第七話 家族への手紙
第七話 家族への手紙
夜。
訓練を終えた宿舎には、昼間の騒がしさが嘘のような静けさが広がっていた。
消灯まで、まだ少し時間がある。
部屋の隅では、何人かの訓練生が家族への手紙を書いている。
誰かは便箋に向かって黙り込み、誰かは書いては消し、書いては消していた。
家族への手紙。
それは、訓練生たちにとって、故郷とつながる数少ないものだった。
さとるも机の前に座っていた。
机の上には、一枚の便箋。
その横には、母親から届いた手紙がある。
封筒は何度も開け閉めしたせいで、少し柔らかくなっていた。
さとるは、その手紙を手に取った。
何度読んでも、最初に目に入るのは同じ言葉だった。
『さとるへ』
その文字を見ただけで、家の風景が浮かんでくる。
母親が机に向かっている姿。
その隣で父親が新聞を読んでいる姿。
夕方になると、台所から聞こえてくる音。
食事ができると、
「ご飯だよ」
と母親が呼ぶ声。
たったそれだけの記憶なのに、今は遠い。
さとるは手紙を読み進めた。
『こちらは変わりありません。』
『お父さんも元気です。』
『家のことは心配しなくていいから、そちらで身体に気をつけるんだよ。』
そして最後に、
『ご飯をちゃんと食べるんだよ。』
『寒くないかい。』
『無理をしちゃだめだよ。』
母親らしい言葉だった。
さとるは、その最後の一行を何度も見つめた。
「無理をしちゃだめだよ」
その言葉に、胸が苦しくなる。
無理をしている。
確かにそうだった。
毎日、身体が痛くなるまで訓練している。
疲れていても起きる。
怖くても海へ出る。
不安でも平気な顔をする。
それが自分の務めなのだと思っていた。
けれど、本当の気持ちを母親に話したら、どうなるのだろう。
さとるは便箋を引き寄せた。
鉛筆を握る。
そして、最初の一行を書いた。
『母さんへ。』
そこで手が止まった。
次に何を書けばいいのか分からない。
「元気です」
そう書けばいい。
いつもそうしている。
けれど今日は、その四文字を書くことさえ苦しかった。
さとるはしばらく考えた。
そして、ゆっくりと書いた。
『母さんへ。』
『手紙ありがとう。』
一行。
また一行。
『こちらでは毎日元気に過ごしています。』
そこで鉛筆が止まる。
「元気に……」
さとるは、その言葉を見つめた。
本当に元気なのか。
身体は動く。
食事もしている。
眠ることもできる。
だから、嘘ではない。
でも――
心はどうなのだろう。
毎日、死ぬことを考えている。
夜になると、家のことを思い出す。
訓練の途中で、突然怖くなることもある。
それでも、
『元気です』
と書く。
母親を安心させるために。
さとるは続けた。
『訓練にも少しずつ慣れてきました。』
そこまで書いて、少しだけ息を吐いた。
これも本当だった。
最初よりは、身体も動くようになっている。
仲間たちとも話すようになった。
基地での生活にも慣れてきた。
けれど、本当はその後に書きたい言葉がある。
『でも、怖いです。』
その一文だった。
さとるは、その言葉を心の中で何度も繰り返した。
怖い。
海が怖い。
狭い場所が怖い。
訓練の先に何が待っているのか考えるのが怖い。
出撃命令が来ることが怖い。
そして何より、
家族にもう一度会えなくなることが怖い。
鉛筆の先が、便箋の上で動かなかった。
やがて、さとるはその言葉を紙の上に書いた。
『母さん。』
そして、その下に、
『本当は、少し怖いです。』
と書いた。
書いた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ外へ出たような気がした。
しかし、すぐに手が止まる。
これを送っていいのか。
母親が読んだら、きっと眠れなくなる。
父親も心配するだろう。
家族に余計な心配をさせることになる。
さとるは、その一文をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと消しゴムを動かした。
白い消し跡だけが残る。
「……ごめん」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
その代わりに、こう書いた。
『訓練は厳しいですが、みんなで頑張っています。』
今度は、嘘に近い言葉だった。
けれど、完全な嘘でもない。
仲間たちも頑張っている。
自分も頑張っている。
だから、この文章なら送れる。
さとるは続けた。
『この前、海を見ました。』
その一文を書いたところで、筆が少し軽くなった。
海。
ここへ来てから、毎日のように見ている海。
でも、海を見るたびに思い出す。
家の近くの海。
子どもの頃、父親に連れて行ってもらった海。
まだ背が低かった頃、波が怖くて父親の手を握っていた。
その頃の自分は、海の向こうに何があるのかなんて考えなかった。
ただ、父親の隣にいれば安心だった。
さとるは書き続けた。
『ここの海を見ていると、家の近くの海を思い出します。』
『小さい頃、父さんに連れて行ってもらったことを覚えています。』
『あのときは、海がとても大きく見えました。』
そこまで書いて、さとるは少し笑った。
そして、
『今でも、海を見ると父さんのことを思い出します。』
と書いた。
しばらく、その一文を眺める。
父親に、こんなことを直接言ったことは一度もない。
「ありがとう」
とも。
「大切に思っている」
とも。
けれど手紙なら、書ける気がした。
『父さん。』
『あまり話をしなかったけれど、家を出る前に言ってくれたことを覚えています。』
さとるは筆を止めた。
父親の言葉が蘇る。
――生きて帰りたいと思うことを、恥ずかしいと思うな。
さとるは、それを書こうとしてやめた。
母親に読まれたら、父親との会話を全部話すことになる。
だから、少しだけ変えた。
『身体に気をつけろと言ってくれたこと、覚えています。』
そして、
『僕も、ちゃんと身体に気をつけます。』
と書いた。
けれど、その次の文章が出てこない。
本当は、
――帰ります。
と書きたい。
必ず帰ります。
家に帰ったら、また一緒に飯を食べよう。
母さんの料理を食べたい。
父さんとも、もっと話したい。
戦争が終わったら、普通に働いて、普通に暮らしたい。
そんな未来を、家族と一緒に迎えたい。
その気持ちを全部書きたかった。
さとるは、便箋の余白を見つめた。
そして、ゆっくりと書いた。
『戦争が終わったら、また家でご飯を食べたいです。』
その一文を書いた瞬間、目の奥が熱くなった。
たったそれだけのこと。
けれど今の自分にとっては、それが一番遠い願いだった。
豪華なものはいらない。
何もいらない。
母親の作った飯を食べて、
父親の話を聞いて、
「今日は疲れたな」
と笑う。
それだけでいい。
それだけで十分だった。
さとるは続けた。
『母さんのご飯が食べたいです。』
そして、
『父さんとも、もっと話したいです。』
そこまで書いて、鉛筆を置いた。
胸が苦しい。
でも、今度は消さなかった。
この二つだけは、どうしても残しておきたかった。
そのとき、
「何書いてる?」
後ろから声がした。
振り返る。
剛だった。
「母さんに手紙」
「長いな」
「書くことが多いんだよ」
「俺なんか短いぞ」
剛は笑った。
「元気。頑張ってる。帰ったら飯食おう。それだけ」
「十分だろ」
「そうか?」
「うん」
剛はさとるの隣に座った。
しばらく沈黙した。
そして、小さな声で言った。
「……本当のこと、書けないよな」
さとるは黙った。
「怖いとか」
剛が続ける。
「帰りたいとか」
さとるはゆっくり頷いた。
「書いたら、家の人が心配する」
「だよな」
剛は自分の手紙を見た。
「俺も、本当は怖いって書きたい」
その言葉に、さとるは顔を上げた。
剛は笑わなかった。
「俺だって死にたくない」
静かな声だった。
さとるは何も言えなかった。
その言葉は、きっと自分の気持ちでもあったからだ。
剛は続けた。
「でも、それを家に書いたら、母ちゃん泣くだろ」
「……うん」
「だから書けない」
二人は黙った。
その沈黙の中で、さとるは思った。
自分だけではなかった。
怖いと思っているのは、自分だけではない。
帰りたいと思っているのも、自分だけではない。
みんな同じなのだ。
ただ、それを言葉にする場所がない。
だから手紙を書く。
「元気です」
「頑張っています」
「心配しないでください」
そう書くことで、家族を安心させる。
そして、本当の気持ちは自分の胸の中にしまっておく。
さとるは再び便箋を見た。
最後の文章を書く。
『母さん。父さん。』
『心配しないでください。』
そこまで書いて、また迷った。
本当に心配しないでほしい。
けれど、そんなことを言える状況ではない。
だから、その代わりに、
『僕も頑張ります。』
と書いた。
そして最後に、
『また手紙を書きます。』
と続けた。
鉛筆を置く。
しばらく考える。
最後の一言。
「さようなら」
それは書けなかった。
あまりにも重すぎる。
だから、
『またね。』
と書いた。
さとるは、その二文字を見つめた。
またね。
また会おう。
また話そう。
また一緒に飯を食べよう。
その「また」が、本当に来るのかは分からない。
それでも、書きたかった。
書かなければ、未来がなくなってしまうような気がした。
便箋を折る。
封筒に入れる。
封をする。
さとるは、その手紙を胸元に当てた。
「……ちゃんと届いてくれよ」
小さく呟く。
その手紙には、書けなかった言葉がたくさんあった。
怖い。
帰りたい。
生きたい。
家族に会いたい。
普通の暮らしがしたい。
そして――
まだ見たことのない未来を見てみたい。
そのすべてを、さとるは胸の中にしまった。
窓の外を見る。
夜の海が静かに揺れている。
そのとき、遠くの港に人影が見えた。
さとるは目を凝らした。
あの少女だった。
黒い髪が夜の風に揺れている。
一人で海を見ていた。
さとるは窓辺に立ったまま、その姿を見つめた。
すると少女が、ふと顔を上げた。
二人の視線が重なる。
距離は遠い。
声は届かない。
それでも、少女は小さく笑った。
さとるも笑った。
その瞬間、胸の奥に不思議な感情が生まれた。
家族に手紙を書いたばかりなのに。
帰りたいと思ったばかりなのに。
その「帰る場所」とは別に、もう一つ、気になる場所ができ始めている。
それが何なのか、さとるにはまだ分からなかった。
ただ、少女の姿が見えなくなったあとも、しばらく窓辺から動けなかった。
やがて夜が深くなる。
さとるは布団に入った。
胸元には、家族への手紙。
目を閉じる。
頭の中に、母親の顔が浮かぶ。
父親の背中が浮かぶ。
そして、昼間に見た少女の笑顔が浮かぶ。
さとるは目を閉じたまま思った。
――生きて帰りたい。
それは、家族のもとへ帰るためだけではない。
まだ何も知らない未来へ、もう一度戻るためだった。




