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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第八話 届いた手紙

第八話 届いた手紙


 さとるの故郷には、海から少し離れた場所に、小さな家があった。


 大きな家ではない。


 古い木造の家で、玄関を入るとすぐに土間があり、その奥に畳の部屋が続いている。


 庭には一本の柿の木があった。


 秋になると赤い実をつける。


 その木は、さとるが生まれる前からそこにあった。


 父の正一が若い頃から、この家で暮らしていた。


 正一は、口数の多い男ではなかった。


 朝が早い。


 まだ空が白み始める前に起き、顔を洗い、庭に出る。


 季節によって仕事は違ったが、家のことを済ませ、必要な仕事へ出る。


 帰ってくるのは夕方。


 疲れていても、家に入る前には一度、庭を眺める。


 それが正一の日課だった。


 家に帰れば、妻の文江がいる。


 文江は、正一より少し年下だった。


 明るくよく笑う女性だったが、家族のことになると心配性だった。


 特に息子のさとるには、幼い頃から何かと世話を焼いた。


「さとる、ちゃんと食べなさい」


「分かってるよ」


「分かってないから言ってるの」


 そんな会話が、家では何度も繰り返された。


 さとるが小さい頃は、朝になると文江が布団をめくった。


「起きなさい。遅れるよ」


「あと少し……」


「あと少しって言って、昨日も遅かったでしょう」


「眠いんだよ」


「みんな眠いの」


 布団の中から顔だけを出している息子を見て、文江は呆れたように笑った。


 正一はそれを少し離れたところから見ていた。


「起こしてやれ」


「お父さんが甘いから、この子はいつまで経っても起きないのよ」


「俺は何もしてないぞ」


「それが甘いって言ってるの」


 そんな家だった。


 特別裕福ではない。


 けれど、食べるものがあり、眠る場所があり、家族がそばにいる。


 それだけで十分だと、二人は思っていた。


 戦争が始まるまでは。


 時代が変わっていくにつれて、町の様子も少しずつ変わっていった。


 男たちがいなくなる。


 物が少なくなる。


 店先に並ぶ品物が減っていく。


 以前なら簡単に手に入ったものが、手に入りにくくなっていく。


 それでも正一と文江は、できるだけ以前と同じ暮らしを続けようとした。


 朝になれば起きる。


 仕事をする。


 食事をする。


 夜になれば眠る。


 当たり前だった毎日を、当たり前のまま守ろうとしていた。


 そして、家の中で一番大切だったのが、息子の存在だった。


 さとるは二十歳になった。


 いつの間にか、父親より背が高くなっていた。


 声も低くなった。


 子どもの頃は何でも父親に聞いてきたのに、年頃になると自分のことをあまり話さなくなった。


 それでも正一には分かっていた。


 息子は優しい。


 人前では強がっていても、本当は傷つきやすい。


 そして、自分よりも家族のことを心配するところがある。


 だからこそ、さとるが家を出る朝、正一は何も言えなかった。


「父さん」


「なんだ」


「……行ってくる」


「ああ」


 それだけだった。


 本当は、


 行くな。


 帰ってきてくれ。


 怖くないのか。


 無理をするな。


 そんな言葉を全部言いたかった。


 けれど、言えなかった。


 父親として、息子の前で弱いところを見せてはいけないと思った。


 だから、最後に言ったのは、


「身体に気をつけろ」


 という短い言葉だけだった。


 そのときの息子の顔を、正一は今でも忘れられなかった。


 そして文江は、もっと多くの言葉を伝えた。


「ちゃんと食べるんだよ」


「うん」


「寒かったら無理しちゃだめだよ」


「うん」


「具合が悪かったら、ちゃんと言うんだよ」


「分かってる」


「手紙も書くんだよ」


「うん」


 何度同じことを言っても、文江は止まらなかった。


 最後には、


「気をつけてね」


 とだけ言った。


 さとるは笑った。


「母さんもね」


 それが、家を出る前に交わした最後の言葉だった。


 それから家には、二人だけの暮らしが戻った。


 最初の頃、文江はそれが不思議で仕方なかった。


 朝、息子を起こす必要がない。


 食卓に三人分の箸を並べる必要もない。


 洗濯物も少ない。


 部屋も静かだった。


 静かすぎた。


 以前なら、朝から聞こえていたさとるの足音がない。


 水を使う音もない。


 戸を開ける音もない。


 夜になっても、


「母さん、飯」


 という声が聞こえない。


 文江は、息子がいなくなって初めて、自分がどれだけその音に囲まれて暮らしていたのかを知った。


「……寂しいね」


 ある夜、文江が言った。


 正一は黙っていた。


「何も言わないね」


「俺も同じだ」


「そう」


 文江は少し笑った。


「じゃあ、二人とも寂しいんだね」


「ああ」


 正一はそれ以上言わなかった。


 けれど、その夜から正一は、息子の部屋の戸を閉めることができなくなった。


 誰もいない部屋。


 机の上には、以前使っていたものが残っている。


 壁には、子どもの頃に描いた絵が一枚残っていた。


 正一はそれを見つめるたびに思う。


 あの頃は、戦争なんて知らなかった。


 さとるも知らなかった。


 ただ海へ行きたいと言い、腹が減ったと言い、眠いと言っていた。


 それだけだった。


 そんな普通の少年だった。


 それが今は、遠い場所で訓練を受けている。


 正一は息子の机に触れた。


「……早く帰ってこい」


 誰もいない部屋で、そう呟いた。


 文江は、そんな正一を見ていた。


 何も言わなかった。


 夫がどれほど息子を心配しているのか、分かっていたからだ。


 二人は、毎日同じように暮らしていた。


 朝になる。


 文江がご飯を炊く。


 正一が庭に出る。


 昼になれば、それぞれの仕事をする。


 夕方になれば正一が帰ってくる。


 文江が食事を用意する。


 夜になる。


 そして、眠る。


 ただ、それだけの暮らし。


 けれど、毎日二人とも心のどこかで息子を待っていた。


 手紙が来る日だけは違った。


 郵便屋の姿が見えると、文江は必ず玄関へ向かった。


 正一は何も言わない。


 それでも、新聞を読むふりをしながら耳を澄ませている。


 その日もそうだった。


 玄関の外から、自転車の音が聞こえた。


 文江が立ち上がる。


「来たかもしれない」


 正一も顔を上げた。


 そして――。


 一通の封筒が届いた。


 そこには、息子の字があった。


 文江は封筒を両手で持った。


 その手が震えていた。


「正一さん……」


「開けてみろ」


「うん」


 文江はゆっくりと封を開いた。


 便箋を広げる。


 そこには、さとるの文字が並んでいた。


「母さんへ」


 最初の一行を見ただけで、文江の目に涙が浮かんだ。


「手紙ありがとう。こちらでは毎日元気に過ごしています」


「元気だって」


 文江は笑った。


「そうか」


 正一も頷いた。


 だが、正一は気づいていた。


 息子が「元気」と書くときほど、本当に元気なのか分からない。


 昔からそうだった。


 苦しくても、大丈夫と言う。


 痛くても、平気だと言う。


 怖くても、怖くないと言う。


 父親には、それが分かっていた。


 文江も同じだった。


 だから、手紙の中に書かれていない言葉を想像してしまう。


 怖い。


 帰りたい。


 家にいたい。


 そんな言葉を、息子は書かなかった。


 書けなかったのかもしれない。


 母親に心配をかけたくなかったのだろう。


 文江は便箋を握りしめた。


「この子……」


「どうした」


「きっと、無理してる」


 正一は答えなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 それでも手紙には、家を思う言葉があった。


 海のこと。


 幼い頃のこと。


 父親と一緒に海へ行ったこと。


 母親のご飯が食べたいということ。


 戦争が終わったら、また家でご飯を食べたいということ。


 正一は、その一文を何度も読んだ。


「父さんとも、もっと話したいです」


 そこを読んだとき、正一は顔を伏せた。


 何も言えなかった。


 息子ともっと話したかった。


 もっと一緒に海へ行きたかった。


 仕事のこと。


 これからのこと。


 好きなもの。


 嫌いなもの。


 そんなくだらない話を、もっとしたかった。


 父親になったときには分からなかった。


 息子が大人になったときに、こんなにも話したいことが増えるとは思わなかった。


 けれど、今になって初めて分かった。


 時間は、永遠にはない。


「帰ってきたら……」


 正一が言った。


「うん?」


「今度は、俺から海へ連れていく」


 文江は笑った。


「さとる、もう子どもじゃないよ」


「分かってる」


「それでも?」


「ああ」


 正一は窓の外を見た。


「それでも、一緒に行きたい」


 文江は静かに頷いた。


「そうだね」


 その日、二人はいつもより遅くまで起きていた。


 食卓の上には、さとるの手紙が置かれている。


 二人は何度も読み返した。


 何度読んでも、最後に目が止まる。


 ――またね。


 文江が指でその文字をそっとなぞった。


「またね、って書いてある」


「ああ」


「帰ってくるつもりなんだね」


「そうだ」


 正一は答えた。


「きっと帰ってくる」


 それは、息子への言葉でもあり、自分自身への言葉でもあった。


 夜が深くなる。


 文江は手紙を大切に封筒へ戻した。


 そして、息子の部屋へ行った。


 布団を整える。


 誰も寝ていない布団だった。


 それでも文江は、毎晩のように整えていた。


 いつ帰ってきてもいいように。


「帰ってきたら、ここで寝るんだからね」


 誰もいない部屋に向かって、文江は言った。


 その目には涙が浮かんでいた。


「だから、ちゃんと帰っておいで」


 部屋の外では、正一が黙って立っていた。


 夫婦は何も言わなかった。


 ただ、二人とも同じことを願っていた。


 息子が帰ってくること。


 また三人で食卓を囲むこと。


 母親がご飯を作り、父親がくだらない話をして、さとるが笑うこと。


 それだけでいい。


 それだけで十分だった。


 戦争が終わったら。


 いつか。


 また。


 三人で海を見に行こう。


 そう思いながら、二人は静かな夜を過ごした。


 まだ二人は知らなかった。


 さとるが見つめている海が、少しずつ故郷から遠ざかろうとしていることを。


 そして、その海の向こうで、二十歳の青年がどんな未来を願っているのかを。


 ただ一つだけ、二人が知っていたことがある。


 さとるには、帰る場所がある。


 その家には、父親がいる。


 母親がいる。


 そして、息子が帰ってくる日を待っている二人がいる。


 そのことだけを胸に抱いて、正一と文江は眠りについた。

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