第二十七話 消えない未来
第二十七話 消えない未来
朝の海は、薄い霧に包まれていた。
向こう岸の島影も見えない。
ただ、白い霧の向こうから、波の音だけが聞こえている。
さとるは立ち止まり、その海を見ていた。
昨日、薫と話したことが頭から離れなかった。
朝起きる。
一緒に食事をする。
仕事へ行く。
夕方になれば帰ってくる。
夜になれば、また一緒に食事をする。
それだけの未来。
特別なことなど何もない。
けれど。
それが欲しかった。
二十歳の自分には。
それだけで十分だった。
「……未来」
さとるは小さく呟いた。
以前は、未来という言葉を深く考えたことがなかった。
戦争が終わったら。
いつか故郷へ帰ったら。
そんな漠然としたものだった。
けれど今は違う。
未来には顔がある。
薫の顔がある。
海がある。
小さな家がある。
朝の光がある。
夕飯の匂いがある。
「おかえり」と言ってくれる人がいる。
そんな未来を、一度具体的に想像してしまった。
だからこそ。
今まで以上に怖くなった。
その未来が。
自分の手から消えてしまうことが。
---
「集合!」
朝の静けさを破る声が響いた。
さとるは身体を強張らせた。
また。
その言葉だ。
十九話の朝。
三十人の名前が呼ばれた。
その記憶は、まだ鮮明だった。
山本一郎。
田中清二。
中村浩。
佐々木誠。
高橋修。
そして、ほかの仲間たち。
三十人。
そのうち十人が任務を遂行した。
その事実を知らされたのは、ほんの少し前だった。
そして今。
残った者たちの訓練は、さらに厳しくなっている。
さとるは剛と顔を見合わせた。
「……行くぞ」
「ああ」
二人は集合場所へ向かった。
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訓練場には、すでに教官が立っていた。
その前には、訓練生たちが整列している。
朝の冷たい空気。
誰も口を開かない。
教官が全員を見渡した。
「今日は基本動作を徹底する」
低い声だった。
「一つでも動作を誤れば、実際の任務では取り返しがつかないと思え」
さとるの背筋が伸びた。
教官は続ける。
「まず、乗り込むまでの動作を繰り返す」
訓練生たちが一斉に動き始める。
走る。
止まる。
姿勢を整える。
次の者へ場所を譲る。
そして、また最初へ戻る。
「遅い!」
教官の声が飛ぶ。
「走ることだけを考えるな! 周囲を確認しろ!」
訓練生たちは動きを止めない。
「次!」
また走る。
また整列する。
また繰り返す。
さとるの息が荒くなる。
「さとる!」
「はい!」
「姿勢が乱れている!」
「はい!」
「もう一度!」
「はい!」
さとるは最初の位置へ戻った。
そして、もう一度。
今度は一つ一つの動きを意識した。
走る。
止まる。
姿勢を整える。
確認する。
次へ進む。
「よし!」
教官の声。
けれど。
休む暇はなかった。
「次は、狭い場所での動作!」
訓練場に設けられた狭い訓練区画へ移動する。
身体を低くする。
頭をぶつけないよう注意する。
限られた空間の中で、身体の向きを変える。
動きを止める。
確認する。
また動く。
「慌てるな!」
教官が叫ぶ。
「狭い場所ほど、一つ一つの動作を確実にしろ!」
さとるは汗を拭った。
身体を動かすたびに、服が肌に張りつく。
「もう一度!」
また繰り返す。
「もう一度!」
さらに繰り返す。
「疲れてからが訓練だ!」
その言葉に、さとるは歯を食いしばった。
腕が重い。
足も重い。
それでも動く。
身体は覚えていく。
考えるより先に動けるように。
何度も。
何度も。
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次は確認訓練だった。
教官が順番に問いかける。
「名前!」
「さとる!」
「所属!」
「回天訓練生!」
「次!」
別の訓練生が答える。
「次!」
また答える。
教官は、わざと間を空ける。
突然質問を変える。
「今、何を確認した!」
「周囲の安全です!」
「違う!」
教官の声が響く。
「もう一度考えろ!」
訓練生は一瞬言葉に詰まる。
「……自分の状態と、周囲の状況です!」
「よし!」
また次へ。
さとるはそのやり取りを見ながら思った。
訓練では。
迷うことが許されない。
考え込むことも。
立ち止まることも。
時間をかけることも。
許されない。
決められた動作を。
決められた順番で。
正確に繰り返す。
そのための訓練だった。
「次!」
また号令。
さとるも動く。
けれど。
その瞬間。
頭の中に、昨日の薫の言葉が浮かんだ。
――朝起きて。
――仕事をして。
――帰ってきて。
――夕飯を一緒に食べる。
さとるは一瞬だけ動きを止めそうになった。
訓練場では。
「次!」
と命じられる。
未来では。
「おかえり」
と言ってもらえる。
その違いが。
胸に突き刺さった。
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午前の訓練が終わった。
訓練生たちは地面に座り、水を飲んだ。
誰も大きな声を出さない。
疲れている。
さとるの隣に剛が座った。
「……きついな」
「ああ」
剛は水筒を握ったまま、海を見た。
「昨日より厳しくなってないか?」
「そう思う」
少し沈黙したあと。
剛が言った。
「昨日、未来の話をしてたのに」
さとるは剛を見た。
「……うん」
「今日は朝からこれだ」
二人は訓練場を見た。
整列する場所。
繰り返し使われる訓練区画。
教官の立つ場所。
そこには、未来を語る場所などなかった。
あるのは。
命令。
動作。
確認。
繰り返し。
それだけだった。
「俺、さ」
さとるが言った。
「訓練してると、昨日の未来が遠く感じる」
「分かる」
「でも、薫と話してると……」
さとるは海を見た。
「逆に、ここが夢みたいに感じる」
剛は黙っていた。
二人とも同じことを思っていた。
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午後。
再び訓練が始まった。
「全員立て!」
訓練生たちが立ち上がる。
「これから時間を測る!」
教官が告げた。
「合図から、決められた場所まで移動し、整列する!」
緊張が走る。
「途中で誰かが遅れた場合、全員最初からやり直しだ!」
訓練生たちは息を整える。
「構え!」
一斉に身構える。
「――始め!」
走る。
足音が重なる。
さとるも走った。
息を切らしながら移動する。
前の者についていく。
後ろを確認する。
隊列を崩さない。
「急げ!」
教官の声。
全員がさらに速度を上げる。
決められた場所に到着する。
整列。
「遅い!」
教官の声が飛ぶ。
「最初から!」
一瞬。
訓練生たちの間に疲労が広がった。
けれど。
誰も逆らわない。
「もう一度!」
また走る。
また戻る。
また整列する。
それを何度も繰り返す。
さとるの呼吸は苦しかった。
それでも。
頭の中には薫の顔が浮かんでいた。
――生きたい。
その思いだけが、身体を動かしていた。
---
夕方。
ようやく訓練が終わった。
空は赤く染まっていた。
さとるは汗を拭いながら、高台へ向かった。
薫がいるかどうかは分からなかった。
けれど。
会いたかった。
高台へ着く。
薫はいた。
海を見ていた。
「さとる」
振り返った薫が笑う。
その笑顔を見た瞬間。
さとるは思った。
――ここだけ、時間が違う。
基地では。
「始め!」
と言われる。
「止まれ!」
と言われる。
「もう一度!」
と言われる。
けれど。
ここでは誰も命令しない。
風が吹く。
海が揺れる。
薫が笑う。
それだけだった。
「今日は、どうだった?」
薫が尋ねる。
「厳しかった」
「そう」
「何度も同じことをやった」
「大変だったね」
「ああ」
さとるは海を見た。
「でも、訓練してる間、ずっと未来のことを考えてた」
「未来?」
「昨日話しただろ」
薫が頷く。
「知らない町の話」
「うん」
「海の近くで暮らす」
「うん」
「朝起きて、一緒にご飯を食べる」
薫が微笑む。
「仕事へ行く」
「うん」
「夕方になったら帰ってくる」
「うん」
さとるは少し笑った。
「今日の訓練では、『始め』『急げ』『もう一度』って何度も言われた」
薫は黙って聞いていた。
「でも、俺が欲しい未来では……」
さとるは海を見た。
「『おかえり』って言われるんだろうなって思った」
薫の目に涙が浮かんだ。
「……うん」
「だから、訓練すればするほど」
さとるの声が低くなる。
「未来が欲しくなった」
薫は何も言わない。
「死ぬのが怖いだけじゃない」
さとるは続けた。
「生きた先に、欲しいものがあるから……失うのが怖い」
薫は涙を拭った。
「私も、その未来が欲しい」
「うん」
二人は海を見た。
夕日の光が海面を照らしている。
今朝は霧で何も見えなかった海。
今は。
遠くまで見渡せる。
その向こうに。
知らない町があるような気がした。
「もし行けたら」
薫が言った。
「うん」
「海の近くに、小さな家を見つけよう」
さとるは笑った。
「うん」
「朝は一緒に起きる」
「うん」
「夜は一緒にご飯を食べる」
「うん」
「それだけ」
「それがいい」
二人は笑った。
未来は。
まだどこにもない。
約束でもない。
けれど。
二人の心の中には。
確かに存在していた。
---
夜。
基地へ戻る道で。
さとるは海を振り返った。
昼間の訓練場。
教官の声。
「始め!」
「急げ!」
「もう一度!」
その声が、まだ耳に残っている。
その一方で。
薫の声も残っていた。
「一緒に起きる」
「一緒にご飯を食べる」
「それだけ」
さとるは立ち止まった。
訓練と未来。
二つの世界が。
自分の中で、はっきり分かれていた。
訓練は。
自分を出撃へ近づける。
未来は。
自分を生きることへ引き戻す。
その間で。
さとるは揺れていた。
そして。
その夜。
基地の中では。
また人の動きが増えていた。
倉庫の周辺を行き来する者。
何かを確認する者。
遅い時間まで灯りが消えない場所。
小さな声で交わされる会話。
「……近いうちらしい」
「また出撃があるのか」
「分からない。ただ、準備が進んでいる」
その言葉を聞いたさとるの胸が締めつけられた。
次が来る。
その気配が。
確実に近づいている。
さとるは布団の中で目を閉じた。
薫の笑顔を思い浮かべる。
海のある町。
小さな家。
朝の食卓。
夕方の「おかえり」。
それから。
今日、何度も聞いた教官の声。
「始め!」
「急げ!」
「もう一度!」
さとるは胸の中で呟いた。
――俺は。
――どちらへ行きたいんだ。
答えは決まっていた。
未来だった。
生きる未来。
薫と見る未来。
だからこそ。
出撃の日が近づいてくることが。
今までより、ずっと怖かった。
未来が見えなければ。
諦めることもできたかもしれない。
けれど。
一度、未来を見てしまった。
だから。
もう。
簡単には消せなかった。
その夜。
さとるは目を閉じたまま。
小さく呟いた。
「……生きたい」
そして。
もう一度。
「薫と、生きたい」
誰にも聞こえない声だった。
けれど。
その願いだけは。
自分の中から消えることはなかった。




