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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第六話 二十歳の青年

第六話 二十歳の青年


朝の海には、薄い霧がかかっていた。


向こう岸がぼんやりと霞んでいる。


いつもなら見える山の輪郭も、今日ははっきりしない。


さとるは宿舎の前に立ち、白い息を吐いた。


寒い。


両手をこすり合わせながら、海の方を見る。


海は静かだった。


波の音だけが、一定の間隔で聞こえてくる。


「寒いな」


隣に立った剛が言った。


「寒いな」


「昨日より寒くないか?」


「気のせいだろ」


「いや、絶対寒い」


二人はそんなことを言いながら笑った。


けれど、笑い声は長く続かなかった。


すぐに訓練が始まる。


走る。


身体を動かす。


何度も同じ動作を繰り返す。


毎日同じことをしているように見えても、身体の疲れは少しずつ蓄積していた。


さとるは歯を食いしばりながら走った。


足が重い。


呼吸が苦しい。


それでも前へ進む。


ふと、昔の自分を思い出した。


家にいた頃は、朝起きるのが嫌で仕方なかった。


母親に、


「早く起きなさい」


と言われても、布団の中でいつまでも眠っていた。


「あと五分……」


そう言って、母親に笑われたこともある。


あの頃は、それが当たり前だった。


朝が来れば、また一日が始まる。


明日も朝が来る。


そう信じて疑わなかった。


けれど今は違う。


一日一日が、以前とは違う意味を持っている。


今日が終われば、また明日が来る。


その明日が来ることを、以前ほど当たり前だと思えなくなっていた。


訓練が終わる。


食事を済ませる。


午前の座学。


午後の訓練。


夕方になる。


同じことの繰り返し。


それでも、さとるの心の中では、以前とは違うものが芽生えていた。


「帰りたい」


その気持ちだった。


最初は家に帰りたいだけだった。


父親に会いたい。


母親に会いたい。


家の食事を食べたい。


自分の部屋で眠りたい。


けれど、最近はそれだけではなかった。


戦争が終わった後のことを考えるようになっていた。


仕事をして。


町を歩いて。


好きなものを食べて。


友人と笑って。


家族と過ごす。


そんな普通の生活。


今までなら、そんな未来について深く考えたことはなかった。


未来というものは、当然のようにやってくるものだと思っていた。


けれど今は、その「当然」がどれほど大切だったのかを知り始めている。


昼休み。


さとるは一人で海辺に立っていた。


手には水筒。


ゆっくりと水を飲む。


海風が頬を撫でた。


そのときだった。


港の向こうに、人影が見えた。


さとるは思わず目を細めた。


あの少女だった。


黒い髪が風に揺れている。


今日は一人ではなかった。


少し離れたところで、町の人と話をしている。


少女は笑っていた。


その笑顔を見た瞬間、さとるの胸が少しだけ温かくなった。


どうしてなのだろう。


名前すら知らない。


話したこともない。


ただ何度か、目が合っただけ。


それなのに、姿を見つけると気になってしまう。


さとるは慌てて視線を逸らした。


自分でも、少し恥ずかしかった。


二十歳にもなって、何をしているのだろう。


女の子を見て、胸が騒ぐ。


そんな普通の感情さえ、今の自分には遠いものに感じられた。


剛がやってきた。


「何見てる?」


「何も」


「いや、今なんか見てただろ」


「見てない」


「嘘つけ」


剛がさとるの視線の先を見る。


そして、少しだけ目を細めた。


「……ああ」


さとるの顔が熱くなる。


「何だよ」


「いや」


剛は笑った。


「別に」


「何だよ、その顔」


「何でもないって」


剛はそれ以上何も言わなかった。


ただ、少しだけ楽しそうだった。


さとるは海へ視線を戻した。


少女はもう見えなくなっていた。


「……名前くらい、知りたいな」


思わず口から出た。


「何の?」


剛が聞き返した。


「いや……」


さとるは誤魔化した。


「何でもない」


剛は何も言わず、海を見ていた。


けれど、その目には何かを察したような色があった。


午後の訓練が始まった。


さとるはいつも以上に集中しようとした。


けれど、心のどこかに少女の姿が残っている。


訓練に集中しなければならない。


そう思えば思うほど、気になってしまう。


「集中しろ」


自分に言い聞かせる。


ここは遊びに来た場所ではない。


自分にはやるべきことがある。


そう思う。


けれど、それでも心の中から消えない。


少女の笑顔。


風に揺れる黒髪。


そして、自分と目が合ったときの、あの小さな笑顔。


さとるは自分でも気づかないうちに笑っていた。


その日の夕方。


訓練を終えたさとるは、宿舎へ戻る途中で空を見上げた。


夕焼けだった。


赤い空が海へ続いている。


その景色を見ながら、ふと思った。


もし戦争が終わったら。


自分は何をしたいのだろう。


以前なら、家に帰ることしか考えなかった。


けれど今は、もう一つのことを考えてしまう。


――あの子と話してみたい。


名前を知りたい。


どこに住んでいるのか知りたい。


何が好きなのか聞いてみたい。


そんなことを考えている自分が、少しおかしく思えた。


こんな状況なのに。


明日のことさえ分からないのに。


それでも、心は未来を想像してしまう。


人間は不思議だ。


どれほど先が見えなくても、未来を思い描いてしまう。


さとるは海を見つめた。


「俺は……」


小さく呟いた。


その先の言葉が出てこなかった。


生きたい。


帰りたい。


普通に暮らしたい。


そして、できることなら――


誰かを好きになってみたい。


それが、二十歳の青年としての、ごく普通の願いだった。


夜。


宿舎では、仲間たちがそれぞれの時間を過ごしていた。


誰かが故郷の話をしている。


誰かが家族から届いた手紙を読んでいる。


誰かは、もう眠っている。


剛が隣で手紙を書いていた。


「何書いてる?」


さとるが聞くと、剛は答えた。


「妹に」


「妹、いるのか」


「いる。まだ小さい」


「そうか」


「帰ったら、土産買ってやるって約束してるんだ」


剛は笑った。


その笑顔を見て、さとるも笑った。


「帰らないとな」


「うん」


二人とも、それ以上は言わなかった。


「帰る」


その言葉の意味を、二人とも分かっていた。


簡単なことではない。


それでも、口にしたかった。


帰ると言葉にすることで、未来がまだ消えていないような気がした。


やがて消灯の時間になった。


部屋が暗くなる。


さとるは布団の中で目を閉じた。


今日も一日が終わった。


明日もまた訓練がある。


同じ朝が来る。


そう思いながら、眠りにつこうとした。


そのとき、海の音が聞こえた。


静かな波の音。


さとるは目を閉じたまま、その音を聞いていた。


そして思った。


この海の近くで、あの少女は暮らしている。


明日も会えるだろうか。


また、目が合うだろうか。


そして、いつか――


名前を聞くことができるだろうか。


まだ何も始まっていない。


二人は、ただ何度か目を合わせただけだった。


それでも。


戦争という大きな時代の中で、さとるの心に初めて、小さな未来が生まれ始めていた。


二十歳の青年は、その未来をまだ誰にも話さなかった。


けれど、その夜のさとるは、久しぶりに少しだけ穏やかな顔で眠った。

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