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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第二十五話 逃げたい

第二十五話 逃げたい


朝。


まだ空が完全には明るくなっていない時間に、基地の中へ集合の声が響いた。


「全員、集合!」


その声を聞いた瞬間。


さとるの胸が強く締めつけられた。


まただ。


また、集合。


十九話の朝を思い出した。


三十人の名前が読み上げられた、あの日。


山本一郎。


田中清二。


中村浩。


佐々木誠。


高橋修。


そして、そのほかの仲間たち。


三十人。


あの日から、基地の景色は少し変わった。


人が減った。


声が減った。


笑い声も減った。


それでも訓練は続いた。


残された者たちは、何もなかったかのように身体を動かし続けた。


けれど、誰も忘れてはいなかった。


三十人が出ていったことを。


そして――。


自分たちの番も、いつか来ることを。


「急げ!」


もう一度、声が響いた。


さとるは立ち上がった。


剛も隣にいた。


二人は何も言わず、集合場所へ向かった。


---


集まった訓練生たちの前に、教官が立った。


いつもと同じ軍服。


いつもと同じ厳しい表情。


けれど、その日の顔には、いつもとは少し違うものがあった。


しばらく全員を見渡したあと。


教官が口を開いた。


「先日の出撃について話す」


ざわめきが起きた。


さとるは息を止めた。


教官は続けた。


「先に出撃した三十名のうち、十名が任務を遂行した」


その言葉が。


朝の空気を切り裂いた。


誰も動かなかった。


誰も声を出さなかった。


十名。


その数字だけが、さとるの頭の中に残った。


――十人。


三十人のうち。


十人が。


任務を遂行した。


「彼らは、それぞれの任務を果たした」


教官の声は淡々としていた。


けれど、その言葉を聞いた瞬間。


さとるの胸の奥に、冷たいものが落ちてきた。


任務を果たした。


その意味を、さとるは知っていた。


それ以上、考えたくなかった。


考えれば分かってしまう。


もう、戻ってこない。


あの三十人の中にいた。


山本一郎。


田中清二。


中村浩。


佐々木誠。


高橋修。


顔が浮かんだ。


時計を気にしていた山本。


母親への手紙を書いていた田中。


海をじっと見つめていた中村。


家族の写真を握っていた佐々木。


震える手で靴紐を結び直していた高橋。


その姿が、次々に頭の中へ蘇ってくる。


みんな怖がっていた。


みんな生きたかった。


それでも出ていった。


そして今。


十人が任務を果たした。


「残る者たちも、いずれ任務を与えられる」


教官の声が続いた。


「君たちも、任務を果たすために、しっかり訓練しろ」


その言葉に。


さとるの指先が震えた。


訓練。


任務。


出撃。


その言葉が、これまでとは違う意味を持って聞こえた。


今までは。


訓練の先に、出撃があると思っていた。


けれど。


違った。


訓練の先には。


実際に出撃した者たちがいた。


そして。


その先には。


十人が果たした「任務」があった。


「気を抜くな!」


教官の声が響いた。


「君たちも同じだ!」


「はい!」


何人かの声が重なった。


さとるも反射的に声を出した。


「はい!」


けれど。


胸の中では。


別の言葉が浮かんでいた。


――嫌だ。


---


訓練が始まった。


いつもの訓練だった。


同じ動作。


同じ確認。


同じ号令。


けれど、さとるにはすべてが違って見えた。


教官の声が響く。


身体を動かす。


次の動作へ移る。


それでも、頭の中には十人のことが浮かんでいた。


任務を果たした。


その言葉が離れない。


さとるは歯を食いしばった。


身体は動く。


訓練で身につけた動作は、身体が覚えている。


けれど。


心はついていかなかった。


――怖い。


今までとは比べものにならないほど。


怖かった。


これまでは、まだどこかに距離があった。


出撃する三十人は、自分ではなかった。


だから。


自分は残った。


自分はまだここにいる。


そう思うことができた。


けれど。


三十人のうち十人が任務を遂行した。


その事実は。


「次は自分かもしれない」


という考えを、現実に変えてしまった。


次に呼ばれるのは。


自分かもしれない。


自分も。


同じ場所へ行くかもしれない。


そして――。


戻れないかもしれない。


「さとる!」


突然、教官の声が飛んだ。


「はい!」


「集中しろ!」


「はい!」


さとるは姿勢を正した。


けれど、心臓は激しく動いていた。


---


休憩になった。


さとるは水を飲んだ。


手が震えている。


剛が隣に来た。


「……聞いたか」


「ああ」


「十人だってな」


「……うん」


剛はしばらく黙っていた。


「俺……」


剛が言いかけた。


けれど、その先が出てこない。


さとるも何も言わなかった。


言葉にしてしまえば。


本当に怖くなってしまいそうだった。


やがて剛が小さな声で言った。


「……怖いな」


さとるは頷いた。


「うん」


「昨日までより、ずっと怖い」


「俺も」


剛は地面を見つめた。


「任務を果たしたって聞いた瞬間……何ていうか……」


「分かる」


さとるが言った。


「もう、訓練じゃないって思った」


剛は顔を上げた。


「……ああ」


二人はしばらく黙っていた。


やがて剛が言った。


「逃げたいな」


さとるは驚いて剛を見た。


剛は苦笑した。


「……俺、今、本気でそう思った」


さとるは何も言えなかった。


けれど。


その言葉を聞いた瞬間。


自分の胸の中にも、同じ言葉があった。


逃げたい。


そう思った。


初めてではなかった。


けれど。


今日は、その気持ちがはっきりしていた。


――逃げたい。


この場所から。


この基地から。


この戦争から。


命令から。


死から。


全部から。


---


その日の訓練が終わった。


夕方になっても、さとるの心は重かった。


基地の門を出る。


いつもの道。


海の匂い。


町の景色。


けれど今日は、それさえも違って見えた。


さとるは高台へ向かった。


薫に会いたかった。


ただ、それだけだった。


坂道を上る。


息が少し切れる。


海が見えた。


そして。


薫がいた。


「さとる」


薫が振り返った。


いつもの笑顔。


その笑顔を見た瞬間。


さとるは、胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れそうになった。


「……薫」


「どうしたの?」


薫が近づいてくる。


さとるは何か言おうとした。


けれど、声が出なかった。


「さとる?」


「……今日」


ようやく声が出た。


「今日、出撃した人たちの話を聞いた」


薫の顔から笑顔が消えた。


「……そう」


「三十人のうち、十人が任務を果たしたって」


薫は何も言わなかった。


「十人……」


さとるは海を見た。


「十人が……もう戻ってこない」


その言葉を口にした瞬間。


胸が苦しくなった。


「俺……」


声が震えた。


「怖い」


薫が一歩近づいた。


「うん」


「すごく怖い」


「うん」


「今までだって怖かった。でも……今日は、本当に……」


さとるは顔を伏せた。


「俺も、あそこへ行くのかもしれないって思った」


薫の目に涙が浮かんだ。


「……さとる」


「俺……」


そこで言葉が止まった。


言ってはいけないと思った。


けれど。


もう隠せなかった。


「逃げたい」


薫が息を呑んだ。


「……逃げたいんだ」


さとるの目にも涙が浮かんだ。


「ここから逃げたい」


声が震える。


「戦争から逃げたい」


「……うん」


「命令も、訓練も……全部忘れたい」


さとるは薫を見た。


そして。


ずっと胸の奥にしまっていた願いを口にした。


「薫と一緒に……どこか知らない町へ逃げたい」


薫の目から涙が落ちた。


「知らない町?」


「ああ」


さとるは頷いた。


「誰も俺たちのことを知らない町」


「……うん」


「海の近くでもいい」


「うん」


「海じゃなくてもいい」


さとるは涙を拭った。


「小さな町でいい」


薫も涙を拭いた。


「そこで、普通に暮らしたい」


その言葉を言った瞬間。


さとるの胸が痛くなった。


普通。


それは、何でもない言葉だった。


朝起きる。


ご飯を食べる。


仕事をする。


疲れたら家に帰る。


好きな人と話す。


一緒に夕飯を食べる。


そんな毎日。


二十歳の青年が夢見るには、あまりにも普通の未来だった。


けれど今のさとるにとって。


それは、手の届かない遠い場所にあるものだった。


「俺……」


さとるは海を見た。


「こんなことになるなんて思ってなかった」


薫は黙っていた。


「もっと普通に生きられると思ってた」


「……うん」


「仕事をして」


「うん」


「家族を作って」


薫の頬を涙が伝った。


「好きな人と暮らして」


「うん……」


「年を取って」


さとるは笑おうとした。


けれど、笑えなかった。


「そんな未来があると思ってた」


薫は俯いた。


「私も……」


小さな声だった。


「私も、そんな未来があると思ってた」


二人は何も言わず、海を見つめた。


夕日が沈んでいく。


赤い光が海を染める。


美しい景色だった。


なのに。


その美しさが、今は悲しかった。


「……本当に逃げられたらいいのにね」


薫が言った。


さとるは目を閉じた。


「ああ」


「誰も知らないところへ」


「ああ」


「二人で」


「……うん」


それは計画ではなかった。


具体的な約束でもなかった。


ただ。


逃げたいという気持ちを。


二人で共有しただけだった。


それでも。


さとるには救いだった。


自分だけが逃げたいと思っているのではない。


薫もまた。


自分と同じ未来を望んでいる。


それが分かった。


「薫」


「何?」


「俺……生きたい」


薫はさとるを見た。


「うん」


「生きて……普通の生活がしたい」


「うん」


「それで、薫と……」


言葉が続かなかった。


薫が静かに微笑んだ。


「分かってる」


二人はそれ以上言わなかった。


---


帰り道。


さとるは一人で歩いていた。


空は暗くなり始めていた。


基地へ戻らなければならない。


分かっている。


逃げることなどできない。


今すぐ薫の手を取って、どこか知らない町へ行くことなどできない。


分かっている。


だからこそ。


余計に苦しかった。


「逃げたい」


心の中で、もう一度呟く。


けれど。


足は基地へ向かっていた。


一歩。


また一歩。


戻っていく。


それが今の自分だった。


逃げたいと思いながら。


逃げられない。


生きたいと思いながら。


死ぬかもしれない場所へ戻っていく。


その矛盾が、胸を締めつける。


基地の灯りが見えてきた。


さとるは立ち止まった。


遠くに海が見える。


その向こうには、薫がいる。


今すぐ戻りたい。


もう一度、顔を見たい。


けれど。


さとるはその場を動かなかった。


そして、小さく呟いた。


「……生きたい」


誰に聞かせるでもなく。


ただ、自分自身に向けて。


その言葉だけを。


暗い海へ落とした。


その夜。


さとるは初めてはっきりと知った。


自分は、死ぬ覚悟をするために生きているのではない。


本当は――。


生きることを諦めたくないのだ。


薫と知らない町へ逃げて。


誰にも知られない場所で。


何でもない朝を迎えて。


何でもない夜を過ごす。


そんな未来が欲しい。


それが叶わないかもしれないからこそ。


その願いは、以前よりずっと強くなっていた。


そして。


その願いを抱いたまま。


さとるは、また一日を終えた。


明日も訓練がある。


そして。


いつか。


自分の名前が呼ばれる日が来る。


その日が来ることを。


さとるは、もう考えないふりをすることができなかった。

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