第二十九話 残された時間
第二十九話 残された時間
翌朝。
まだ空が完全には明るくなっていなかった。
基地の周囲には、薄い朝靄が残っている。
海も静かだった。
さとるはいつものように起き上がり、身支度を整えた。
眠ったはずなのに。
身体には疲れが残っている。
昨日、出撃者として名前を呼ばれた。
そして。
薫と抱き合いながら泣いた。
「行かないで」
そう言った薫の声が。
まだ耳に残っていた。
さとるは一度目を閉じる。
――三日。
そんな言葉は。
まだ聞いていない。
昨日の時点では。
ただ「出撃に向けた準備に入る」としか言われていなかった。
いつ出発するのか。
どこへ向かうのか。
具体的なことは。
まだ知らされていない。
だからこそ。
さとるは朝の訓練だけは。
いつも通り始まるのだと思っていた。
ところが。
外へ出たところで。
「集合!」
突然、声が響いた。
さとるは足を止めた。
訓練生たちが次々に集まっていく。
剛も走ってきた。
「何だろうな」
「分からない」
二人は並んで立った。
まだ朝早い。
訓練が始まる時間ではない。
それなのに。
全員が集められている。
そのことが。
さとるの胸をざわつかせた。
昨日の出撃者発表。
そして。
今朝の突然の集合。
嫌な予感がした。
教官が前に立った。
訓練生たちの顔を見渡す。
誰も話さない。
海から吹いてくる風だけが。
静かに通り抜けていった。
やがて。
教官が口を開いた。
「昨日、出撃者として名前を呼ばれた者は、そのまま前へ」
さとるの身体が固くなった。
数人が前へ出る。
さとるも。
一歩ずつ前へ進んだ。
剛は後ろに残った。
前に並んださとるたちは。
何も言わずに立っている。
教官が書類を手にした。
「これから、出撃について伝える」
さとるは息を止めた。
「よく聞け」
静かな声だった。
「出撃は三日後とする」
――三日後。
さとるの心臓が。
大きく鳴った。
「……三日」
誰かが小さく呟いた。
教官は続けた。
「三日後、沖縄方面へ向けて出発する」
その瞬間。
さとるの頭の中が真っ白になった。
沖縄。
昨日までは。
まだ遠い場所だった。
けれど。
三日後。
自分はそこへ向かう。
「本日から出発までの最終準備に入る」
教官の声が続く。
「訓練も通常通り行う。時間は限られている。気を抜くな」
「はい!」
訓練生たちの声が響いた。
さとるも。
声を出した。
「はい!」
けれど。
胸の中では。
別の言葉が何度も繰り返されていた。
――三日後。
――三日後には、ここを出る。
今まで。
「いつか来る」と思っていたものが。
突然。
数字になった。
三日。
今日を入れて。
あと三日。
その先には。
沖縄へ向かう海がある。
そして。
その先に。
自分がどうなるのかは。
誰にも分からない。
---
朝の訓練が始まった。
「開始!」
声が響く。
訓練生たちが一斉に動く。
さとるも身体を動かした。
けれど。
昨日までとは。
何かが違っていた。
「もう一度!」
繰り返す。
「急げ!」
動く。
「集中しろ!」
歯を食いしばる。
汗が流れる。
息が苦しくなる。
それでも。
訓練は止まらない。
三日後に出発する。
その事実を知った身体で。
さとるは訓練を続けた。
これまで何度も繰り返してきた動作。
同じ場所。
同じ声。
同じ海。
なのに。
全部が違って見えた。
――これが最後になるかもしれない。
そんな考えが。
頭から離れなかった。
---
休憩になった。
さとるは地面に座った。
剛が隣へ来る。
「……三日か」
「ああ」
「早すぎるな」
「うん」
剛はしばらく黙っていた。
そして。
「昨日までは、まだ日にちが決まってなかったのにな」
「そうだな」
さとるは海を見た。
「日にちが決まったら……」
言葉が止まる。
剛が見る。
「怖いか?」
さとるは少しだけ迷って。
答えた。
「……怖い」
剛は何も言わなかった。
「昨日までは、まだどこかで……時間があるような気がしてた」
「うん」
「でも三日って言われたら……」
さとるは拳を握った。
「本当に行くんだって思った」
剛は小さく息を吐いた。
「俺も怖いよ」
二人は海を見た。
朝の光が。
水面に揺れている。
いつもと同じ海だった。
けれど。
その海を見られる時間さえ。
残り少なくなったように感じた。
---
訓練が終わった夕方。
さとるは高台へ向かった。
薫に伝えなければならない。
昨日。
出撃することは伝えた。
けれど。
具体的な日にちは。
まだ知らなかった。
今日。
初めて知った。
三日後。
高台に着くと。
薫がいた。
海を見ていた。
「薫」
薫が振り返る。
「さとる」
その顔を見た瞬間。
さとるの胸が締めつけられた。
「今日……聞かされた」
「何を?」
「出発の日」
薫の表情が変わった。
「……いつ?」
さとるは。
静かに答えた。
「三日後」
薫の目が大きく開いた。
「三日……?」
「ああ」
「三日しかないの?」
さとるは答えられなかった。
薫の目から。
涙が落ちた。
「……短いね」
「ああ」
「もっと……時間があると思ってた」
「俺も」
二人は向かい合った。
何を話せばいいのか。
分からなかった。
未来の話をすれば。
その未来がなくなるかもしれない。
帰る約束をすれば。
それが叶わなかったとき。
薫を苦しませるかもしれない。
だから。
さとるは。
「必ず帰る」とは言えなかった。
ただ。
「残された三日を……できるだけ薫といたい」
そう言った。
薫は涙を拭った。
「私も」
そして。
一歩近づいた。
さとるも。
薫を抱きしめた。
「……怖い」
薫の肩に顔を埋めながら。
さとるは言った。
「うん」
「本当は行きたくない」
「うん」
「薫と生きたい」
薫の腕が。
さとるの背中を強く抱いた。
「私も……さとると生きたい」
二人は。
しばらく離れなかった。
三日。
それは長いようで。
あまりにも短い。
だからこそ。
二人は。
その三日を。
一日ずつ大切にするしかなかった。
やがて。
薫が小さな声で言った。
「また明日」
さとるは頷いた。
「また明日」
それは。
未来を約束する言葉ではなかった。
ただ。
もう一度会いたいという。
二人の願いだった。
---
その夜。
基地へ戻ったさとるは。
布団の上に座った。
窓の外を見る。
暗い海が広がっている。
三日後。
沖縄へ向けて出発する。
その言葉が。
何度も頭の中を巡った。
昨日まで。
「出撃する」と言われても。
まだどこか遠い話のように感じていた。
でも。
今日。
日にちを告げられた。
三日後。
時間は。
もう数字になった。
さとるは目を閉じた。
薫の顔が浮かぶ。
そして。
故郷の海が浮かぶ。
家族の顔も。
剛の顔も。
訓練生たちの顔も。
全部。
心の中に浮かんだ。
さとるは。
小さく息を吐いた。
「……生きたい」
誰にも聞こえない声だった。
「薫と……生きたい」
けれど。
その願いを口にしたところで。
出発の日は変わらない。
三日後。
自分は沖縄へ向かう。
その現実だけが。
静かに迫っていた。




