第二十六話 訓練と未来
第二十六話 訓練と未来
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃。
さとるは目を覚ました。
目を開ける。
見慣れた天井。
隣には、同じように起き上がろうとしている仲間たちがいる。
誰も大きな声を出さない。
朝の静けさの中に、衣服の擦れる音だけが響いていた。
さとるはゆっくりと起き上がった。
昨日、薫に話したことが頭に浮かんだ。
――逃げたい。
――薫と一緒に、知らない町へ行きたい。
そして。
――生きたい。
あの言葉は、今も胸の中に残っていた。
けれど。
目を覚ませば、そこには現実がある。
ここは基地だ。
自分は訓練生だ。
今日も訓練がある。
そして、その訓練の先には。
出撃がある。
さとるは深く息を吸った。
「……行くか」
自分に言い聞かせるように呟いた。
---
外へ出ると、朝の海が見えた。
静かな海だった。
太陽がまだ低く、海面が淡く光っている。
さとるは一瞬だけ足を止めた。
昨日、薫と見た海とは違う。
同じ海なのに。
朝の海は冷たく見えた。
「さとる」
剛が呼んだ。
「行こう」
「ああ」
二人は歩き出した。
剛が小さな声で言った。
「昨日のこと、考えてた」
「俺も」
「十人のこと」
さとるは黙って頷いた。
「任務を果たしたって聞いてから、訓練を見る目が変わった」
「……俺もだ」
二人は訓練場へ向かった。
その先には、いつもの訓練が待っていた。
---
「始め!」
号令が響いた。
一斉に身体が動く。
さとるも動いた。
何度も繰り返してきた動作。
身体は覚えている。
迷うことはない。
けれど。
今日は、一つ一つの動作が違って見えた。
手を動かす。
確認する。
姿勢を変える。
次の動作へ進む。
これまでなら、ただ「訓練」だった。
今は違う。
その一つ一つが。
出撃の日につながっている。
さとるは思った。
――この動作をするために、俺はここにいる。
――そして、この動作を繰り返した先に、出撃がある。
「もっと速く!」
教官の声が飛ぶ。
「はい!」
さとるは動いた。
「遅い!」
また動く。
「もう一度!」
また繰り返す。
身体は汗で濡れていく。
息が荒くなる。
腕が痛い。
足が重い。
それでも止まれない。
「続けろ!」
さとるは歯を食いしばった。
その瞬間。
頭の中に、昨日の薫の言葉が浮かんだ。
――朝起きて。
――仕事をして。
――帰ってきて。
――夕飯を一緒に食べる。
さとるは一瞬、目を閉じそうになった。
けれど。
目の前には訓練がある。
号令がある。
汗がある。
疲労がある。
そして。
出撃がある。
その一方で。
心の中には、まだ見たことのない未来がある。
薫と二人で暮らす未来。
その差が、あまりにも大きかった。
訓練は。
未来を奪うためにあるように思えた。
未来は。
この訓練から逃げた先にあるように思えた。
「集中!」
また教官の声が響いた。
さとるは現実に戻った。
---
休憩時間。
さとるは水を飲んだ。
喉が痛い。
汗が額から落ちる。
剛が隣に座った。
「……どうした?」
「何が?」
「さっきから、ぼんやりしてる」
さとるは少し考えてから言った。
「未来のこと考えてた」
「未来?」
「ああ」
剛は少し黙った。
「……薫か?」
さとるは笑った。
「分かるんだな」
「分かるよ」
剛も少し笑った。
「お前が未来って言ったら、薫しかいないだろ」
さとるは海を見た。
「昨日、二人で話したんだ」
「何を?」
「知らない町へ行ったら、どうするか」
剛は黙って聞いていた。
「海のある町がいいって話した」
「海か」
「ああ」
「お前らしいな」
さとるは少し笑った。
「そこで仕事をして、普通に暮らすんだ」
「……いいな」
剛が小さく言った。
さとるは剛を見た。
「剛もそう思う?」
「ああ」
剛は海を見ながら言った。
「俺だって、本当はそういう未来が欲しいよ」
その言葉の後。
二人とも黙った。
訓練場から、再び号令が聞こえた。
「集合!」
その声を聞いた瞬間。
二人は立ち上がった。
未来の話は終わった。
また訓練が始まる。
その切り替えの早さが、さとるには苦しかった。
ほんの少し前まで。
未来の話をしていた。
それなのに。
今はまた。
死へ向かうための訓練をしている。
---
午後の訓練は、さらに厳しかった。
同じ動作を繰り返す。
何度も。
何度も。
身体が疲れても続ける。
手が震えても続ける。
息が苦しくても続ける。
「もう一度!」
さとるは動いた。
そして。
また思った。
――この訓練が終わったら。
――薫に会いたい。
その気持ちが、今まで以上に強くなっていた。
訓練が厳しくなればなるほど。
未来のことを考える。
未来を考えれば考えるほど。
今の訓練が怖くなる。
逆だった。
訓練に集中すればするほど。
生きたいという気持ちが強くなる。
――俺は、本当は死にたいんじゃない。
――生きたい。
その気持ちが、身体の奥から湧いてくる。
「次!」
また動く。
「続けろ!」
また動く。
そして。
さとるは思った。
訓練で身につけているものは。
自分を未来へ連れていくためのものではない。
自分を任務へ送り出すためのものなのだ。
だから。
未来を思い浮かべることが怖かった。
未来を想像すればするほど。
今、自分が何をさせられているのかが分かってしまう。
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夕方。
訓練が終わった。
身体は限界に近かった。
けれど。
さとるは高台へ向かった。
薫に会いたかった。
高台へ着く。
薫は海を見ていた。
「さとる」
「薫」
振り返った薫が笑う。
その笑顔を見た瞬間。
さとるは思った。
――ここだけ、時間が違う。
基地では。
時間が命令によって動いている。
訓練が始まり。
訓練が終わる。
集合し。
動き。
休み。
また動く。
けれど。
ここでは違う。
風が吹く。
海が揺れる。
夕日が沈む。
薫が隣にいる。
それだけだった。
「今日はどうだった?」
「……疲れた」
「そんなに?」
「ああ」
さとるは苦笑した。
「ずっと訓練だった」
「大変だったね」
薫はさとるの顔を見る。
「でも、顔は少し違う」
「え?」
「昨日より、何か考えてる顔」
さとるは少し笑った。
「未来のこと考えてた」
「未来?」
「うん」
薫が海を見る。
「どんな未来?」
さとるは少し考えた。
「朝起きる」
「うん」
「薫がいる」
「うん」
「一緒に朝ご飯を食べる」
薫が微笑んだ。
「それから?」
「仕事に行く」
「さとるは何の仕事?」
「まだ分からない」
「じゃあ、私が決めていい?」
「いいよ」
薫は少し考えた。
「海の近くで働く」
「やっぱり海なんだな」
「だって、好きでしょう?」
「薫もだろ」
「うん」
二人は笑った。
「夕方になったら帰ってくる」
薫が続ける。
「私は夕飯を作って待ってる」
「何を作る?」
「魚」
「また魚?」
「海の近くなんだから」
二人で笑った。
ほんの小さな未来だった。
大きな夢ではない。
家も。
仕事も。
生活も。
何も決まっていない。
それでも。
さとるには、それが何よりも大切に思えた。
「……薫」
「うん?」
「俺、こういうのが欲しい」
薫が黙って聞く。
「特別なことじゃなくていい」
「うん」
「毎朝、起きて」
「うん」
「夜になったら帰ってきて」
「うん」
「薫と話して」
さとるは海を見る。
「それだけでいい」
薫の目に涙が浮かんだ。
「私も」
二人は静かに海を見た。
その海は。
今朝、さとるが見た海と同じだった。
けれど。
朝には。
訓練の向こうにある死を映していた。
今は。
未来の向こうにある生活を映している。
同じ海なのに。
見る人の心によって。
こんなにも違って見える。
「……いつか」
薫が小さく言った。
さとるは薫を見る。
「何?」
「何でもない」
薫は笑った。
未来を約束する言葉は。
二人とも言わなかった。
「必ず帰る」とも。
「必ず一緒に暮らす」とも。
言わなかった。
ただ。
そうなったらいい。
そんな未来があればいい。
そう思っているだけだった。
それで十分だった。
---
帰り道。
さとるは一人で歩いた。
空は暗くなり始めている。
基地へ戻る道。
いつもの道。
けれど。
今日は一つのことが、はっきり分かった。
訓練と未来。
その二つは。
あまりにも遠かった。
訓練では。
「もっと速く」
「もう一度」
「集中しろ」
と命じられる。
そこには、自分の未来を考える時間などない。
けれど。
薫といると。
未来の話ばかりしてしまう。
朝のこと。
仕事のこと。
夕飯のこと。
海のこと。
そんな普通のこと。
その二つの世界の間に。
さとるは立っていた。
片方には。
任務がある。
出撃がある。
死がある。
もう片方には。
薫がいる。
海がある。
普通の暮らしがある。
生きる未来がある。
そして。
その間にいる自分は。
どちらへ行けばいいのか分からなかった。
ただ一つだけ。
分かっていた。
――自分は、未来のほうへ行きたい。
その未来が。
どれだけ遠くても。
どれだけ叶わなくても。
薫と話した未来を。
諦めたくなかった。
さとるは夜の海を見た。
暗い海だった。
けれど。
その向こうには。
まだ知らない町があるような気がした。
誰も自分を知らない町。
誰も薫を知らない町。
そこで。
二人で生きる。
そんな場所が。
どこかに本当にあるような気がした。
さとるは小さく呟いた。
「……生きたい」
そして。
もう一度。
今度は、はっきりと言った。
「薫と、生きたい」
その願いを胸に抱えたまま。
さとるは基地へ戻っていった。
背後には海。
前には基地。
その間を歩く青年の心には。
死へ向かう訓練と。
生きるための未来が。
同時に存在していた。




