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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第五話 帰る場所

第五話 帰る場所


朝の海は、まだ眠っているようだった。


空は薄い灰色で、水平線との境目もはっきりしない。


けれど、基地の中ではもう一日が始まっていた。


「起きろ!」


声が響く。


布団の中で眠っていたさとるは、反射的に身体を起こした。


「……朝か」


眠気が残っている。


身体も重い。


昨日の疲れが抜けていない。


それでも、立たなければならない。


周りでも次々と訓練生たちが起き上がっていた。


「眠いな……」


誰かが呟く。


「昨日、寝るの遅かったからな」


「お前、手紙を書いてただろ」


「母ちゃんにだよ」


そんな会話が聞こえる。


一見すれば、普通の若者たちだった。


眠いと言い、腹が減ったと言い、故郷の話をする。


笑うこともある。


冗談を言うこともある。


けれど、その誰もが胸の奥に同じものを抱えていた。


――いつか、出撃の日が来る。


それを、誰も忘れてはいなかった。


外へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。


訓練生たちは整列する。


まだ太陽は低い。


海から吹く風が強く、制服の裾を揺らしていた。


さとるは前を向いた。


隣には剛がいる。


「眠そうだな」


剛が小さな声で言った。


「お前もだろ」


「俺は昨日、ちゃんと寝た」


「嘘つけ」


二人は小さく笑った。


ほんの数秒。


それだけで気持ちが少し楽になった。


やがて訓練が始まった。


走る。


身体を動かす。


何度も同じ動作を繰り返す。


足が重くなってくる。


息が上がる。


汗が流れる。


それでも止まることはできない。


さとるは歯を食いしばった。


走りながら、ふと周りを見る。


隣を走る仲間。


少し前を走る仲間。


後ろから必死についてくる仲間。


みんな同じように苦しそうな顔をしている。


けれど、誰も途中で弱音を吐かなかった。


訓練が終わる頃には、全員の肩が大きく上下していた。


剛が膝に手をつく。


「……死ぬ」


「まだ死んでない」


さとるが言う。


「いや、腹減って死ぬ」


「そっちか」


二人で笑った。


朝食の時間。


食堂には、疲れた身体を引きずるようにして訓練生たちが集まってくる。


食事は決して豪華ではない。


それでも、腹が減っているから何でもうまく感じる。


「いただきます」


皆が食事を始める。


剛が勢いよく食べている。


「お前、食うの早いな」


「訓練の後だからな」


「喉に詰まるぞ」


「大丈夫だ」


そう言った直後、剛がむせた。


さとるは思わず吹き出した。


「ほら」


「うるさい」


周囲の仲間たちも笑っている。


その笑い声は、基地の中では貴重だった。


戦争のことも。


出撃のことも。


死ぬかもしれないという恐怖も。


その瞬間だけは忘れられる。


「そういえばさ」


向かいに座っていた訓練生が言った。


「お前の故郷ってどこだっけ?」


「俺か? 広島の方」


「広島か。海が近いな」


「まあな。俺の家の近くにも海がある」


別の男が言った。


「俺は山だよ」


「山かあ」


「海よりいいぞ。静かだからな」


「こっちは海ばっかりだ」


誰かが笑った。


さとるはその会話を聞きながら、故郷のことを思った。


自分の家の近くの風景。


朝の空気。


家の匂い。


母親の声。


父親の背中。


ここへ来る前には、それが当たり前だった。


今になって、その一つ一つが大切だったことに気づく。


食事が終わると、また訓練が始まる。


午前の時間は、座学だった。


回天について学ぶ。


構造や扱いについて説明を受ける。


さとるは前を向いて話を聞いていた。


けれど、説明を聞きながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。


これを覚えれば覚えるほど、自分が何をするのかが具体的になっていく。


最初はただの「訓練」だった。


今は違う。


自分が乗るもの。


自分が向かう場所。


その先に待つもの。


少しずつ、現実になっている。


さとるは拳を握った。


怖い。


やっぱり怖い。


けれど、隣を見る。


剛が真剣な顔で話を聞いている。


その姿を見ると、自分だけが怖がっているような気がしてしまう。


休憩時間。


外に出ると、何人かの訓練生が海を眺めていた。


誰も話していない。


ただ、海を見ている。


さとるもその輪の中に入った。


一人の訓練生が言った。


「……綺麗だな」


誰も返事をしなかった。


けれど、全員が同じ海を見ていた。


その海の向こうには、それぞれの故郷がある。


家族がいる。


友人がいる。


そして、自分たちがまだ知らない未来がある。


「帰りたいな」


突然、誰かが言った。


その言葉に、誰も笑わなかった。


さとるの胸が詰まった。


言っていいんだ。


帰りたいと思ってもいいんだ。


そう思った。


その訓練生は、少し照れたように笑った。


「……なんてな」


誰かが、


「俺もだよ」


と言った。


その一言に、何人かが笑った。


さとるも笑った。


けれど、その笑いの奥には、誰にも言えない本音があった。


みんな帰りたい。


みんな生きたい。


それでも、ここにいる。


午後。


再び訓練が始まった。


海の上での訓練。


風が強くなっていた。


さとるは集中しようとした。


けれど、ふと海の向こうに視線が向いた。


昨日見た少女の姿が頭に浮かんだ。


黒い髪。


白い肌。


静かな笑顔。


名前すら知らない。


それなのに、なぜか気になる。


「さとる」


剛の声で我に返った。


「何だ?」


「ぼーっとしてたぞ」


「してない」


「してた」


「してないって」


剛は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


訓練が終わる頃には、空が赤く染まり始めていた。


夕暮れの海。


その色を見ながら、さとるは思った。


この海を、あと何度見ることができるのだろう。


そんな考えが浮かんだ瞬間、胸が苦しくなった。


考えたくない。


けれど、考えてしまう。


宿舎に戻ると、皆それぞれの時間を過ごしていた。


手紙を書く者。


家族から届いた手紙を読む者。


仲間と話す者。


黙って横になっている者。


さとるは自分の荷物から便箋を取り出した。


母親への手紙を書く。


「元気です」


そこまで書いて、手が止まった。


本当は、


「怖い」


と書きたかった。


「帰りたい」


とも書きたかった。


けれど、書けなかった。


母親がこの手紙を読んだら、きっと心配する。


だから、


「訓練は順調です」


と続けた。


書きながら、胸の奥が痛んだ。


嘘ではない。


訓練は確かに続いている。


けれど、本当のことを全部書いているわけでもない。


そのとき、隣から声がした。


「何書いてる?」


剛だった。


「母さんに」


「俺も書こうかな」


「書けよ」


剛は少し黙ってから言った。


「……帰ったら、何食いたい?」


さとるは顔を上げた。


「突然だな」


「いいから」


「そうだな……」


さとるは少し考えた。


母親の作った飯。


温かい味噌汁。


白いご飯。


焼いた魚。


そんなものが頭に浮かんだ。


「家の飯が食いたい」


さとるが言うと、剛は笑った。


「俺もだ」


二人はしばらく黙った。


やがて剛が、


「帰ろうな」


と言った。


さとるは剛を見た。


「……ああ」


短い返事だった。


けれど、その言葉は二人にとって大きかった。


帰ろう。


それが、二人の小さな約束になった。


夜。


消灯の時間が近づく。


さとるは布団に横になった。


外から海の音が聞こえる。


波が寄せては返している。


目を閉じる。


すると、また昼間に見た少女の姿が浮かんだ。


名前を知らない。


声も知らない。


どんな家に住んでいるのかも知らない。


それでも、なぜか思い出す。


さとるは小さく笑った。


「……変だな」


誰にも聞こえない声だった。


そして、もう一度目を閉じた。


その夜。


さとるはまだ知らなかった。


明日も、その少女を見ることになることを。


そして、その何気ない視線が、やがて自分の人生を大きく変えることを。


海は、何も知らないまま静かに夜を迎えていた。


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