第六十七話 残された二日間、消せない恐怖
第六十七話 残された二日間、消せない恐怖
朝の点呼を知らせる声が、船内に響いた。
さとるは、すぐに身体を起こした。
眠れなかったわけではない。けれど、深く眠ることもできなかった。
目を閉じるたび、薫の顔が浮かんだからだ。
昨日、薫と話した時間は短かった。
それでも、さとるにとっては、何よりも大切な時間だった。
薫は、自分を失うことが怖いと言葉にしなくても、その目で伝えていた。同行したいという決意も、ただ一緒に死にたいという気持ちからではなかった。
二人で生きたい。
その願いを、最後まで諦めたくないのだ。
さとるには、それが分かっていた。
だからこそ、苦しかった。
薫の気持ちを知れば知るほど、彼女を遠ざけることが正しいのか分からなくなっていく。
「……俺は、どうすればいいんだろうな」
小さくつぶやき、さとるは顔を覆った。
出撃命令は、すでに下されている。
あと二日。
二日後には、自分はここを離れ、沖縄の海へ向かうことになる。
命令が出た以上、好きなように行動することはできない。自分一人の思いで、すべてを変えられるわけでもない。
それでも、心のどこかでは、まだ信じたかった。
自分は生きて帰れるかもしれない。
薫と再び山口へ帰り、あの高台から海を眺められるかもしれない。
二人で話した未来が、まだどこかに残っているかもしれない。
さとるは、ゆっくりと立ち上がった。
恐怖は消えていなかった。
それでも、今日という一日を、ただ死を待つように過ごしたくはなかった。
*
午前の訓練は、いつも以上に厳しかった。
出撃を控えた者たちは、機材の点検や操作の確認を繰り返していた。
教官の声が響くたび、さとるは返事をし、指示された作業を進めた。
何度も練習した動作であっても、確認を怠ることはできない。
一つの間違いが、自分の命だけでなく、周囲にも影響する可能性があるからだ。
さとるは、計器を確認した。
指先で必要な箇所を確かめ、記録と照らし合わせる。
その手は、わずかに震えていた。
寒さのせいではない。
もし、これが最後の訓練になったら。
もし、次に回天へ乗るときが、本当に自分の最後になるとしたら。
そう考えると、手の震えを止められなかった。
「さとる、手が止まっているぞ」
教官の声が飛んだ。
「申し訳ありません!」
さとるは、すぐに姿勢を正した。
教官は、しばらく彼を見つめていた。
「出撃を前にして、気が緩んでいるのか」
「いいえ!」
さとるは、まっすぐ前を見た。
「もう一度、確認します」
「よし。最後まで気を抜くな」
「はい!」
教官が離れていくと、さとるはそっと息を吐いた。
気が緩んでいるわけではなかった。
むしろ、考えすぎていた。
死にたくない。
帰りたい。
薫に会いたい。
その思いが、頭から離れないのだ。
けれど、さとるはもう一度、目の前の作業に向き合った。
生きて帰りたいのなら、今できることを怠ってはいけない。
恐怖を感じているからこそ、確かめなければならないことがある。
さとるは、震える指を一度握りしめ、それから、もう一度作業を始めた。
訓練の合間、剛がさとるのそばへやって来た。
「大丈夫か」
「ああ」
「本当に?」
さとるは、少しだけ苦笑した。
「……大丈夫だって言ったら、嘘になる」
剛は、何も言わずに隣へ立った。
「怖いんだ」
さとるは、海の見える方向へ目を向けた。
「昨日より、今日のほうが怖い気がする。出撃が近づいているからなのか、それとも、もう時間がないと分かっているからなのか……自分でも分からない」
「俺も、お前の立場だったら怖いと思う」
「お前だって、出撃のことを考えているんだろう」
剛は、ゆっくりとうなずいた。
「考えているさ。でも、今のお前は、薫のこともあるからな」
その名前を聞いて、さとるは目を伏せた。
「……あいつを置いていきたくない」
「うん」
「でも、一緒に連れていくのも怖いんだ。俺が守れる保証なんてない。何かあったら、あいつを守れなかった自分を、一生許せないと思う」
剛は、さとるの顔を見つめた。
「さとる。お前は、薫を守ることばかり考えているけど、自分のことはどうなんだ」
「俺?」
「お前だって、守られていいんだぞ」
さとるは、意外なことを言われたように剛を見た。
「薫は、お前に生きていてほしいと思っている。お前が死ぬことを恐れていると知っているから、そばにいたいんだろう。お前が自分を守ろうとしているのと同じように、薫もお前を守りたいんだ」
「……分かってる」
「本当に分かっているか?」
剛の問いに、さとるは答えられなかった。
薫の気持ちは、理解しているつもりだった。
けれど、彼女の覚悟を受け入れることと、その危険を考えることは、同じではない。
「俺は、薫に生きていてほしいんだ」
さとるは、繰り返した。
「俺が帰れなかったとしても、あいつには生きていてほしい。俺のために、自分の未来まで失ってほしくない」
剛は、しばらく黙っていた。
「それなら、お前が生きて帰ることを、もっと本気で考えろよ」
さとるは顔を上げた。
「死んだあとの薫の幸せばかり考えるんじゃなくて、生きて帰ったあとの二人のことを考えろ。お前が本当に望んでいるのは、そっちだろう?」
さとるの胸が、強く締めつけられた。
生きて帰ったあとの二人。
その言葉を、どれほど待ち望んでいたことだろう。
「……ああ」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
「俺は、帰りたい」
「だったら、その気持ちを忘れるな」
剛は、さとるの肩を軽く叩いた。
「まだ出撃していない。今から自分の未来を終わったことにするなよ」
さとるは、海の向こうを見つめた。
まだ、終わっていない。
その言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
*
午後、薫は料理係の男と一緒に、船内の仕事を続けていた。
食器を片づけ、道具を整え、次の作業に必要なものを準備する。
いつもどおりに働いているつもりだった。
けれど、ふとした瞬間に手が止まる。
さとるは、今何をしているだろう。
今日も訓練をしているのだろうか。
食事を取れているだろうか。
昨夜は、眠れただろうか。
昨日の話を思い返すと、薫の胸は苦しくなった。
さとるは、怖いと言った。
死ぬことが怖い。
自分を失うことが怖い。
自分が傷つけば、きっと自分を許せない。
その言葉は、薫の心に深く残っていた。
彼は、自分を守りたいと思っている。
けれど、それと同じくらい、自分も彼を守りたいと思っていることを、まだ十分には伝えられていないのかもしれない。
薫は、作業台に手を置いた。
もし、自分がさとるの立場だったら。
愛する人を危険な場所に残していくことになったら。
その人が生きていてくれることを願いながら、自分だけが戻れないかもしれない場所へ向かうことになったら。
自分も、きっと恐怖に押しつぶされそうになるだろう。
相手に幸せになってほしいと願うだろう。
そして、最後まで守りたいと思うだろう。
さとるの気持ちは、分かる。
だからこそ、薫は彼を責めたくなかった。
彼が自分を遠ざけようとするのは、愛していないからではない。
愛しているからだ。
自分が傷つくところを見たくないからだ。
薫は、その思いを受け止めたいと思った。
しかし、それでも、自分の決意を捨てることはできなかった。
彼と一緒に生きたい。
彼が帰りたいと願っているなら、自分もその未来を望みたい。
彼が恐怖を抱えているなら、その気持ちから目を背けたくない。
薫は、胸元にそっと手を当てた。
自分の命が大切ではないわけではない。
死ぬことを望んでいるわけでもない。
むしろ、生きたい。
さとると一緒に、生きたいのだ。
だからこそ、彼のいない未来を、最初から受け入れることはできなかった。
「薫さん」
料理係の男の声で、薫は我に返った。
男は、彼女の手元を見ていた。
「少し休んだほうがいい。さっきから、考え込んでいるようだから」
薫は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝らなくていいですよ。あなたも、普通の人間なんですから。心配にもなるし、怖くもなるでしょう」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
男は、少し間を置いてから言った。
「さとるさんも、きっと同じですよ。あなたの前では強くあろうとしているのかもしれませんが、あの人だって怖いはずです」
薫の目が揺れた。
「だから、二人で話す時間ができたら、あなたの気持ちだけでなく、あの人の気持ちも聞いてあげてください。二人とも、相手を思うあまり、本当の気持ちを隠してしまっているように見えますから」
薫は、深くうなずいた。
その言葉は、今の自分に必要なものだった。
自分の決意を伝えることだけに夢中になってはいけない。
さとるが何を恐れているのか。
何を失いたくないのか。
何を望んでいるのか。
そのすべてを聞いたうえで、自分の気持ちを伝えなければならない。
薫は、再び作業に戻った。
今度は、さっきよりも少しだけ落ち着いていた。
夕方、剛が薫のもとへやって来た。
「薫、明日の朝、少しだけ時間を作れそうだ」
薫は、驚いたように顔を上げた。
「さとるも、お前と話したいと言っている。明日は出撃準備の確認があるから、長い時間は無理だけどな」
薫は、何度もうなずいた。
剛は、彼女の表情を見ながら続けた。
「ただ、薫。ひとつだけ、覚えておいてほしい」
薫は、じっと剛を見つめた。
「さとるは、お前を連れていきたくないと言っている。それは、お前の覚悟を軽く考えているからじゃない。お前を失うことが、本当に怖いんだ」
薫は、静かにうなずいた。
「だから、明日は、さとるの気持ちも聞いてやってくれ。お前の決意を変えろと言っているわけじゃない。ただ、二人とも相手のことを思っているのに、苦しい思いばかりしているのは、見ていてつらいんだ」
薫は、胸に手を当てた。
それから、さとるのいる方向へ手を伸ばした。
剛は、その仕草を見て、うなずいた。
「……分かった。明日の朝、知らせる」
剛が去ったあと、薫はしばらくその場に立っていた。
明日、さとると話せる。
残された時間は、あと二日しかない。
その時間が、何を変えられるのかは分からない。
けれど、もう一度、彼の気持ちを聞きたい。
そして、自分の思いも、きちんと伝えたい。
薫は、心の中で何度も言葉を組み立てた。
あなたを失いたくない。
あなたに生きていてほしい。
そして、あなたと生きていたい。
その三つの願いは、どれも同じくらい強かった。
*
夜、さとるは一人で海を見つめていた。
明日になれば、出撃まであと一日となる。
その事実を考えるだけで、胸の奥が重くなった。
けれど、今日の訓練を終えた今、さとるは昨日とは少し違う気持ちになっていた。
死ぬことが怖い。
それは変わらない。
帰りたいという願いも、変わらない。
けれど、自分はまだ、生きるためにできることを考えていたい。
訓練を怠らないこと。
命令された確認を確実に行うこと。
自分の恐怖から目を背けないこと。
そして、薫と話すこと。
彼女の決意を聞き、自分の願いを伝えること。
さとるは、海の向こうに目を凝らした。
この海の先に、何が待っているのかは分からない。
自分が帰ってこられるのかも、分からない。
それでも、薫と過ごした日々は、決して消えない。
高台で見た夕日。
二人で交わした約束。
薫の笑顔。
自分の手を握ってくれた温かさ。
そのすべてが、今の自分を支えていた。
「……薫」
さとるは、静かに名前を呼んだ。
「俺は、まだ生きたい」
それは、誰に聞かせるためでもない、自分自身への言葉だった。
「お前と一緒に、生きたいんだ」
その願いを口にした瞬間、目の奥が熱くなった。
さとるは、涙をぬぐわなかった。
泣くことを恥ずかしいとは思わなかった。
怖いのだから、泣いてもいい。
帰りたいのだから、願ってもいい。
自分は、命を惜しんでいる。
それは、恥ずべきことではないはずだった。
遠くで、船内の人々が動く音がした。
明日も訓練がある。
明後日には、出撃の日が来る。
時間は止まらない。
それでも、さとるは、まだ諦めたくなかった。
*
同じ夜、薫もまた、静かな場所で目を閉じていた。
明日、さとるに会ったら、きちんと伝えよう。
自分は、あなたと死にたいのではない。
あなたと生きたいのだと。
あなたが帰りたいと願うなら、私も一緒に帰りたい。
あなたが未来を諦めてしまいそうなら、私はその未来を信じていたい。
けれど、それだけではない。
自分自身も、さとるの隣で生きる未来を望んでいる。
彼がいなくなったあと、思い出だけを抱えて生きるのではなく、彼と一緒に年を重ねたい。
それが、薫の願いだった。
怖さは、消えない。
明日になれば、また別の不安が生まれるかもしれない。
それでも、薫は決意を手放さなかった。
ただし、さとるの気持ちを無視してまで、自分の願いを押し通したいわけではなかった。
二人で生きるために、二人で考えたい。
その思いを胸に、薫は静かに息を吐いた。
あと二日。
残された時間は、あまりにも短い。
けれど、まだ二人には、互いの気持ちを伝える時間が残されていた。
その時間の中で、二人は何を選ぶのだろう。
海は、夜の闇の中で静かに揺れていた。
そして、出撃の日は、少しずつ近づいていた。
*




