第三話 訓練生の一日
第三話 訓練生の一日
午前五時。
まだ夜が明けきっていなかった。
兵舎の窓は暗く、外から聞こえるのは、遠くで鳴く鳥の声と、海の波が岸へ打ち寄せる音だけだった。
その静けさを切り裂くように、声が響いた。
「起床!」
一瞬で、兵舎の空気が変わった。
眠っていた若者たちが一斉に起き上がる。
布団をたたむ者。
顔を洗うために急いで外へ出る者。
寝ぼけたまま靴を探す者。
さとるも身体を起こした。
昨日の疲れが、まだ身体の奥に残っている。
肩が重い。
腕も重い。
足を動かすと、ふくらはぎに鈍い痛みが走った。
それでも、ゆっくりしている時間はない。
「早くしろ!」
誰かが叫ぶ。
さとるは布団をたたみ、身支度を整えた。
隣では剛が靴紐を結んでいる。
「眠いな……」
剛が小さな声で言った。
「昨日寝るの遅かったからだろ」
「手紙を書いてたんだよ」
「誰に?」
「母ちゃん」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
家族への手紙。
それは、この場所では珍しいことではなかった。
誰もが書いている。
誰もが家族を思っている。
そして誰もが――
手紙に書けないことを抱えている。
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外へ出ると、朝の空気は冷たかった。
吐く息が白い。
訓練生たちは整列する。
まだ空は薄暗い。
前方には海がある。
波は静かだった。
教官が点呼を取る。
名前が一人ずつ呼ばれる。
「はい!」
「はい!」
「はい!」
声が続く。
さとるも返事をする。
その声だけは、誰にも負けないように出した。
点呼が終わる。
「これより朝の体力訓練を行う!」
訓練生たちが走り始めた。
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最初はまだ身体が動いた。
しかし、時間が経つにつれて苦しくなる。
走る。
曲がる。
また走る。
呼吸が荒くなる。
隣を走る剛の顔も赤くなっていた。
「……さとる」
「何だ」
「腹減った」
「まだ朝飯食ってないからな」
「早く食いたい」
「俺もだ」
剛は息を切らしながら笑った。
しかし、その笑い声も長くは続かなかった。
「速度を落とすな!」
教官の声が飛ぶ。
二人は前を向いた。
走る。
ただ走る。
身体が重くなる。
それでも止まらない。
やがて、足が自分のものではないように感じてくる。
それでも走る。
「もう一周!」
声が響く。
訓練生たちの間に、わずかなざわめきが起きた。
誰も嬉しくない。
それでも走る。
さとるは歯を食いしばった。
汗が額から流れる。
首筋を伝う。
目に入る。
痛い。
けれど、拭うこともできない。
走り続ける。
そのとき、隣の訓練生が足をもつれさせた。
「大丈夫か!」
さとるが声をかける。
「……大丈夫!」
その男は立ち上がった。
「行け!」
教官の声。
二人は再び走り始めた。
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朝の体力訓練が終わる頃には、太陽が海の向こうから顔を出していた。
海面が金色に光る。
さとるはその光を一瞬だけ見た。
綺麗だと思った。
だが、すぐに次の指示が飛んだ。
「整列!」
訓練生たちは並ぶ。
休憩ではない。
次の訓練が始まる。
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朝食。
与えられた食事を、訓練生たちは黙々と食べた。
飯。
汁物。
簡単なおかず。
豪華な食事ではない。
けれど、身体を動かした後の飯はうまかった。
剛はものすごい勢いで食べている。
「お前、そんなに急いで食べると喉に詰まるぞ」
「時間がないんだよ」
「まだあるだろ」
「時間があるうちに食うんだ」
「何だそれ」
剛は笑った。
そのとき、向かいに座っていた別の訓練生が言った。
「故郷じゃ、今頃何食ってるかな」
誰も答えなかった。
しばらくして、別の男が言う。
「うちなら味噌汁だな」
「うちは魚だ」
「俺のところは芋だ」
少しずつ、故郷の話が始まった。
北海道。
東北。
東京。
九州。
それぞれ違う場所から来ている。
けれど、家の話をするときだけは、皆同じ顔をしていた。
懐かしそうな顔。
帰りたい顔。
さとるも母の作る味噌汁を思い出した。
温かかった。
ただ、それだけなのに。
今は、それが何より恋しい。
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朝食が終わる。
休む暇はほとんどない。
再び集合する。
今度は座学だった。
回天について学ぶ。
機体の構造。
計器。
操縦に必要な知識。
海上での判断。
訓練生たちは真剣に聞く。
教官の説明を紙に書き込む。
分からないところがあれば、あとで確認する。
「覚えることが多いな」
休憩時間、剛が言った。
「命がかかってるからな」
「そうだな」
剛は紙を見つめた。
「でも、覚えれば覚えるほど……」
言葉が止まった。
さとるが見る。
「何だ?」
「いや」
剛は首を振った。
「何でもない」
何を言いたかったのか。
さとるには分かっていた。
知識が増えるほど、回天がどういう兵器なのかが分かってしまう。
自分たちが何のために訓練しているのか。
それも、はっきりしてくる。
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午前の後半。
回天の点検訓練が始まった。
訓練生たちは機体の前に並ぶ。
鉄の機体。
冷たい表面。
さとるは手を伸ばした。
指先で触れる。
冷たい。
昨日も触った。
一昨日も触った。
それでも、慣れない。
教官から指示が出る。
訓練生たちは機体を確認していく。
目で見る。
触れる。
異常がないか確認する。
一つ一つ、慎重に。
さとるは集中していた。
回天は、人間が中に入る。
だから、機体に問題があれば、それは自分自身の命に関わる。
「確認しました!」
声を出す。
次へ進む。
また確認する。
訓練は繰り返される。
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昼。
ようやく食事の時間になった。
午前中に何度も身体を動かしたため、訓練生たちは腹を空かせていた。
剛は座るなり言った。
「今日も食うぞ」
「毎日言ってるな」
「食えるのは大事だ」
さとるは笑った。
「お前、最近そればっかりだな」
「だって腹減るんだよ」
二人は食事を始めた。
そのときだった。
少し離れた場所から、誰かの笑い声が聞こえた。
若い訓練生たちが故郷の話をしている。
一人が家に置いてきた妹の話をした。
「まだ小さいんだよ」
「何歳?」
「八歳」
「かわいいな」
「ああ」
男は笑った。
けれど、その笑顔は少し寂しかった。
さとるは何も言わなかった。
皆、それぞれに大切な人を残してきている。
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昼食後。
短い休憩。
さとるは外へ出た。
海を見る。
風が吹いている。
波は朝より少し強くなっていた。
さとるは目を細めた。
この海を越えれば、故郷がある。
そう思った。
そのときだった。
遠くの港に、人影が見えた。
女性だった。
黒い髪。
風に揺れている。
さとるの足が止まった。
――あの子だ。
昨日、港で見た少女。
薫。
まだ名前は知らない。
ただ、さとるはすぐに彼女だと分かった。
彼女は誰かと話している。
笑っている。
その声までは聞こえない。
さとるは、しばらく見ていた。
すると、薫がこちらを向いた。
目が合った。
さとるは慌てて視線を逸らした。
まただ。
なぜか、胸が落ち着かない。
「さとる!」
剛の声がした。
「何してる?」
「何も」
「そうか?」
「何もしてない」
剛は不思議そうな顔をした。
さとるは海へ視線を戻した。
剛は何も言わなかった。
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午後。
海上訓練。
訓練生たちは再び回天へ向かった。
身体はすでに疲れている。
午前中に走った。
身体を鍛えた。
座学を受けた。
点検をした。
そして、これから海へ出る。
普通なら、とっくに休んでいる時間だ。
だが、ここでは違う。
疲れている状態でも、訓練を行う。
それも訓練の一部だった。
さとるは機体へ入る。
狭い。
身体を収める。
周囲の鉄が近い。
蓋が閉まる。
暗くなる。
その瞬間、世界が小さくなる。
外の声が遠くなる。
さとるは深呼吸した。
心臓が速い。
汗が出る。
それでも、訓練を続ける。
海の揺れ。
機体の振動。
計器。
自分の呼吸。
すべてに意識を集中させる。
疲れているからこそ、集中しなければならない。
頭がぼんやりしてくる。
眠気さえ感じる。
しかし、眠ることはできない。
意識を保つ。
確認する。
判断する。
繰り返す。
「訓練生!」
外から声が入る。
「はい!」
返事をする。
声を出すことで、自分がまだここにいることを確かめる。
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海上訓練が終わった。
夕方だった。
さとるが外へ出ると、空は赤く染まっていた。
身体が重い。
腕が上がらない。
足も痛い。
それでも、空を見る。
夕焼け。
海面に光が伸びている。
「綺麗だな」
剛が隣に立った。
「……ああ」
二人とも黙っていた。
疲れている。
けれど、なぜかその景色から目を離せなかった。
剛が言った。
「こんな景色、出撃したら見られないのかな」
さとるは答えなかった。
剛も、それ以上言わなかった。
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夜。
入浴を終えた訓練生たちは、兵舎へ戻った。
身体を拭く。
服を着る。
食事をする。
昼間と同じように、皆で飯を食べる。
笑い声もある。
くだらない話もある。
誰かが故郷の話をする。
誰かが家族の話をする。
誰かが明日の訓練について愚痴を言う。
普通の若者たちだった。
それなのに。
この場所には、常に死の影があった。
誰も口にしない。
でも、誰も忘れていない。
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消灯前。
さとるは机に向かった。
家族への手紙を書く。
「父さん、母さん。
こちらは元気です。」
そこまで書いて、筆が止まった。
本当に元気なのか。
分からない。
今日も疲れた。
怖かった。
何度も家に帰りたいと思った。
でも、それは書かない。
代わりに、
「訓練を頑張っています。」
と書いた。
そして、
「身体に気をつけてください。」
と続ける。
最後に、
「また手紙を書きます。」
と書いた。
さとるは紙を見つめた。
また。
その言葉が、胸に刺さった。
また書く。
また家族に会う。
また故郷へ帰る。
そう信じなければ、手紙など書けなかった。
紙を折る。
大切にしまう。
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「消灯!」
声が響いた。
兵舎が暗くなる。
一人。
また一人。
布団に入っていく。
さとるも横になった。
身体は疲れている。
すぐに眠れるはずだった。
だが、眠れなかった。
今日一日のことを思い出す。
朝の暗い空。
走った道。
仲間の顔。
朝食。
座学。
回天。
海。
夕焼け。
そして――
港で見た少女。
黒い髪。
あの笑顔。
さとるは目を閉じた。
すると、今日の昼に目が合った瞬間を思い出した。
彼女も、自分を見ていた。
それだけなのに。
なぜか嬉しかった。
さとるは小さく笑った。
「……名前、なんていうんだろう」
誰にも聞こえない声だった。
兵舎の外では、海が鳴っている。
ざあん。
ざあん。
さとるはその音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。
明日もまた、五時に起きる。
走る。
鍛える。
学ぶ。
回天に入る。
海へ出る。
そして、夜になれば眠る。
同じ一日が、また始まる。
それが、回天訓練生の毎日だった。
二十歳の青年たちが、
未来ではなく、
「明日」を生きるために繰り返していた一日だった。




