第六十六話 あなたと生きるために
第六十六話 あなたと生きるために
翌朝、さとるは目を覚ますと、すぐに窓の外を見た。
空は薄い灰色だった。
夜明けの光が、海の向こうから少しずつ広がっている。波は静かに寄せては返し、まるで何事も起きていないかのように、いつもの姿を見せていた。
けれど、さとるにとって、今日は昨日までと同じ一日ではなかった。
出撃まで、あと二日。
昨日までは「三日後」という言葉だったものが、もう「明後日」になっている。
時間は、何も待ってはくれない。
さとるは、ゆっくりと手を握りしめた。
昨夜、何度も考えた。
薫のこと。
自分の命のこと。
二人で望んだ未来のこと。
薫が同行したいと言った理由は、分かっているつもりだった。
彼女は、ただ自分と離れたくないだけではない。
自分が死ぬかもしれないと知っても、何もできずに遠くで待つことを選びたくないのだ。
自分が生きたいと願っていることを知っているから、一緒に生きる道を探したいのだ。
それでも、さとるの心には、恐怖があった。
もし薫が同行して、彼女まで危険にさらされたら。
もし、自分の目の前で薫が傷ついたら。
もし、守ろうとした人を、自分の手で失うことになったら。
考えるだけで、息が詰まりそうになった。
「……俺は、どうすればいいんだ」
答えは出なかった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
自分は薫を愛している。
だから、彼女に生きていてほしい。
そして、本当は、自分も生きていたい。
その二つの願いは、どちらも嘘ではなかった。
*
午前の訓練が始まると、さとるは気持ちを切り替えようとした。
指示を聞き、必要な確認を行い、決められた手順を一つずつこなす。
訓練の最中、教官の声が響いた。
「出撃する者は、最後まで気を抜くな。確認を怠れば、自分だけでなく、周囲にも影響が出る。命令された手順を確実に守れ」
さとるは、返事をした。
「はい!」
声は、いつもと変わらなかった。
だが、その言葉は胸の奥に重く残った。
最後まで気を抜くな。
命令された手順を守れ。
それは訓練を受ける者として、当然のことだった。
けれど、さとるは知っていた。
どれほど手順を守っても、どれほど訓練を積んでも、必ず生きて帰れるわけではない。
機体の不具合。
敵の攻撃。
海の中で起こる、予測できない事態。
人間の力ではどうにもならないことがある。
それでも、さとるは一つ一つの確認を丁寧に行った。
生きて帰るために。
薫のもとへ戻るために。
今まで、訓練は命令を果たすためのものだと思っていた。
もちろん、今も命令から逃れることはできない。
だが、これからは違う思いもあった。
自分の命を、ただ失うために使いたくない。
まだ生きたい。
自分が生きるためにできることがあるなら、最後まで考えたい。
さとるは、機材から手を離し、深く息を吸った。
怖さは消えなかった。
それでも、恐怖にすべてを支配されるわけにはいかなかった。
昼近く、剛がさとるのところへやって来た。
「さとる、少し話せるか」
「ああ」
二人は人目の少ない場所へ移動した。
剛は周囲を確かめてから、声を落とした。
「薫と話す時間を、もう一度作れないか、料理係と相談している」
さとるは、顔を上げた。
「薫に会えるのか」
「まだ確実じゃない。お前の訓練の予定もあるし、薫も今の立場を崩すわけにはいかないからな。ただ、短い時間なら何とかできるかもしれない」
「……頼む」
さとるは、すぐに答えた。
「もう一度、話したいんだ」
剛は、さとるの顔を見た。
「昨日、あれだけ話したのにか」
「昨日は、俺が自分の気持ちを伝えるだけで精いっぱいだった。薫の話を、ちゃんと聞けていなかった気がする」
「同行したい理由なら、聞いたんだろう?」
「ああ。でも、俺はずっと駄目だと言っていた。薫が何を考えているのか、分かっているつもりで、最後まで聞こうとしていなかった」
さとるは、視線を落とした。
「俺は、あいつを守りたい。でも、俺が守りたいと思っているからって、薫の気持ちまで決めていいわけじゃないんだよな」
剛は、少し驚いたようにさとるを見つめた。
昨日までのさとるは、薫を危険から遠ざけることだけを考えていた。
それが間違っているわけではない。
しかし、今のさとるは、自分の恐怖だけで薫の決意を退けてはいけないと考え始めていた。
「……そうだな」
剛は、静かにうなずいた。
「ただし、薫の気持ちを聞くことと、危険を承知で何でも認めることは違う。お前も、自分の気持ちを正直に話せばいい」
「分かってる」
「それと、さとる」
「何だ?」
「お前自身のことも、ちゃんと話せよ。薫を守りたいという気持ちだけじゃなくて、本当はどうしたいのか」
さとるは、しばらく黙っていた。
そして、小さな声で答えた。
「……俺は、薫と生きたい」
「うん」
「出撃命令が出たからって、死ぬことを受け入れたわけじゃない。怖いし、帰りたい。薫と一緒に、これからの人生を生きたいんだ」
口にするたび、その願いが胸の奥に深く刻まれていくようだった。
「だから、薫にも生きていてほしい。俺のことを待って、いつまでも悲しんでほしいわけじゃない。でも……本当は、俺が帰って、あいつと一緒に幸せになりたいんだ」
剛は、さとるの肩を軽く叩いた。
「だったら、その気持ちを薫に伝えろ。お前が何を恐れているのかも、隠さずに」
「……ああ」
「時間が作れたら知らせる」
剛はそう言って、その場を離れた。
さとるは、その背中を見送りながら、胸の前で手を握った。
薫と話したい。
別れを告げるためだけではない。
自分たちが望んでいる未来を、もう一度、二人で考えるために。
*
そのころ、薫は料理係の男の手伝いを終え、道具を片づけていた。
男は、しばらく薫の様子を見ていたが、やがて声をかけた。
「薫さん」
薫は振り返った。
人がいないことを確かめ、男は続けた。
「昨日、さとるさんと話したそうですね」
薫は、静かにうなずいた。
「同行したいという気持ちは、変わっていませんか」
薫は、迷うことなくうなずいた。
男は、困ったように息を吐いた。
「あなたが、どれほどの覚悟でここまで来たのかは分かっています。簡単な気持ちで、こんなことをしているわけじゃないということも」
薫は、男を見つめた。
「ですが、さとるさんが心配していることも、考えてあげてください。あなたが傷つけば、あの人は自分を責めるでしょう」
薫の目が揺れた。
それは、昨日から何度も考えてきたことだった。
自分が危険にさらされれば、さとるを苦しめるかもしれない。
自分を守ろうとするあまり、彼が冷静な判断をできなくなるかもしれない。
その可能性を、薫は否定できなかった。
男は、声を和らげた。
「私は、あなたに諦めろと言いたいわけではありません。ただ、あなたが本当に望んでいることを、もう一度考えてほしいんです」
薫は、胸に手を当てた。
そして、さとるのいる方向へ目を向けた。
男は、その仕草を見て、静かにうなずいた。
「……あの人と、生きたいんですね」
薫は、強くうなずいた。
男は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐いた。
「分かりました。ただ、どう動くにしても、焦らないでください。あなたが無事でいることも、大切なことですから」
薫は、もう一度うなずいた。
彼女は、自分の命が惜しくないわけではなかった。
本当は、生きていたい。
さとると一緒に生きて、戦争が終わったあとの世界を見てみたい。
けれど、ただ安全な場所に残り、彼の帰りを待つことが、自分にとって正しい選択なのか分からなかった。
さとるは、生きたいと願っている。
その願いを、薫も同じように願っている。
だからこそ、彼の決意をただ受け入れるのではなく、自分の思いも伝えたかった。
薫は、男に向かって深く頭を下げた。
声には出せなくても、感謝の気持ちは伝えられる。
男は、何も言わずにうなずいた。
午後の仕事が終わるころ、剛が薫のもとを訪れた。
周囲に人がいないことを確かめ、剛は小声で告げた。
「薫、さとるがもう一度話したいと言っている」
薫の目が大きく開いた。
「今日、少しだけ時間を作れそうだ。長くは話せないけど、二人で話せるようにする」
薫は、何度もうなずいた。
剛は、彼女の顔を見つめた。
「薫。さとるは、お前を危険な目に遭わせたくないんだ。それは、分かっているよな」
薫はうなずいた。
「それでも、お前は一緒に行きたいんだな」
薫は、今度も迷わずうなずいた。
剛は、複雑な表情を浮かべた。
「……お前も、怖いだろう」
その問いに、薫は少しだけ動きを止めた。
怖くないわけがなかった。
船の上で、誰かに正体を知られることが怖い。
沖縄の海で何が起きるのか分からないことも怖い。
そして、何よりも、さとるを失うことが怖かった。
薫は、自分の胸に手を当てた。
それから、さとるのいる方向へ手を伸ばした。
最後に、両手をそっと重ねた。
剛には、その意味が分かった。
怖い。
それでも、一緒に生きたい。
「……そうか」
剛は、深くうなずいた。
「分かった。俺も、できることを考える。ただ、何があっても、無理だけはするな。お前が倒れたら、さとるも俺も、きっと苦しむ」
薫は、真剣な表情でうなずいた。
剛は、それ以上何も言わずに、その場を離れた。
薫は、彼の背中を見送りながら、胸の前で手を握りしめた。
今日、もう一度、さとると話せる。
今度こそ、伝えよう。
自分がなぜ、ここまで来たのか。
何を恐れ、何を願っているのか。
そして、何よりも。
あなたと生きたいのだということを。
*
夕方、約束の時間が近づいた。
さとるは、落ち着かない気持ちを抱えながら、人目の少ない場所へ向かった。
昨日と同じように、周囲の気配を確かめる。
足音が聞こえるたび、誰かに見つかったのではないかと身構えた。
やがて、廊下の向こうから薫が現れた。
帽子を深くかぶり、男の服を着ている。
それでも、さとるにはすぐに分かった。
薫だった。
自分が会いたかった人だった。
二人は、しばらく何も言わずに見つめ合った。
昨日、別れたばかりなのに、何日も会えなかったような気がした。
さとるは、先に口を開いた。
「……来てくれて、ありがとう」
薫は、小さくうなずいた。
「昨日は、ごめん」
薫が不思議そうに首を傾ける。
「俺、自分の気持ちばかり話していた。お前が何を考えているのか、ちゃんと聞こうとしていなかった」
さとるは、薫を見つめた。
「だから、今日は聞きたい。お前がどうして、そこまでして俺と一緒に行こうとするのか」
薫は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
次に、さとるの胸へ手を伸ばした。
さとるは、その仕草を見つめた。
薫は、さらに、二人の手を重ねた。
それから、遠くの海を指さした。
最後に、もう一度、さとるの手を握った。
さとるは、息を止めた。
薫の伝えたいことが、少しずつ胸に届いてくる。
あなたが生きたいと願っていることを知っている。
私も、あなたと生きたい。
だから、一緒に行きたい。
最後の瞬間を迎えるためではなく、生きる道を探すために。
さとるは、目を伏せた。
「……俺は、お前を危険な目に遭わせたくない」
薫は、うなずいた。
「もし、お前が傷ついたら、俺はきっと、自分を許せない。お前を守ろうとして、何もできなかったら……」
さとるの声が震えた。
「俺は、自分がどうなってもいいなんて思っていない。お前と生きたい。だから、お前にも生きていてほしいんだ」
薫は、彼の手を強く握った。
さとるは、続けた。
「でも、俺が一緒に行くなと言えば、お前は俺の気持ちを無視されたと思うかもしれない。それも分かっている」
薫は、静かに首を横に振った。
さとるは、彼女を見つめた。
「……それでも、俺は怖いんだ」
初めて、はっきりと口にした。
「自分が死ぬことも怖い。でも、それ以上に、お前を失うことが怖い。お前を守りたいと思っているのに、俺が原因でお前を失ったら……そんなこと、考えたくもない」
薫の目から、涙がこぼれた。
さとるも、涙をこらえられなかった。
「俺は、強い人間じゃない。死ぬ覚悟ができているわけでもない。できることなら、今すぐ逃げ出したい。お前の手を取って、どこかへ行きたい」
さとるは、薫の手を両手で包んだ。
「でも、どうしたらいいのか分からないんだ。お前を守るために遠ざけたい。でも、本当は、そばにいてほしい。……俺は、どうしたらいいんだろうな」
薫は、首を横に振った。
答えを知らないのは、彼女も同じだった。
それでも、薫はさとるの手を離さなかった。
彼女は、自分の胸に手を当てた。
次に、さとるの胸に触れた。
そして、二人の手を重ねた。
その仕草は、昨日と同じだった。
けれど、今日は少し違っていた。
薫は、ただ同行したいと言っているのではない。
さとるの恐怖を否定せず、自分の恐怖も隠さず、それでも二人で生きる道を探したいと伝えていた。
さとるは、彼女の目を見つめた。
その目には、涙があった。
怖くないわけではない。
何も失わないと信じているわけでもない。
それでも、彼女はここにいる。
自分の意志で、ここにいるのだ。
さとるは、薫の手を額に押し当てた。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
薫は、首を横に振った。
礼を言ってほしいわけではなかった。
ただ、分かってほしかった。
自分も、あなたと同じように生きたいのだと。
遠くから、剛の足音が聞こえた。
二人は、ゆっくりと手を離した。
さとるは、薫の顔を見つめた。
「……まだ、答えは出せない」
薫は、うなずいた。
「お前を連れていくことが正しいのか、今も分からない。でも、お前の気持ちを聞かずに、俺だけで決めることはしない」
薫の目に、わずかな安堵が浮かんだ。
さとるは続けた。
「ただ、約束してほしい。無茶はしないでくれ。自分の命を大事にしてほしい」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
「俺も、できる限り、生きて帰るために考える。死ぬことを前提にするんじゃなくて、どうすれば生きて帰れるのかを考える」
その言葉を口にしたとき、さとるは自分の中に小さな変化が生まれたことに気づいた。
出撃命令が下された瞬間から、自分は帰れないかもしれないという思いに囚われていた。
けれど、今は違う。
帰れない可能性があることは、変わらない。
恐怖が消えたわけでもない。
それでも、自分は生きて帰りたいと、もう一度はっきり思えた。
薫と生きたい。
その願いを、最後まで手放したくなかった。
薫は、さとるの手を握り、強くうなずいた。
二人の間に、言葉にはならない思いが流れた。
答えは、まだ出ていない。
けれど、互いが何を恐れ、何を望んでいるのか、少しだけ分かり始めていた。
剛が近づいてきた。
「時間だ。二人とも、ここを離れよう」
さとるは、うなずいた。
薫は帽子を直し、声を出せない男の顔に戻った。
別れる直前、さとるは小さな声で言った。
「……また、話そう」
薫は、目を見つめ返し、静かにうなずいた。
その一瞬だけ、二人は未来を信じることができた。
*
夜、さとるは寝床に入っても、すぐには眠らなかった。
薫と話した時間を、何度も思い返していた。
自分は、まだ答えを出せていない。
薫を同行させることが正しいのかも分からない。
けれど、もう一つだけ、確かなことがあった。
自分は、死ぬためだけに出撃するのではない。
生きたいという願いを抱えたまま、命令に向き合うのだ。
もし、わずかでも生きて帰る可能性があるのなら、その可能性を捨てたくない。
薫と一緒に生きる未来を、諦めたくない。
さとるは、目を閉じた。
その胸の中には、恐怖があった。
それでも、その恐怖の奥に、かすかな希望が残っていた。
一方、薫もまた、夜の静けさの中で、さとるの言葉を思い返していた。
さとるは、自分を遠ざけたいのではない。
失いたくないからこそ、必死に守ろうとしている。
その気持ちが分かったから、薫は少しだけ、彼の恐怖を理解できた気がした。
それでも、同行したいという決意は変わらない。
ただし、これからは、さとるを困らせるために自分の思いを押し通すのではなく、二人で生きるために、何ができるのかを考えたい。
彼を守るために。
自分自身を守るために。
二人の未来を守るために。
残された時間は、あと二日。
その短い時間の中で、二人は何度も迷い、何度も話し合うことになるだろう。
けれど、今夜だけは、二人とも同じ願いを胸に抱いていた。
――生きたい。
――あなたと、生きて帰りたい。
夜の海は、暗闇の中で静かに揺れていた。
その海へ向かう日が、刻一刻と近づいていた。
*




