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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第六十五話 譲れない覚悟、守りたい命

第六十五話 譲れない覚悟、守りたい命


夜が明ける前から、さとるは目を覚ましていた。


眠れなかったのではない。


目を閉じるたびに、薫の顔が浮かんできて、どうしても眠りに戻れなかったのだ。


涙をこらえながら、自分を見つめていた薫。


自分が帰れないかもしれないと告げても、逃げることなく、そばにいた薫。


そして、何度「駄目だ」と言っても、首を横に振った薫。


さとるは、毛布の中で両手を握りしめた。


「……どうして、そこまでして」


小さくつぶやいた声は、誰にも届かなかった。


薫が自分を愛してくれていることは分かっている。


その気持ちを疑ったことなど、一度もなかった。


けれど、まさか自分を追って沖縄まで来るとは思わなかった。ましてや、男のふりをして船に乗り、声を出せないふりまでして、危険な場所に身を置くなど、想像もしていなかった。


そこまでして会いに来てくれたことが、嬉しくないはずはなかった。


本当は、抱きしめたかった。


もう離したくないと思った。


あのまま二人でどこかへ逃げられたら、どれほどよかっただろう。


軍服を脱ぎ、命令も階級も忘れて、薫の手を取って走り出せたら。


誰も二人を知らない町で、朝を迎えられたら。


そんなことを考える自分がいた。


けれど、現実は違う。


さとるの名前は、すでに出撃する者として呼ばれていた。


三日後には、ここを離れる。


命令に逆らえば、どうなるか分からない。自分だけの問題では済まないかもしれない。剛や、世話になった者たちまで巻き込むことになる。


そして何より、薫を危険にさらすことになる。


さとるは、ゆっくりと起き上がった。


自分は薫を愛している。


だからこそ、彼女を連れていくことなどできなかった。


自分が帰れないかもしれない場所へ、薫まで連れていく。


そんなことをすれば、もし彼女が傷ついたとき、自分は一生自分を許せないだろう。


「俺は……お前に生きていてほしいんだ」


誰もいない場所で、さとるはつぶやいた。


それは、薫に伝えた言葉であり、自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。


     *


朝の点呼が終わると、兵士たちはそれぞれの持ち場へ向かった。


出撃が近づくにつれ、訓練や点検の空気は以前にも増して厳しくなっていた。


機材の確認。

必要な物資の点検。

操縦に関する最終確認。


誰もが命令に従い、決められた手順を繰り返していた。


さとるも、いつもどおりに動いた。


計器を確認し、指示された項目を確かめ、記録に目を通す。


手順を間違えることはなかった。


けれど、心のどこかでは、ずっと薫のことを考えていた。


今、薫は何をしているだろう。


自分が同行を拒んだことを、怒っているだろうか。


それとも、まだ自分と一緒に行く方法を考えているのだろうか。


そう思うたび、さとるの胸は苦しくなった。


薫の気持ちを無視したいわけではない。


彼女が自分の意志で決めたことを、軽く考えているわけでもない。


ただ、失いたくなかった。


この戦争で、何もかもを奪われたくなかった。


二十歳になったばかりの自分には、本当なら、これから知るはずだったことがたくさんあった。


働くこと。

暮らすこと。

誰かと家族になること。

年を重ねること。


薫と一緒に、そうした当たり前の時間を生きてみたかった。


それなのに、今は自分の命がいつまであるのかさえ、分からない。


「さとる、そこの確認は終わったか」


上官の声に、さとるは我に返った。


「はい。確認しました」


「なら、次の項目へ進め」


「はい」


さとるは返事をして、再び作業に戻った。


今は、命令に従うしかない。


けれど、心まで何も感じない兵士になったわけではなかった。


怖い。


帰りたい。


薫に会いたい。


その思いを抱えたまま、さとるは目の前の作業を続けた。


同じころ、薫もまた、じっとしてはいられなかった。


料理係の男から、船内の仕事を頼まれていた。


人目につかないように働き、余計なことを話さず、誰かに疑われないようにする。


それが、今の薫にできることだった。


けれど、手を動かしていても、心はさとるのもとへ向かってしまう。


昨日のさとるの表情が、頭から離れなかった。


「俺は、お前に死んでほしくない」


その言葉を思い出すたび、薫の胸が痛んだ。


さとるは、自分を守ろうとしてくれている。


自分が危険な目に遭わないように、必死で遠ざけようとしている。


それは、よく分かっていた。


だからこそ、簡単には引き下がれなかった。


もし、さとるが自分を愛していなかったのなら。


もし、さとるが死を恐れず、自分の命などどうでもいいと思っていたのなら。


薫は、ここまで来なかったかもしれない。


けれど、さとるは違った。


彼は、生きたいと言った。


自分と暮らしたいと言った。


戦争が終わったら、二人で海を見に行きたいと願っていた。


それなのに、出撃命令が下された途端、自分が帰れない未来ばかりを考え、薫に別の人生を歩ませようとしている。


まるで、自分の未来には、もう何も残されていないと決めてしまったかのように。


薫は、手を止めた。


違う。


まだ、終わっていない。


出撃命令が出たからといって、さとるが必ず死ぬと決まったわけではない。


帰れない可能性があるからといって、帰ることを諦めなければならないわけでもない。


もちろん、そんな簡単なことではない。


自分が一緒に行ったからといって、何かを変えられる保証などない。


それでも、薫はさとるに、生きることを諦めてほしくなかった。


そして、自分も諦めたくなかった。


薫は、作業台の端に置かれた布を整えた。


人前では、声を出せないふりを続けなければならない。


だからこそ、言葉にできない思いが、胸の中に積もっていく。


さとるに伝えたい。


あなたと死にたいのではない。


あなたと生きたいのだと。


一緒に出撃するという決意は、ただ最後までそばにいたいという気持ちだけではない。


あなたが帰りたいと願っているのなら、その帰る場所を、私も一緒に守りたい。


あなたが生きる道を探すのなら、私もその道を探したい。


一人で恐怖を抱え込まないでほしい。


一人で別れを決めないでほしい。


薫は、胸の奥でその言葉を繰り返した。


けれど、どうすればさとるに分かってもらえるのか、まだ答えは見つからなかった。


     *


昼過ぎ、剛は料理係の男と人目につかない場所で話をしていた。


「薫は、本気だ」


剛が言うと、料理係の男は深く息を吐いた。


「昨日の様子を見ていても、それは分かる。あの子は、もう簡単に引き返すつもりはないんだろう」


「でも、さとるは絶対に反対する。あいつは薫を危険な場所へ連れていきたくないんだ」


「当然だろうな。好きな人を、死ぬかもしれない場所へ連れていきたい人間なんていない」


剛はうなずいた。


「俺だって、二人とも助かってほしい。さとるが帰ってきて、薫と一緒に生きられたら、それが一番いい」


「だったら、二人が生きる可能性を考えないといけないな」


料理係の男は、周囲を確かめてから声を落とした。


「ただし、感情だけで動くわけにはいかない。今は出撃準備の最中だ。勝手な行動をすれば、薫だけじゃなく、さとるやお前まで危険にさらすことになる」


「分かっている」


「薫の正体が知られれば、ここにいられなくなる可能性もある。今まで何とか乗り越えてきたが、これ以上、何も考えずに動くわけにはいかない」


剛は、黙って聞いていた。


薫の覚悟は本物だ。


けれど、覚悟があることと、安全に行動できることは違う。


それは、剛にもよく分かっていた。


「まずは、薫にもう一度、さとるの気持ちを伝えたほうがいいかもしれない」


料理係の男が言った。


「さとるがなぜ反対しているのか。自分を守ろうとしているだけじゃなく、薫自身に生きていてほしいと思っていることをな」


「それでも、薫が引かなかったら?」


「そのときは、二人が何を望んでいるのか、きちんと確かめるしかない。ただ、どんなことがあっても、無謀な行動はさせられない」


剛は、うつむいた。


二人を助けたい。


けれど、何が二人を助けることになるのか、まだ分からなかった。


さとるの願いを守るためには、薫を遠ざけるべきなのか。


薫の決意を尊重するためには、二人が一緒にいられる方法を探すべきなのか。


その答えは、簡単には出なかった。


「……俺は、あいつらに生きてほしいんだ」


剛がつぶやいた。


「戦争のために出会ったんじゃない。二人とも、ただ普通に生きたかっただけなんだ。なのに、どうして、こんなことにならなきゃいけないんだ」


料理係の男は、何も言わなかった。


彼もまた、同じ思いを抱えていたからだ


夕方、訓練を終えたさとるは、船の外が見える場所で立ち止まった。


海は、静かだった。


遠くまで広がる水面を見つめていると、山口で薫と過ごした時間がよみがえった。


高台で並んで座ったこと。


夕暮れの海を見ながら、戦争が終わったら何をしたいか話したこと。


薫が笑うと、自分まで笑ってしまったこと。


あのころは、未来が遠くにあるものだと思っていた。


いつか戦争が終わる。


いつか二人で暮らせる。


いつか、今日のことを思い出して笑える日が来る。


そう信じていた。


けれど、今は、その「いつか」が手の届かない場所へ遠ざかっていく。


さとるは、胸元に手を当てた。


ここには、まだ生きたいという思いがある。


薫と一緒にいたいという願いがある。


それを捨ててしまえば、命令に従うことだけが残る。


だが、自分は、ただ命令を果たすためだけに生きてきたわけではない。


二十年という短い人生の中で、薫に出会った。


誰かを愛することを知った。


自分が帰りたい場所を知った。


だからこそ、帰りたかった。


「……薫」


名を呼んでも、返事はない。


それでも、さとるは心の中で語りかけた。


お前に生きていてほしい。


俺のいない未来でも、生きていてほしい。


そう願うのは、本当だ。


けれど、本当は。


俺も、お前のいない未来を生きたくない。


お前が幸せになるところを、俺自身が見たい。


お前と一緒に、幸せになりたい。


その思いを、さとるは初めて、心の中で正直に認めた。


自分が薫を遠ざけようとしているのは、彼女を守りたいからだけではなかった。


自分が失うことに耐えられないからだ。


もし薫を連れていき、彼女が傷ついたら。


もし自分のせいで、彼女の命まで失われたら。


その恐怖が、さとるを必死に彼女から遠ざけようとしていた。


それでも、薫の覚悟を聞いた今、さとるは考えずにはいられなかった。


彼女は、自分のためだけにここへ来たのではない。


自分と生きる未来を、諦めたくないから来たのだ。


その思いを、どうして自分だけの判断で退けられるのだろう。


さとるは、海を見つめたまま、長い息を吐いた。


答えは、まだ出ない。


それでも、もう一度、薫と話さなければならない。


彼女の覚悟を聞くために。


そして、自分の本当の願いを伝えるために。


     *


夜になり、薫は寝床に入っても眠れずにいた。


周囲の人々が静かになるのを待ちながら、明日、さとるに何を伝えるべきか考えていた。


同行したいという思いは変わらない。


けれど、さとるを苦しめたいわけではない。


彼が自分を危険から遠ざけようとする気持ちも、理解している。


だから、ただ「一緒に行く」と繰り返すだけでは、彼には届かないのかもしれない。


自分が何を望んでいるのか。


なぜ、ここまで来たのか。


何を恐れ、それでも何を諦めたくないのか。


それを、きちんと伝えなければならない。


薫は、そっと目を閉じた。


さとるの顔が浮かぶ。


涙をこらえていた顔。


帰りたいと告げた声。


自分を抱きしめながら、震えていた腕。


あの人は、死にたくないのだ。


自分と生きたいのだ。


だったら、自分もその願いを守りたい。


ただ最後までそばにいることだけが、愛ではない。


二人で生きる可能性を探すこと。


どれほど厳しい現実の中でも、未来を諦めないこと。


それが、自分にできる愛し方なのかもしれない。


薫は、胸の前で手を重ねた。


――さとる。


――私は、あなたと生きたい。


――だから、あなたにも、生きることを諦めないでほしい。


その思いを胸に刻み、薫はゆっくりと目を開けた。


明日、もう一度、さとるに会おう。


彼がどれほど拒んでも、ただ気持ちを押し通すのではなく、自分の心を伝えよう。


自分は死を望んでいるのではない。


あなたと生きる未来を望んでいるのだと。


三日後には、出撃の日が来る。


残された時間は少ない。


けれど、まだ二人には、話す時間がある。


思いを伝える時間がある。


そして、どんな未来を望むのかを、二人で考える時間がある。


薫は、そのわずかな時間を、決して無駄にはしたくなかった。


夜の海は、闇の中で静かに揺れていた。


その海へ向かう日が、少しずつ近づいている。


それでも、さとるも薫も、まだ諦めてはいなかった。


二人で生きたい。


その願いだけは、何があっても手放したくなかった。



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