第二十四話 静かに近づく日
第二十四話 静かに近づく日
朝の海は、いつもと変わらなかった。
薄い霧が海面を覆い、遠くの島影はぼんやりと霞んでいる。
波は静かだった。
まるで、この町で何も起きていないかのように。
鳥の声が聞こえ、港では船がゆっくりと揺れていた。
けれど――。
基地の中にいる者たちは、誰もが知っていた。
何かが近づいている。
それが何なのか、誰も口にはしなかった。
けれど、誰もが分かっていた。
出撃の日が。
少しずつ。
確実に。
近づいている。
「……寒いな」
剛がそう言って、両手を擦った。
季節のせいだけではなかった。
さとるは黙ったまま、海を見ていた。
昨日の朝までなら、海を見れば薫のことを考えた。
あの高台。
あの場所から見える海。
薫が笑った顔。
泣いていた顔。
二人で話した何気ないこと。
戦争が終わったら、という話。
海の近くで暮らしたい。
一緒に歩きたい。
そんな、どこにでもあるような未来。
けれど今は、海を見るだけで別のことを考えるようになっていた。
――この海の向こうへ行くのだろうか。
――自分も。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
「さとる」
剛が呼んだ。
「……何だ」
「昨日の集合、普通の訓練だったな」
「ああ」
二人とも、それ以上は言わなかった。
昨日の朝。
突然、集合を命じられた。
その瞬間、さとるは思った。
――来た。
自分の名前が呼ばれる。
そう思った。
けれど、昨日の集合は出撃者を決めるためのものではなかった。
訓練内容の確認と、人員の点検。
それだけだった。
それだけだったのに。
さとるの心臓は、しばらく元の速さに戻らなかった。
「……俺さ」
剛が小さく言った。
「うん」
「昨日、集合って聞いた瞬間、足が動かなくなりそうだった」
さとるは剛を見た。
剛は笑っていなかった。
「俺もだ」
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
二人とも同じだった。
怖い。
その気持ちは、隠すことができなくなっていた。
以前なら、口にすることさえためらった。
怖いと言えば、覚悟が足りないと思われる気がした。
弱いと思われる気がした。
けれど今は違った。
一度、三十人の仲間が出ていくところを見た。
彼らも怖がっていた。
それでも行った。
だからこそ、さとるには分かった。
覚悟とは、怖くないことではない。
怖いままでも、その時が来れば行くことなのだ。
それが分かったからこそ――。
怖かった。
「……次は、俺たちかもしれないな」
剛が言った。
「……ああ」
さとるは海を見たまま答えた。
風が吹いた。
海面が細かく揺れた。
その揺れを見ながら、さとるは思った。
もし次に名前を呼ばれたら。
自分はどうするのだろう。
何を考えるのだろう。
家族の顔を思い浮かべるだろうか。
母親の声を思い出すだろうか。
父親の背中を思い出すだろうか。
それとも――。
薫の顔を思い出すのだろうか。
きっと。
いや。
間違いなく。
最後に思い浮かぶのは、薫だった。
そう思った。
そして、そのことが怖かった。
薫を大切に思えば思うほど。
失いたくないと思えば思うほど。
死ぬことが怖くなる。
以前の自分なら、それを弱さだと思ったかもしれない。
けれど今は、違った。
生きたいと思うことは、弱いことではない。
帰りたいと思うことも。
誰かに会いたいと思うことも。
未来を欲しいと思うことも。
きっと、当たり前のことなのだ。
二十歳なのだから。
まだ何も知らない。
まだ何も始まっていない。
そんな年齢なのだから。
---
午後。
訓練はいつもより長かった。
何度も繰り返される動作。
同じ姿勢。
同じ確認。
同じ合図。
何度も何度も繰り返す。
身体は覚えている。
頭で考えなくても動く。
それが訓練だった。
けれど、さとるは以前とは違うことに気づいていた。
訓練の一つ一つが、以前よりも現実的に感じられる。
これまでなら、
「いつか必要になるかもしれない」
と思っていた。
今は違う。
――これは、本当に使うための訓練なのだ。
そう思う。
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「次!」
教官の声が響く。
さとるは動いた。
身体は正確だった。
けれど心の中には、別の声があった。
――生きたい。
その言葉が、何度も浮かんだ。
――生きていたい。
――薫に会いたい。
――もう一度、あの高台に行きたい。
――普通の話がしたい。
それは、訓練とは何の関係もない願いだった。
けれど、さとるにとっては一番大切なものだった。
---
夕方。
訓練が終わると、さとるは一人で基地を離れた。
向かう場所は決まっていた。
高台。
薫と出会った場所。
そして、何度も二人で話した場所。
坂道を上る。
足音が静かな道に響く。
海が少しずつ見えてくる。
夕日が海面に細長く伸びていた。
高台に着くと、薫がいた。
「……さとる」
振り返った薫が笑った。
その笑顔を見た瞬間。
さとるの胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけた。
「来てくれたんだ」
「うん」
薫は海を見た。
「今日は、海がきれいだね」
「そうだな」
二人は並んで座った。
しばらく何も話さなかった。
それでも、不思議と気まずくはなかった。
ただ隣にいる。
それだけでよかった。
「今日、何してたの?」
「訓練」
「大変だった?」
「……うん」
さとるは少し笑った。
「かなり」
「そう」
薫も笑った。
「じゃあ、今日は疲れてるね」
「ああ」
「帰ったら、ちゃんと食べるんだよ」
「分かってる」
「最近、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「本当に?」
「本当」
薫が少しだけ疑うような顔をした。
さとるは思わず笑った。
「何だよ」
「だって、さとるって、何でも我慢しそうだから」
その言葉に、さとるは黙った。
我慢。
確かに、そうだった。
怖いことも。
寂しいことも。
会いたいことも。
言いたいことも。
全部、胸の中にしまってきた。
けれど。
薫の前では、少しずつそれができなくなっていた。
「……薫」
「何?」
「俺、最近……怖いんだ」
薫の表情が変わった。
さとるは海を見たまま続けた。
「次に名前を呼ばれるかもしれないと思うと、怖い」
「……うん」
「出撃することも」
一度、息を吸った。
「死ぬことも」
薫は何も言わなかった。
ただ、さとるの言葉を聞いていた。
「この前までは、自分が選ばれなければ大丈夫だって、どこかで思ってた。でも……三十人が出ていって、それを見たら……」
さとるの声が小さくなる。
「次は自分かもしれないって、本当に思うようになった」
薫は海を見た。
夕日の光が、二人の横顔を照らしていた。
「私も怖いよ」
薫が言った。
「さとるがいなくなるのが、一番怖い」
さとるは薫を見た。
「……ごめん」
「謝らないで」
薫は首を横に振った。
「さとるが悪いわけじゃないもの」
それから少しだけ間を置いて。
「だから、今はここにいて」
その言葉に、さとるの胸が詰まった。
「うん」
「今、ここにいるんだから」
「うん」
「それでいい」
さとるは静かに頷いた。
未来のことは分からない。
明日のことさえ分からない。
だからこそ。
今、ここにいることだけは確かだった。
二人で海を見ている。
風が吹いている。
夕日が沈んでいく。
薫が隣にいる。
それだけは、誰にも奪えない時間だった。
「ねえ、さとる」
「ん?」
「戦争が終わったら……」
薫が言いかけて、少し笑った。
「また海を見に来たいね」
さとるも笑った。
「うん」
「今度は、何も怖くない海を」
「……そうだな」
二人は海を見た。
今は同じ海なのに。
戦争がなければ、きっとただ美しいだけの海だった。
けれど今の二人には。
この海には、いくつもの意味があった。
故郷。
家族。
別れ。
そして、未来。
「その時は、何を話そうか」
薫が尋ねた。
さとるは少し考えた。
「今日みたいな話でいいんじゃないか」
「今日みたいな?」
「うん。何を食べたとか。明日は何をするとか」
薫が笑った。
「そんなのでいいの?」
「そんなのがいい」
さとるも笑った。
「戦争が終わったら、そういう話ばっかりしたい」
「……うん」
薫は小さく頷いた。
二人はそれ以上、未来のことを話さなかった。
約束もしなかった。
「必ず帰る」とも言わなかった。
そんな言葉を口にすることが、今のさとるにはできなかった。
帰りたい。
生きたい。
薫に会いたい。
それは本当だった。
けれど、自分が帰れるかどうかは分からない。
だから、未来を約束することが怖かった。
約束した言葉が、残された薫の心を縛ってしまうかもしれない。
そう思った。
「……そろそろ戻らないと」
さとるが言った。
「うん」
立ち上がる。
薫も立った。
二人はしばらく向かい合った。
何か言いたい。
けれど、言葉が見つからない。
最後にさとるが言った。
「また明日」
薫は微笑んだ。
「……また明日」
二人にとって、その言葉はもう単なる挨拶ではなかった。
明日が来てほしい。
また会いたい。
それだけの願いだった。
さとるは坂道を下りていった。
何度か振り返った。
薫はまだそこにいた。
手を振っている。
さとるも手を上げた。
そして、基地へ戻った。
---
夜。
基地の中は静かだった。
昼間とは違い、灯りの数も少ない。
さとるは布団の上に座り、暗い部屋の中で目を開けていた。
眠れなかった。
今日の訓練。
剛の言葉。
薫の言葉。
夕暮れの海。
全部が頭の中に残っていた。
そして――。
遠くから、誰かの足音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
足音は近づいてくる。
さとるは身体を起こした。
胸が高鳴る。
誰かが廊下を歩いている。
こんな時間に。
さとるは息を止めた。
足音が、部屋の前で止まった。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
けれど、さとるには永遠のように感じられた。
――出撃命令か。
そう思った。
扉が開く。
「……さとる」
剛だった。
さとるは大きく息を吐いた。
「なんだ……剛か」
「悪い。起きてたか」
「ああ」
剛は部屋に入ると、さとるの隣に座った。
しばらく黙っていた。
「……明日、また訓練があるらしい」
「そうか」
「かなり厳しくなるらしい」
「……うん」
それだけだった。
二人とも、それ以上の意味を口にしなかった。
けれど、分かっていた。
訓練が厳しくなる。
それはつまり。
出撃の日が近づいているということだ。
剛が小さく息を吐いた。
「さとる」
「ん?」
「……怖いな」
さとるは暗い天井を見た。
「ああ」
「でも……」
剛はそこで言葉を止めた。
「何だ?」
「いや。何でもない」
二人は黙った。
やがて剛が立ち上がった。
「寝よう」
「ああ」
剛が部屋を出ていく。
扉が閉まった。
再び静寂が戻る。
さとるは目を閉じた。
けれど、眠れなかった。
頭の中には薫の顔があった。
そして、あの海。
もし次に名前を呼ばれたら。
自分はどうする。
何を思う。
誰に会いたいと思う。
その答えだけは、もう分かっていた。
薫に会いたい。
もう一度。
もう一度だけでもいい。
あの高台で。
何でもない話をしたい。
海を見ながら笑いたい。
そして、できることなら――。
生きたい。
その願いを胸の奥に抱えたまま。
さとるは暗い天井を見つめていた。
夜は静かに過ぎていった。
しかし。
その静けさの向こう側では。
また一つ。
出撃へ向けた準備が進められていた。
誰もが、それを知っていた。
そして、さとるも。
もう気づいていた。
あの日は。
思っていたよりもずっと近くまで来ている。
――静かに。
確実に。
二人の未来を奪う日が、近づいていた。




