第四話「二十歳の理由」
第四話「二十歳の理由」
朝。
まだ空が白み始めたばかりの時間に、さとるは目を覚ました。
宿舎の窓から差し込む光は弱く、部屋の中には夜の冷たさが残っている。
布団から身体を起こす。
眠い。
身体が重い。
昨日の訓練で疲れ切っているはずなのに、眠りは浅かった。
目を閉じるたびに、あの鉄の狭い空間が頭に浮かんだ。
暗い内部。
身体にまとわりつく機械の感触。
外から聞こえる海の音。
そして、その先にあるもの。
さとるは小さく息を吐いた。
「……今日もか」
誰に言うでもなく呟いた。
隣では、剛がまだ眠っている。
他の訓練生たちも、まだ静かだった。
あと少しすれば起床の声が響き、いつもの一日が始まる。
走る。
鍛える。
学ぶ。
海に出る。
戻る。
食事をする。
眠る。
そして、また翌朝が来る。
毎日が同じように繰り返されていた。
けれど、さとるの中では、少しずつ何かが変わっていた。
最初の頃は、ただ訓練についていくことだけで精一杯だった。
今は違う。
訓練に慣れてきたからこそ、その先にあるものを考えるようになっていた。
自分たちは、何のためにここにいるのか。
そして、その先には何が待っているのか。
答えを考えれば考えるほど、胸の奥が重くなった。
ふと、昔のことを思い出した。
まだ自分が家にいた頃。
戦争の影は、すでに日常の中にあった。
町を歩けば軍服姿の若者がいた。
新聞には戦況が載っていた。
ラジオから流れるニュースを、父親と一緒に聞いたこともある。
それでも、さとる自身は、自分がその戦争の真ん中に立つ日が来るとは思っていなかった。
家に帰れば、母親が食事を作ってくれていた。
父親が仕事から帰ってくる。
夕食の席で、その日の出来事を話す。
そんな当たり前の日々が、ずっと続くような気がしていた。
二十歳。
まだ人生は始まったばかりだと思っていた。
仕事を覚えて。
いつか家族を安心させて。
自分も家庭を持って。
子どもができて。
そんな未来が、どこかにあると思っていた。
それが、ある日突然、遠くなった。
回天の訓練へ行くことが決まった日。
家の中は、妙に静かだった。
さとるは、夕食のあと、父親の前に座っていた。
何を話せばいいのか分からなかった。
父親も、すぐには何も言わなかった。
時計の音だけが聞こえていた。
やがて父親が口を開いた。
「……決まったのか」
「うん」
「いつからだ」
「もうすぐ」
父親は頷いた。
それだけだった。
さとるは、何か言わなければと思った。
だから、
「大丈夫だから」
と言った。
口から出た言葉は、自分でも驚くほど軽かった。
父親は黙っている。
「ちゃんとやってくるよ」
もう一度言った。
すると父親が、さとるの顔を見た。
「お前は」
静かな声だった。
「本当に行きたいのか」
その瞬間、さとるの胸が詰まった。
答えられなかった。
行きたい。
そう言えばいい。
そういうものだと思っていた。
国のため。
家族のため。
自分の役目のため。
立派に務めを果たす。
そんな言葉なら、いくらでも頭に浮かんだ。
けれど、
「行きたいか」
と聞かれると、答えは違った。
行きたくない。
怖い。
死にたくない。
家にいたい。
父親と母親と、もう一度食卓を囲みたい。
友人たちと笑いたい。
戦争が終わったら何をしようかと考えたい。
そんな気持ちが、胸の奥から一気に込み上げてきた。
しかし、さとるは口にできなかった。
「……分からない」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
父親は何も責めなかった。
むしろ、少しだけ目を伏せた。
「そうか」
その一言が、さとるには苦しかった。
怒られた方がよかった。
「男なら行け」
そう言われた方が、まだ楽だったかもしれない。
そうすれば、父親の言葉に従えばいい。
自分で決めなくて済む。
けれど、父親はそう言わなかった。
しばらくして、父親が静かに言った。
「無理をするな」
さとるは顔を上げた。
「でも……」
「国のために働くことと、自分を粗末にすることは違う」
その言葉を聞いても、さとるは何も言えなかった。
父親は続けた。
「お前が何を命じられているのか、俺には全部分からん」
そして少し間を置いて、
「だが、生きて帰りたいと思うことまで、恥ずかしがる必要はない」
と言った。
さとるの胸に、その言葉が突き刺さった。
生きて帰りたい。
その言葉を聞いた瞬間、自分の本当の気持ちを見透かされたような気がした。
「……俺、帰ってきたい」
初めて、口にした。
父親は黙って頷いた。
「そう思うのが普通だ」
その夜。
さとるは布団の中で、何度も考えた。
自分は、どうすればいいのだろう。
行きたくない。
でも、行く。
怖い。
それでも行く。
家族が心配している。
それでも、自分が行けば、少しは家族の役に立てると思いたい。
そんな思いが、頭の中で何度もぶつかった。
やがて隣の部屋から声が聞こえた。
母親と父親が話している。
「……あの子、大丈夫かね」
母親の声だった。
「大丈夫だ」
父親が答える。
「でも……」
その声が少し震えていた。
「まだ二十歳なんだよ」
さとるは目を閉じた。
聞いてはいけない。
そう思った。
けれど、耳を塞ぐこともできなかった。
「二十歳だからこそ、頑張らなくちゃならんのかもしれん」
父親の声。
「そんなこと……」
母親は、それ以上言えなかった。
少しの沈黙。
そして、すすり泣く声。
さとるは布団の中で唇を噛んだ。
泣きたくなった。
「行きたくない」
そう言ってしまいたかった。
明日の朝になっても、家にいたい。
父親と話したい。
母親の作った食事を食べたい。
そんな当たり前のことが、突然、とても大切なものに思えた。
けれど同時に、別の考えも浮かんだ。
もし、自分が行かなかったら。
もし、自分だけが逃げたら。
一緒に訓練する仲間たちはどうなる。
自分だけが怖がっているわけではない。
みんな怖いはずだ。
それなのに、自分だけが帰るわけにはいかない。
そう思った。
けれど、その考えが正しいのかどうかは分からなかった。
ただ、自分自身を納得させるために、そう思おうとしていた。
翌朝。
家を出る時間になった。
玄関で母親が何度も荷物を確認していた。
「これ、入れた?」
「入れたよ」
「忘れ物はない?」
「大丈夫」
「ちゃんと食べるんだよ」
「うん」
母親は、それから何も言わなくなった。
しばらくして、目を伏せたまま、
「身体に気をつけるんだよ」
と言った。
その声を聞いた瞬間、さとるは返事ができなくなった。
「……うん」
ようやく、それだけ答えた。
玄関を出る。
一歩。
また一歩。
歩き出したところで、さとるは振り返った。
父親と母親が立っている。
母親は笑っていた。
けれど、その目には涙が浮かんでいた。
父親も笑っている。
無理に笑っていることが分かった。
その光景を見たとき、さとるは心の中で強く思った。
――帰ってこよう。
何があっても。
絶対に。
その時のさとるには、それができると思っていた。
そして今。
回天基地で訓練を続けるさとるは、その日のことを思い出していた。
「帰ってこよう」
あの日、自分はそう思った。
けれど今は、その言葉を簡単には信じられない。
訓練が厳しくなるほど、死というものが現実になっていく。
仲間と笑っていても、その笑顔の向こうに同じ恐怖がある。
誰も口にはしない。
けれど、分かっている。
自分たちは、いつまでもここにいるわけではない。
いつか命令が来る。
その時、自分はどうするのか。
逃げるのか。
拒むのか。
それとも、受け入れるのか。
考えても答えは出なかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分は、生きたい。
家に帰りたい。
父親ともう一度話したい。
母親の作った食事を食べたい。
そして、戦争が終わったら、普通の二十歳の青年として生きてみたい。
そんな願いを持つことが、悪いことなのか。
さとるには分からなかった。
その日の午後。
訓練を終えたさとるは、海辺に立っていた。
海は静かだった。
陽の光を受けて、波がきらきらと揺れている。
その海を見つめていると、ふと、港の向こうに人影が見えた。
女の子だった。
黒く長い髪。
白い肌。
こちらを向いている。
さとるは、思わず立ち止まった。
あの子だ。
以前から港で見かけていた少女。
名前はまだ知らない。
少女も、こちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬。
けれど、その少女は小さく笑った。
さとるも、ほんの少しだけ笑った。
それだけだった。
言葉は交わしていない。
それなのに、不思議だった。
さっきまで胸の中を占めていた重苦しいものが、ほんの少しだけ軽くなった。
さとるは海へ視線を戻した。
そして、初めて思った。
もし戦争が終わったら。
もし生きて帰ることができたら。
自分は、何をしたいのだろう。
その答えはまだ分からない。
けれど――
あの少女のような人と、普通に話してみたい。
海を見ながら、笑ってみたい。
そんな、ごく当たり前の未来を思い浮かべた。
それが自分に許される未来なのかどうか。
今のさとるには、まだ分からなかった。
ただ、その日からだった。
「生きて帰りたい」という気持ちが、
単なる願いではなく、
自分自身の未来を求める気持ちへと変わっていったのは




