以前よりも厳しくなっていた。
身体の動きだけではない。
集中力を求められる。
一つの動作を何度も繰り返す。
少しでも遅れれば、やり直しになる。
訓練生たちは黙々と続けていた。
さとるも必死だった。
腕が重い。
足が痛い。
呼吸が苦しい。
それでも止まらない。
止まるわけにはいかなかった。
昨日、三十人がいなくなった。
そして、基地にはまだ多くの訓練生が残っている。
次に名前を呼ばれるのは誰なのか。
それは誰にも分からない。
だからこそ、誰もが自分の訓練に集中していた。
やがて休憩に入った。
さとるは肩で息をしながら、水を飲んだ。
隣に剛が座る。
「……きついな」
「ああ」
「前より厳しくなってないか?」
「そう思う」
剛は水筒を置いた。
「出撃が近いのかな」
さとるは答えなかった。
けれど、その言葉を否定することもできなかった。
基地全体が、少しずつ変わっている。
人の動き。
準備の様子。
訓練の厳しさ。
どれも、何かが近づいていることを感じさせていた。
「さとる」
「ん?」
「もし次に名前を呼ばれたら……」
剛が言葉を止める。
「……怖いな」
さとるは小さく頷いた。
「ああ」
剛は苦笑した。
「やっぱり怖いよな」
「怖いに決まってる」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
笑ったあと、二人とも少しだけ目を伏せた。
怖い。
それを隠す必要はなかった。
ここにいる誰もが、きっと同じだから。
*
午後。
訓練が終わる。
さとるは汗を拭きながら、海の方を見た。
今日も薫に会える。
そのことだけで、身体の疲れが少し軽くなる気がした。
高台へ向かう。
いつもの道。
いつもの海。
いつもの場所。
けれど――。
今日は薫がいなかった。
さとるは海を見ながら待った。
五分。
十分。
それでも来ない。
胸の奥に、嫌な予感が広がった。
何かあったのだろうか。
そう思った瞬間だった。
「さとるさん!」
後ろから声がした。
振り返る。
薫が走ってきた。
「薫」
「ごめんなさい。遅くなりました」
「何かあった?」
「家の手伝いが長引いて……」
「そうか」
さとるは安心した。
その顔を見て、薫が笑った。
「心配しました?」
「……少し」
「ふふ」
「笑うなよ」
「だって、さとるさんがそんな顔をするから」
二人は並んで座った。
*
「今日の訓練、どうでした?」
「きつかった」
「昨日もそう言ってましたよ」
「今日は昨日よりきつかった」
「じゃあ、明日はもっときついかもしれませんね」
「やめてくれよ」
薫が笑った。
さとるも笑った。
ほんの短い時間。
けれど、その時間がとても大切だった。
「薫」
「はい?」
「俺、最近……ここに来るのが楽しみなんだ」
「ここに?」
「ああ」
さとるは海を見た。
「訓練が終わったら、薫に会えるって思うと頑張れる」
薫は少し恥ずかしそうに俯いた。
「私もです」
「本当?」
「はい」
「訓練が終わる頃になると、そろそろ来るかなって思ってます」
さとるは笑った。
「じゃあ、お互い同じだな」
「はい」
海の風が二人の間を通り抜ける。
薫の髪が風に揺れた。
さとるは、その横顔を見つめた。
綺麗だと思った。
初めて見たときからそうだった。
けれど今は、ただ綺麗だというだけではなかった。
失いたくない。
この人と、もっと一緒にいたい。
そう思った。
「薫」
「はい」
「戦争が終わったら……」
薫が顔を上げる。
「何ですか?」
「海の近くに行こう」
「海?」
「ああ」
「また海ですか?」
「うん」
さとるは笑った。
「俺、海が好きだから」
「知ってます」
「それに……」
さとるは少しだけ恥ずかしそうに言った。
「薫と見た海を、もっと見たい」
薫は黙った。
そして、ゆっくり笑った。
「……私も」
二人は海を見た。
未来の話をした。
どこへ行くか。
どんな暮らしをするか。
何を食べるか。
そんな小さな話。
けれど、その未来が本当に来るかどうかは、誰にも分からない。
だから、二人とも「約束」とは言わなかった。
ただ、願いとして話した。
*
夕方。
帰る時間が近づいていた。
さとるは立ち上がった。
「また明日」
薫も立ち上がる。
「また明日」
二人は笑った。
けれど、さとるは歩き出してすぐに振り返った。
薫もこちらを見ていた。
その姿を見ていると、胸の奥に不安が込み上げてきた。
――明日も会えるだろうか。
そう思った。
けれど、その言葉を口にすることはできなかった。
薫を不安にさせたくない。
自分自身も、その不安を認めたくない。
だから、ただ手を振った。
薫も手を振り返した。
*
その夜。
基地の中が、いつもより慌ただしかった。
人の行き来が増えている。
何かを確認している者もいる。
話し声も、普段より少し多かった。
さとるはそれを見ながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
剛も同じだった。
「……何かあるな」
「ああ」
「出撃の準備か?」
「分からない」
けれど、二人とも分かっていた。
何かが近づいている。
それは、昨日までよりもはっきりしていた。
さとるは高台で見た薫の顔を思い出した。
笑っていた。
海を見ていた。
普通の女の子だった。
そして自分も、その隣では普通の二十歳の青年だった。
その時間が、これからも続いてほしい。
そう願った。
けれど――。
戦争は、二人の願いなど知らない。
*
翌朝。
さとるが目を覚ますと、基地の空気はさらに張り詰めていた。
誰も口にはしない。
けれど、皆が感じていた。
近い。
何かが近づいている。
さとるは身支度を整えた。
鏡などない。
ただ、自分の手を見た。
少し震えている。
その手を強く握った。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
まだ名前は呼ばれていない。
まだ出撃命令はない。
まだ――。
薫に会える。
そう思った。
その瞬間。
遠くから号令が響いた。
「集合!」
さとるの胸が大きく跳ねた。
訓練生たちが一斉に動き始める。
剛も立ち上がった。
二人は一瞬だけ目を合わせた。
言葉はなかった。
ただ、互いの目に同じ恐怖があった。
――来たのか。
――今度こそ、自分たちなのか。
さとるは拳を握った。
そして、仲間たちとともに集合場所へ向かった。
その胸の中には、昨日までとは違う思いがあった。
死にたくない。
帰りたい。
薫に会いたい。
もっと一緒にいたい。
まだ終わりたくない。
それでも、もし名前を呼ばれたら――。
自分は、その場から逃げることができるのだろうか。
答えは、まだ分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
その日が、確実に近づいている。
そして――。
次に呼ばれる名前が、自分の名前ではないという保証は、どこにもなかった。




