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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第一話 港で見つけた君



太平洋戦争末期。


海軍の特攻兵器「回天」の基地が置かれた町で、二十歳の青年・さとると、同じ二十歳の少女・薫は出会った。


戦争に引き裂かれる運命を知らぬまま、二人は短い恋に落ちる。


これは、未来を奪われた二人が、最後の海へ向かうまでを描いた、悲しい恋の物語である。


二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。

第一話 港で見つけた君


昭和十九年。


太平洋戦争が始まってから、三年が過ぎようとしていた。


山口県の海は、朝になると深い霧に包まれることがあった。


島影も、港も、遠くの山も見えなくなる。


ただ、白い霧の向こうから、波が岸壁にぶつかる音だけが聞こえていた。


ざあん。


ざあん。


その音を聞きながら、二十歳の青年――さとるは目を覚ました。


「起床!」


兵舎の中に、鋭い声が響いた。


一斉に布団が動く。


眠そうな顔をしている者もいた。


けれど、誰も文句は言わなかった。


さとるは身体を起こし、布団をたたんだ。


顔を洗う。


服を整える。


靴を履く。


それだけの動作を、何度繰り返しただろう。


まだ空は暗い。


窓の外には、海から流れてくる冷たい空気が漂っていた。


さとるは一瞬だけ窓の外を見た。


霧の向こうに海がある。


その海の向こうには、自分の故郷がある。


父と母が暮らす家もある。


けれど今は、そこへ帰ることはできない。


「集合!」


再び声が飛んだ。


さとるは走り出した。


---


朝の訓練は、まず身体を作るところから始まった。


走る。


腕立て伏せ。


腹筋。


屈伸。


何度も何度も身体を動かす。


足が重くなる。


呼吸が苦しくなる。


それでも止まれない。


二十歳の身体には、まだ若さがあった。


しかし、疲労は確実に積み重なっていく。


隣を走っていた剛が、息を切らしながら言った。


「……さとる」


「なんだ」


「今日……長くないか?」


「毎日言ってるだろ、それ」


「そうだったか……」


剛は苦笑した。


だが、その笑顔もすぐに消えた。


前方から教官がこちらを見ていたからだ。


「私語をするな!」


「はい!」


二人は同時に返事をした。


再び走る。


靴が地面を叩く。


規則正しい足音が、朝の基地に響いた。


やがて身体が温まった頃、訓練場所を移動する。


そこに――


回天があった。


さとるは、毎日見ているはずなのに、見るたびに胸が重くなった。


細長い鉄の機体。


人間一人が入ることを前提にした、狭い内部。


魚雷に似ている。


だが、それはただの魚雷ではない。


人間がその中に入り、自分で操縦して敵艦へ向かう。


回天。


それが、さとるたちに与えられたものだった。


「集合!」


訓練生たちが並ぶ。


教官が機体について説明する。


さとるは黙って聞いていた。


機体の構造。


操縦方法。


計器。


各部の確認。


異常がないかを確かめる手順。


一つ一つ覚えなければならない。


覚えなければ、命に関わる。


さとるは教えられたことを頭の中で繰り返した。


右。


左。


深度。


速度。


方向。


そして、自分が今どこにいるのかを常に把握する。


海の中に入れば、外の景色は見えない。


空もない。


太陽もない。


陸も見えない。


あるのは鉄の壁と、計器と、自分の呼吸だけ。


そのことを考えるだけで、胸の奥が少し苦しくなった。


「さとる!」


「はい!」


突然、名前を呼ばれた。


「今、何を考えていた?」


「訓練のことです!」


「なら答えてみろ」


教官から質問が飛んでくる。


さとるは答える。


間違える。


「違う!」


「はい!」


もう一度答える。


今度は正しい。


教官はそれ以上何も言わなかった。


さとるは汗を拭った。


まだ始まったばかりだった。


---


次の訓練は、機体に入るところから始まった。


回天の内部は、想像していた以上に狭い。


身体を入れる。


足を収める。


腰を落とす。


肩を動かす。


それだけでも、自由がきかない。


さとるは内部に入り、身体を固定する。


頭上には鉄の壁。


前方には計器。


両側にも余裕はほとんどない。


「狭いな……」


思わず口からこぼれた。


外にいた剛が笑う。


「今さらかよ」


「入るたびに思うんだ」


「俺もだ」


剛の声が外から聞こえる。


やがて、訓練が始まった。


教官から指示が出る。


さとるは一つずつ動かしていく。


急いではいけない。


焦ってはいけない。


一つの操作を間違えれば、次の操作にも影響する。


だから、確認する。


もう一度確認する。


そして動かす。


「遅い!」


「はい!」


「もう一度!」


「はい!」


何度も繰り返した。


汗が背中を流れる。


狭い空間では、その汗を拭うことすら難しい。


それでも続ける。


やり直す。


覚える。


またやり直す。


外に出たとき、さとるは大きく息を吐いた。


空気がうまい。


そんなことを思った。


たったそれだけのことが、嬉しかった。


剛が隣に座った。


「どうだった?」


「暑い」


「それだけ?」


「……狭い」


「だよな」


二人は笑った。


しかし、その笑いもすぐに消えた。


目の前には回天がある。


二人とも、それを見ていた。


訓練では何度でも出入りできる。


失敗しても、やり直せる。


けれど――


実際の出撃では、そうはいかない。


そのことを、二人とも分かっていた。


---


昼前。


今度は海上での訓練が始まった。


海は朝より穏やかだった。


回天が海面に浮かんでいる。


訓練生たちは、それぞれ決められた位置についた。


さとるも機体へ向かった。


足を踏み入れる。


身体を滑り込ませる。


狭い内部に身体を収める。


外の光が小さくなる。


やがて、蓋が閉じられた。


――暗い。


さとるは一瞬、息を止めた。


外にいたときは何でもなかった。


だが、蓋が閉じられるだけで世界が変わったように感じる。


鉄の壁。


小さな空間。


自分の呼吸。


心臓の音。


どくん。


どくん。


「……落ち着け」


自分に言い聞かせる。


訓練だ。


ただの訓練。


何度もやってきた。


そう思う。


それでも胸は速く鼓動していた。


指示が伝えられる。


さとるは計器を確認する。


そして、教えられた手順を一つずつ進めていく。


回天が動く。


海面の揺れが身体に伝わる。


外の景色は、わずかな視界からしか分からない。


海。


空。


遠くの山。


それらが少しずつ変化していく。


さとるは、教えられた通りに操縦する。


右。


左。


速度。


方向。


確認。


また確認。


訓練だからこそ、慎重にならなければならない。


一つ間違えれば、事故につながる。


やがて指示が入った。


さとるはそれに従う。


身体に力が入る。


手のひらが汗ばんでいた。


ふと、頭の中に家が浮かんだ。


母の顔。


父の声。


最後に家を出た朝。


母は何も言わず、ただ玄関先に立っていた。


「身体に気をつけるんだよ」


それだけだった。


さとるは、そのとき笑って答えた。


「分かってるよ」


あの日の母の顔が、今になって鮮明に浮かんだ。


――帰りたい。


一瞬だけ、そう思った。


けれど、すぐにその考えを打ち消す。


今は訓練中だ。


集中しなければならない。


さとるは前を見た。


そして、操作を続けた。


---


訓練が終わった。


回天から出る。


さとるは海面に顔を出した。


太陽の光が眩しかった。


大きく息を吸う。


海の匂いがした。


「終わったな」


剛が声をかけてきた。


「ああ」


「腹減った」


「お前、そればっかりだな」


「食えるうちに食っとかないとな」


剛は笑った。


さとるも少し笑った。


だが、その言葉が胸に残った。


――食えるうちに。


その言葉の意味を、二人とも本当は知っていた。


---


午後も訓練は続いた。


整備。


点検。


座学。


操縦訓練。


繰り返し。


回天について学べば学ぶほど、その兵器がどれほど特殊なものなのかが分かってくる。


そして同時に――


自分たちが何のために訓練しているのかも、分かってくる。


訓練生たちは、誰も口にしなかった。


「死にたくない」


「家に帰りたい」


「怖い」


そんな言葉を口にすれば、何かが壊れてしまう気がした。


だから皆、黙っていた。


笑うときは笑う。


食べるときは食べる。


訓練するときは訓練する。


そして夜になれば、布団の中で静かに目を閉じる。


そんな毎日だった。


---


夕方。


ようやく、その日の訓練が終わった。


さとるは基地の外へ出た。


空が赤く染まっている。


海面にも夕日の色が映っていた。


さとるは足を止めた。


海を見る。


朝から何度も見た海だった。


それなのに、夕方の海は別の場所のように見えた。


「……帰りたいな」


誰に聞かせるでもなく、さとるは呟いた。


故郷に帰りたい。


父と母に会いたい。


普通の生活をしたい。


戦争が終わったら――。


その言葉を考えかけて、さとるはやめた。


戦争が終わったら、自分は何をしているのだろう。


二十歳の自分には、本来なら未来があるはずだった。


仕事をする。


家族を持つ。


誰かを好きになる。


子供ができる。


年を取る。


そんな当たり前の未来。


けれど今の自分には、その「当たり前」が遠かった。


さとるは海から目を逸らし、町へ向かって歩き始めた。


---


町へ入ると、夕方の人々の声が聞こえた。


店先から聞こえる話し声。


子供たちの声。


魚を運ぶ音。


どこにでもある、普通の町の風景。


そこだけ時間が違っているようだった。


基地の中では、誰もが戦争のことを考えている。


けれど町の人々は、今日を生きている。


明日の食事を考え。


家族を心配し。


明日の仕事を考えている。


さとるは、その光景を見ながら歩いた。


基地の中では、いつ死ぬか分からない。


けれど町には、普通の生活が残っている。


その違いが、妙に寂しかった。


そのときだった。


港のほうから、女性の笑い声が聞こえた。


さとるは足を止めた。


振り返る。


そこに、一人の少女がいた。


年齢は、自分とそれほど変わらないように見えた。


長い黒髪。


海風に髪が揺れている。


白い肌。


そして、柔らかな笑顔。


誰かと話しながら歩いている。


さとるは、なぜか目を離せなかった。


――きれいだ。


そう思った。


ただ、それだけだった。


名前も知らない。


どこに住んでいるのかも知らない。


何をしている人なのかも知らない。


それでも、気づけば彼女を目で追っていた。


彼女が港のほうへ歩いていく。


さとるも無意識に、その姿を見ていた。


そのとき。


少女が振り返った。


目が合った。


ほんの一瞬。


さとるの心臓が、大きく鳴った。


少女は、少し驚いたような顔をした。


そして――


微笑んだ。


さとるは、慌てて目を逸らした。


顔が熱くなる。


自分でも何をしているのか分からない。


少女はそのまま歩いていった。


さとるはしばらく、その場から動けなかった。


やがて、彼女の姿が見えなくなる。


「……誰なんだ」


小さく呟いた。


答える人はいない。


ただ、海風だけが吹いていた。


---


その夜。


兵舎は静かだった。


皆、疲れ切って眠っている。


さとるも布団に入った。


目を閉じる。


今日の訓練を思い出す。


回天の内部。


暗闇。


計器。


海。


そして――


港で見た少女。


また、あの笑顔が浮かんだ。


さとるは目を開けた。


天井を見る。


「……なんで、思い出すんだ」


自分でも分からない。


名前すら知らないのに。


ただ、もう一度見たいと思った。


もう一度、あの笑顔を見たい。


けれど、話しかけることはできない。


訓練生である自分が、町の女性と親しく話すことには慎重にならなければならない。


それに――


自分には、そんな未来を考える資格などない。


さとるは目を閉じた。


明日も訓練がある。


明日も回天に乗る。


明日も海を見る。


そうして毎日が過ぎていく。


そう思っていた。


けれど――


この日、港で見た少女との出会いが、


やがて彼の人生を大きく変えることになる。


少女の名前は――


薫。


まだ、さとるはその名前を知らなかった。


そして薫もまた、


目の前を通り過ぎた青年が、


自分の人生にとって忘れられない人になることを、


まだ知らなかった。


窓の外で、海が静かに鳴っていた。


ざあん。


ざあん。


その海は、二人がまだ知らない未来を、


何も言わずに見つめていた。

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