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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第二十八話 突然の出撃命令

第二十八話 突然の出撃命令


「――これより、出撃者の名前を読み上げる」


その言葉が響いた瞬間。


さとるは息を止めた。


訓練場に並んだ男たちは、誰一人として動かなかった。


朝の冷たい空気が、肌にまとわりついている。


風が吹いているはずなのに。


さとるには、その風さえ感じられなかった。


聞こえるのは。


自分の心臓の音だけだった。


ドクン。


ドクン。


ドクン。


胸の奥から、身体全体に響いてくる。


さとるは両手を後ろで組んだ。


指先が震えている。


震えを止めようと、片方の手で、もう片方の手を強く握った。


それでも止まらない。


――呼ばれる。


そんな予感がしていた。


いや。


予感ではなかった。


ここ数日。


ずっと考えていたことだった。


次は自分かもしれない。


その「次」が。


今日なのかもしれない。


教官が紙を持ち上げた。


紙が、かすかに擦れる音がした。


その小さな音さえ。


今のさとるには大きく聞こえた。


教官が口を開く。


「山田一郎」


「はい!」


大きな声が響いた。


さとるの肩がわずかに震えた。


――山田。


自分ではない。


ほんの一瞬。


胸の奥に安堵が広がった。


けれど。


その安堵は、一秒も続かなかった。


次は。


自分かもしれない。


さとるは唇を強く結んだ。


「里山清二」


「はい!」


また一人。


呼ばれた。


また。


自分ではない。


胸の奥に、ほんの少しだけ息が戻る。


しかし。


同時に思う。


――次だ。


――次に呼ばれるかもしれない。


教官が紙に目を落とす。


その数秒が。


異様に長かった。


さとるは教官の口元を見ていた。


口が開く。


それだけで。


心臓が跳ね上がる。


けれど。


「鈴木浩」


「はい!」


違った。


また違った。


さとるは知らないうちに息を吐いていた。


けれど。


息を吐いたことに気づいた瞬間。


自分がどれほど緊張しているのかを思い知らされた。


隣にいる剛も。


じっと前を見ている。


その横顔はいつもより硬かった。


さとるは剛の手を見た。


剛も。


手を握りしめていた。


二人とも。


同じことを考えている。


――次は誰だ。


そして。


――次は自分か。


「織田誠」


「はい!」


また声が響く。


さとるの胸が苦しくなる。


名前が呼ばれるたびに。


一人ずつ。


自分たちの前から消えていくような感覚がした。


「高畑修」


「はい!」


また。


自分ではない。


そのたびに。


ほんの少しだけ安心する。


けれど。


安心した直後。


その安心に罪悪感を覚える。


――あの人は呼ばれた。


――自分はまだ呼ばれていない。


そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。


さとるは目を伏せた。


そして。


心の中で何度も呟いた。


――まだ。


――まだ呼ばないでくれ。


誰にも聞こえない願いだった。


教官が紙をめくる。


その音がした瞬間。


また心臓が跳ねた。


さとるは思わず息を止めた。


教官が顔を上げる。


「……」


一瞬。


誰も動かない。


その沈黙が怖かった。


名前を呼ばれる前の。


ほんの数秒。


それが。


永遠のように長く感じられた。


さとるの頭の中に。


薫の顔が浮かんだ。


笑っている顔。


海を見ている横顔。


高台で泣いていた顔。


そして。


昨日話した未来。


海の近くの小さな家。


朝の食卓。


仕事から帰った夕方。


「おかえり」


という声。


――まだ。


――まだ、行きたくない。


その思いが。


胸の中で大きくなった。


けれど。


教官の声が。


静かに響いた。


「――さとる」


その瞬間。


時間が止まった。


何も聞こえなくなった。


自分の名前なのに。


すぐには理解できなかった。


さとるは瞬きをした。


もう一度。


頭の中で名前が響く。


――さとる。


身体が動かなかった。


足が床に縫い付けられたようだった。


「……」


返事をしなければならない。


分かっている。


なのに。


声が出ない。


喉が締まっている。


肺に空気が入ってこない。


心臓だけが。


異常なほど速く動いている。


ドクン。


ドクン。


ドクン。


「さとる」


教官がもう一度呼んだ。


「……はい」


やっと声が出た。


自分の声なのに。


ひどく遠くから聞こえた。


「前へ」


「はい……」


足を一歩出した。


膝が震えている。


もう一歩。


足の裏の感覚がない。


前へ進む。


その途中。


剛と目が合った。


剛は何も言わなかった。


ただ。


じっと、さとるを見ていた。


その目が。


「怖い」と言っているように見えた。


さとるも。


同じだった。


怖い。


死にたくない。


帰りたい。


薫に会いたい。


家族に会いたい。


まだ二十歳なのだ。


まだ。


生きたい。


そんな思いが。


一度に胸の中へ押し寄せてきた。


---


名前を呼ばれた者たちが前へ並ぶ。


教官は淡々と説明を始めた。


「これより、出撃に向けた準備に入る」


さとるはその言葉を聞いていた。


けれど。


頭の中では。


別の言葉が響いていた。


――本当に行くんだ。


これまでは。


「次は自分かもしれない」


だった。


今は違う。


「自分が行く」


だった。


その違いは。


あまりにも大きかった。


教官が続ける。


「準備については順次指示する」


「はい!」


選ばれた者たちが返事をする。


その声を聞きながら。


さとるは拳を握った。


手のひらに爪が食い込む。


痛かった。


けれど。


その痛みがあることで。


自分がまだここにいることを確かめられる気がした。


---


解散後。


さとるはしばらく動けなかった。


人が一人。


また一人。


訓練場から離れていく。


剛が近づいてくる。


「……さとる」


「ああ」


「呼ばれたな」


「うん」


それだけ言うと。


さとるは俯いた。


「怖い」


剛は黙っていた。


「俺……本当は」


さとるの声が震えた。


「名前を呼ばれないでくれって、ずっと思ってた」


「俺もだ」


「呼ばれた瞬間……」


さとるは自分の胸を押さえた。


「死ぬっていうことが、急に近くなった気がした」


剛は小さく頷いた。


「……分かる」


さとるは海の方を見た。


そして。


薫の顔を思い浮かべた。


「会いに行く」


剛が言った。


「行ってこい」


「うん」


さとるは走り出した。


---


高台には。


薫がいた。


海を見ていた。


「薫……」


薫が振り返る。


「さとる?」


さとるは何も言えなかった。


ただ。


薫の顔を見た。


それだけで。


堪えていた涙がこぼれた。


「……どうしたの?」


薫が近づいてくる。


さとるは震える声で言った。


「出撃命令が出た」


薫の足が止まった。


「……え?」


「今日、名前を呼ばれた」


薫の目に涙が浮かぶ。


「いつ……行くの?」


「まだ分からない」


「帰ってくる?」


その問いに。


さとるは答えられなかった。


「……分からない」


薫の涙が落ちた。


「嫌……」


小さな声。


「私……嫌だ……」


さとるも泣いた。


「俺だって……行きたくない」


そして。


薫がさとるの胸に飛び込んだ。


さとるは両腕で薫を抱きしめた。


「……行かないで」


「薫……」


「お願い……」


「俺も……死にたくない」


薫の肩が震える。


さとるの胸元が涙で濡れる。


二人は。


抱き合ったまま。


声を上げて泣いた。


「もっと一緒にいたい……」


「うん……」


「もっと普通に暮らしたい……」


「うん……」


「薫と生きたい」


薫は何度も頷いた。


「私も……」


二人は強く抱きしめ合った。


未来を約束することはできなかった。


「必ず帰る」とも言えなかった。


ただ。


今。


この瞬間だけは。


離れたくなかった。


海の向こうへ沈んでいく夕日を見ながら。


二人は泣き続けた。


そして。


薫が小さく言った。


「……また明日」


さとるは涙を拭った。


「……また明日」


それは。


約束ではなかった。


ただ。


二人が最後まで手放したくなかった。


小さな願いだった。

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