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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第二話 回天基地

第二話 回天基地


朝が来る。


それは、さとるたちにとって当たり前のことだった。


どれほど疲れていても。


どれほど眠くても。


どれほど前日の訓練で身体が痛んでいても。


朝は必ずやってくる。


そして、朝が来れば――訓練が始まる。


「起床!」


まだ空が白み始めたばかりの時間だった。


兵舎の中に声が響く。


さとるは目を開けた。


一瞬、ここがどこなのか分からなかった。


夢を見ていた。


故郷の家だった。


母が台所に立っていて、父が新聞を読んでいる。


昔と何も変わらない朝。


「さとる、早く起きなさい」


母の声が聞こえた気がした。


けれど、目を開けるとそこには見慣れた兵舎の天井がある。


夢だった。


さとるは小さく息を吐いた。


「……母さん」


隣では、剛がまだ眠そうに身体を起こしていた。


「さとる、起きろ」


「起きてる」


「顔、寝てるぞ」


「お前もな」


剛が笑った。


「俺はいいんだよ」


「何がいいんだ」


「俺は朝が苦手なんだ」


「みんな苦手だろ」


そんなくだらない会話をしながら、二人は身支度を整えた。


ほんの短い時間。


それだけが、彼らに許された普通の時間だった。


---


基地の朝は早い。


訓練生たちは整列し、点呼を受ける。


冷たい空気の中で、全員がまっすぐ前を向いている。


二十歳前後の若者たち。


顔を見れば、まだ少年の面影が残っている者もいる。


故郷も違う。


家族構成も違う。


育った環境も違う。


それでも、今は同じ制服を着て、同じ場所に立っている。


さとるは一人一人の顔を見た。


昨日まで笑っていた仲間。


訓練で失敗して叱られていた仲間。


夜になると故郷の話をしていた仲間。


皆、普通の若者だった。


誰も最初から死ぬために生まれてきたわけではない。


そのことを、さとるは時々考えた。


人は、生まれたときから兵士なのではない。


誰かの子供として生まれ。


誰かの兄弟として育ち。


誰かと笑い。


誰かを好きになり。


いつか大人になっていく。


その途中で、戦争が彼らの人生に入り込んできた。


さとるは空を見上げた。


雲が流れていた。


その向こうには、いつもと変わらない青空がある。


「集合!」


その声で、考えが途切れた。


さとるは前を向いた。


---


その日の午前中も、訓練は続いた。


回天を扱うための基礎訓練。


機体について学ぶ時間。


操縦に関する訓練。


海上での訓練。


そして、何度も繰り返される確認。


同じことを繰り返す。


一度覚えたことでも、何度でも繰り返す。


身体が自然に動くようになるまで。


それが訓練だった。


さとるは、回天の機体を前に立っていた。


鉄の表面に手を触れる。


冷たい。


硬い。


人間の手では、どうすることもできないほど冷たい鉄だった。


「お前、また触ってるな」


剛が言った。


「……なんとなく」


「何を考えてる?」


さとるは答えなかった。


しばらくしてから、口を開いた。


「これの中に人が入るんだなって」


「当たり前だろ」


「分かってる」


さとるは機体を見つめた。


「でも、こうして外から見ると……やっぱり変な感じがする」


剛も黙った。


二人の前にあるのは、ただの鉄の機体だった。


けれど、その中に入るのは人間だ。


さとる自身だ。


剛自身だ。


そして、ここにいる仲間たちだ。


「……怖いか?」


剛が聞いた。


さとるは少し考えた。


「怖い」


正直に答えた。


「俺も」


剛も答えた。


それだけだった。


二人はそれ以上、話さなかった。


---


昼休み。


食事を終えたさとるは、基地の端にある場所で海を見ていた。


海は静かだった。


波がゆっくり岸へ向かってくる。


遠くには船が見える。


さとるは、その船を目で追った。


あの船に乗れば、ここから遠くへ行ける。


故郷へ帰れる。


そんなことを考えてしまう。


「また海を見てるな」


剛が後ろから来た。


さとるは振り返った。


「海が好きなんだよ」


「昔から?」


「ああ」


「泳ぐのか?」


「泳ぐのも好きだった」


「だった?」


さとるは笑った。


「今は泳いでる暇なんかないだろ」


「確かにな」


剛は隣に座った。


しばらく二人で海を見ていた。


「なあ、さとる」


「ん?」


「戦争が終わったら、何したい?」


突然の質問だった。


さとるは答えられなかった。


戦争が終わる。


その言葉を考えたことがなかったわけではない。


だが、具体的に考えることは避けていた。


「……分からない」


「俺は決まってる」


剛は海を見ながら言った。


「故郷に帰る」


「それだけ?」


「それだけでいい」


剛は笑った。


「家に帰って、母ちゃんの飯を食う」


さとるも笑った。


「それだけ?」


「それが一番だろ」


「……そうだな」


さとるは海を見つめた。


母の料理を思い出す。


特別な料理ではない。


味噌汁。


白いご飯。


焼いた魚。


そんな、ごく普通の食事。


けれど今は、それがたまらなく恋しかった。


「俺も帰りたい」


さとるは小さく言った。


剛は何も言わなかった。


ただ、隣に座っていた。


---


午後。


訓練が終わったあと、さとるは自分の持ち物を整理していた。


その中から、一枚の紙を取り出す。


家族から届いた手紙だった。


何度も読み返している。


紙は少し傷んでいた。


それでも、捨てることはできない。


さとるは手紙を開いた。


母からだった。


故郷のこと。


近所の人のこと。


家のこと。


そして最後に、身体を大切にするようにと書かれていた。


「……母さん」


さとるは小さく呟いた。


手紙の文字を指でなぞる。


母の顔が浮かぶ。


父の顔も。


家の縁側。


夏の日差し。


庭にあった木。


幼い頃に遊んだ道。


全部、頭の中に浮かんでくる。


ここへ来る前は、それが当たり前だった。


朝になれば家族がいる。


夜になれば帰る家がある。


腹が減れば母が食事を用意してくれる。


父が帰ってくる。


そんな毎日。


当たり前すぎて、その大切さを考えたこともなかった。


戦争が始まって初めて、さとるは気づいた。


普通の生活は、決して当たり前ではない。


---


その夜。


兵舎の中は静かだった。


何人かは家族への手紙を書いている。


誰かは布団の中で眠っている。


誰かは小さな声で故郷の話をしている。


さとるも手紙を書いていた。


机の上に紙を置く。


筆を持つ。


しばらく何も書けなかった。


何を書けばいいのか分からない。


「元気です」


そう書いた。


本当は、元気ではない。


身体は疲れている。


心も疲れている。


怖い。


死ぬのも怖い。


でも、そんなことを書けば母が心配する。


だから書けない。


「訓練は順調です」


それも書いた。


嘘ではない。


訓練は続いている。


だが、書いた文字を見ていると、自分が遠い人間になっていくような気がした。


家族に本当の気持ちを伝えられない。


「母さん、俺は怖い」


そんな言葉を書くことはできない。


「死にたくない」


それも書けない。


「帰りたい」


それさえも。


さとるは筆を置いた。


そして、窓の外を見る。


夜の海が見える。


暗い海。


その先は何も見えない。


「……俺は、いつまでここにいるんだろう」


誰にも聞こえない声だった。


---


翌朝。


また訓練が始まった。


同じ朝。


同じ声。


同じ海。


同じ回天。


さとるは機体の前に立った。


昨日と同じ鉄の塊。


昨日と同じ冷たさ。


しかし、今日は少し違って見えた。


「さとる」


剛が呼ぶ。


「なんだ?」


「昨日の手紙、書いたのか?」


「まあな」


「何て書いた?」


「言うかよ」


剛が笑う。


「なんだよ」


「お前には言わない」


「冷たいな」


二人は笑った。


その笑い声を聞いて、近くにいた仲間も笑った。


ほんの数秒。


基地の中に、普通の若者たちの笑い声が広がった。


教官の声が響くまで。


「集合!」


笑い声が止まる。


全員が整列する。


また訓練が始まる。


それが、この場所の日常だった。


---


午後。


訓練の合間に、さとるはふと港のほうを見た。


昨日の少女の姿を探してしまった。


自分でも驚いた。


何をしているんだ。


そう思う。


名前も知らない。


話したこともない。


それなのに、港へ目を向けてしまう。


しかし、その日は彼女の姿はなかった。


さとるは少しだけ残念に思った。


「……何やってるんだ、俺」


小さく笑った。


戦争の最中に、女性のことを考えている。


そんな自分が不思議だった。


けれど、それは悪いことではない気がした。


回天。


訓練。


死。


家族。


戦争。


そんな言葉ばかりの毎日の中で、あの少女の笑顔だけが違っていた。


それは、戦争とは関係のないものだった。


ただの笑顔。


ただの一瞬。


それなのに、さとるの心には残っていた。


---


夕方。


訓練が終わった。


さとるは基地を出た。


港へ向かう道を歩く。


昨日と同じ道。


昨日と同じ海。


しかし、今日は少しだけ違う。


さとるは歩きながら、何度も港のほうを見る。


彼女はいない。


それでも、足は自然と港へ向かっていた。


海風が吹く。


夕日が水面を照らしている。


その光を見ながら、さとるは思った。


――あの人に、もう一度会いたい。


名前を知りたい。


声を聞いてみたい。


どんな人なのか知りたい。


そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていく。


しかし、さとるはまだ知らなかった。


その気持ちが、やがて自分の運命を大きく変えることを。


そして、港にいる少女――薫もまた、


昨日、自分と目が合った青年のことを、


ほんの少しだけ思い出していた。


「……あの人」


薫は海を見ながら呟いた。


名前は知らない。


どこから来た人なのかも知らない。


ただ、少し寂しそうな目をしていた。


それだけだった。


海は夕日に照らされていた。


二人はまだ、言葉を交わしていない。


まだ、お互いの名前さえ知らない。


けれど――


二人の間には、


すでに小さな何かが生まれ始めていた。


それが恋なのか。


それとも、ただの偶然なのか。


このときの二人には、まだ分からなかった。


ただ、海だけが知っていた。


この出会いが、


二人の未来を変えていくことを。


そして、その未来が、


決して長くはないことを。

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