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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第六十四話 もう二度と会えないとしても

第六十四話 もう二度と会えないとしても


朝が来ても、さとるの心は少しも晴れなかった。


出撃命令を受けてから、まだ一日も経っていない。


それなのに、昨日までとは世界が違って見えた。


同じ兵舎。

同じ仲間たちの声。

同じように繰り返される訓練の準備。


何も変わっていないはずなのに、さとるには、すべてが最後へ向かって進んでいるように感じられた。


あと三日。


その言葉が、頭から離れなかった。


三日後、自分はここを離れる。


沖縄の海へ向かい、回天に乗るための準備を進める。そして、命令が下れば、狭い操縦席に身を沈め、敵艦へ向かうことになる。


一度出撃すれば、もう戻れないかもしれない。


いや、戻れない可能性のほうが高いのだと、さとるは分かっていた。


訓練で何度も教え込まれた手順は、身体に染みついている。機体の点検、計器の確認、操縦の訓練。何度も繰り返した動作なら、目を閉じていてもできるほどだった。


けれど、どれだけ訓練を積んでも、死ぬことへの恐怖だけは消えなかった。


狭い機体の中で、海の底へ向かう自分を想像する。


暗闇。

耳の奥に響く機械の音。

外の様子さえ見えなくなっていく感覚。


その先に何があるのか、誰にも分からない。


さとるは、思わず拳を握りしめた。


怖い。


何度自分に言い聞かせても、その感情は消えなかった。


自分は勇敢な人間ではない。


死ぬことを恐れず、迷いなく命を差し出せるような人間ではない。


本当は、逃げ出したかった。


命令を聞かなかったことにして、どこか遠くへ走っていきたかった。軍服を脱ぎ、名前を変え、誰も自分を知らない場所で、ただの二十歳の青年として生きていきたかった。


薫の手を取って、二人でどこかへ逃げたかった。


朝になれば目を覚まし、腹が減れば食事をし、夕暮れになれば一緒に海を眺める。


そんな、誰にでもできるはずの暮らしが欲しかった。


それなのに、自分には、その当たり前の未来さえ許されない。


さとるは顔を伏せた。


薫に会いたい。


今すぐ会って、話したかった。


出撃命令を受けたこと。

三日後にはここを離れること。

自分は帰ってこられないかもしれないこと。


そして、何よりも伝えたかった。


本当は死にたくないこと。


薫と生きていたいこと。


「……剛」


近くにいた剛が振り返った。


「どうした、さとる」


「薫に会いたい」


その言葉を口にした途端、胸の奥が締めつけられた。


「もう一度、二人で話がしたい。ちゃんと伝えなきゃいけないことがあるんだ」


剛は、さとるの表情を見て、何も聞かずにうなずいた。


「分かった。料理係にも頼んでみる。人目につかない場所と時間を考えよう」


「ありがとう」


「さとる」


剛は、しばらく言葉を探していた。


「……お前、本当は帰ってきたいんだよな」


さとるは顔を上げた。


答えは決まっていた。


「帰りたい」


声は震えていた。


「絶対に帰りたい。薫と一緒に生きたいんだ」


言葉にすると、胸の奥に押し込めていた願いが、はっきりと形になった。


「でも、命令が出た。俺の名前が呼ばれたんだ。もう、逃げられない」


剛は何も言わなかった。


「薫に帰ってくるって約束したい。でも、そんなことを言って、もし帰れなかったら……」


さとるは唇を噛んだ。


「薫は、ずっと俺を待つかもしれない。帰ってこない俺を信じて、何年も待ち続けるかもしれない。俺は、それだけはさせたくないんだ」


「だから、別れを告げるのか」


「……ああ」


本当は、そんなことをしたくなかった。


別れを告げれば、薫を悲しませる。


けれど、何も言わずに出撃することもできない。


生きて帰ると約束すれば、薫に希望を持たせてしまう。帰れない可能性があると正直に話せば、彼女の未来まで暗くしてしまう。


どちらを選んでも、薫を傷つける。


さとるには、正しい答えが分からなかった。


ただ、最後まで薫を愛していることだけは、伝えたかった。


     *


その日の午後、剛と料理係の男の助けで、さとるは薫と会う時間を得た。


人の出入りが少ない場所だった。


遠くから兵士たちの足音が聞こえる。誰かに見つかれば、二人で話している理由を説明しなければならない。


薫は、男の服を着て、帽子を深くかぶっていた。


人前では声を出せないふりをしている。だから、さとるの前でも、すぐには言葉を発しなかった。


けれど、さとるの姿を見つけた瞬間、薫の目が大きく揺れた。


会いたかった。


その思いが、声にしなくても伝わってきた。


さとるもまた、薫を見つめたまま、しばらく動けなかった。


髪を切った薫。

男の服を着た薫。

自分に会うために、ここまで来た薫。


彼女がどれほどの覚悟で沖縄まで来たのか、考えるたびに胸が痛くなった。


「薫……」


ようやく名前を呼ぶと、薫は小さくうなずいた。


さとるは、彼女のそばへ歩み寄った。


手を伸ばしたかった。


抱きしめたかった。


けれど、最初に何を伝えるべきなのか分からず、立ち尽くした。


やがて、さとるは目を伏せて言った。


「……俺の名前が、呼ばれたんだ」


薫の表情が変わった。


「出撃命令が出た。三日後、ここを離れる」


薫は、息を止めたように動かなくなった。


さとるは、彼女の顔を見つめた。


「詳しいことは、これから伝えられる。でも、俺が回天に乗って出撃することは決まったんだ」


薫の指先が、わずかに震えた。


それでも、彼女は声を出さなかった。


声を出せば、隠してきた秘密が明らかになる。今は、誰かに聞かれてはいけない。


だから薫は、唇を強く結び、さとるを見つめ続けた。


さとるは、その目から逃げるように視線を落とした。


「……帰ってこられないかもしれない」


口にした瞬間、喉が詰まった。


本当は、そんな言葉を薫に聞かせたくなかった。


自分だって、帰ってくるつもりでいたかった。

帰る場所がある。

待ってくれる人がいる。

もう一度会いたい人がいる。


そう思いながら出撃したかった。


けれど、希望だけを伝えて、薫を待たせることはできなかった。


「薫。俺は……」


声が途切れた。


目の前の彼女が、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


それでも、さとるは言わなければならなかった。


「もし、俺が帰れなかったら……俺のことだけを考えて生きないでほしい」


薫は、ゆっくりと首を横に振った。


「俺は、お前に幸せになってほしいんだ」


さとるの目に涙が浮かんだ。


「俺がいなくなっても、生きていてほしい。飯を食べて、眠って、朝になったら起きて……そうやって、ちゃんと生きてほしいんだ」


そんなことを言いながら、さとる自身が、薫のいない未来を想像できなかった。


自分は、彼女に幸せになってほしい。


それは嘘ではない。


けれど、本当の願いは別のところにあった。


薫と一緒に生きたかった。


自分がいなくなったあとの彼女の幸せを願うよりも、自分がそばにいて、彼女を幸せにしたかった。


彼女が笑うところを、これからも見ていたかった。


「……本当は、こんなことを言いたくない」


さとるは、涙をこらえながら続けた。


「俺は、お前と生きたいんだ。戦争が終わったら、二人で暮らしたい。朝、目が覚めたら、お前がそばにいて……何でもない話をして、飯を食って、また海を見に行きたい」


薫の頬を、涙が伝った。


「そんな未来が欲しかった。今だって、欲しいんだ」


さとるは、震える手を伸ばし、薫の手を握った。


「でも、俺にはどうなるか分からない。帰ってくるって約束して、お前を待たせることが怖いんだ。帰れなかったとき、お前が俺を待ち続けることが……怖いんだ」


薫は、握られた手を見つめた。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


さとるは、彼女が何かを伝えようとしていることに気づいた。


薫は、まず自分の胸に手を当てた。


次に、さとるの胸へ、そっと手を伸ばした。


それから、二人の手を重ねる。


最後に、遠くにある船のほうへ視線を向けた。


――あなたが行くなら、私も行く。


さとるには、その意味が分かった。


「……駄目だ」


考えるより先に、言葉が出た。


薫は、首を横に振った。


「駄目だ、薫。そんなことは許さない」


薫は、もう一度、船のほうを指した。


「お前が行く場所は、俺が命を懸けて向かう場所なんだ。何が起こるか分からない。敵に見つかるかもしれない。船が攻撃されるかもしれない。お前まで危険な目に遭うんだぞ」


薫は、じっとさとるを見つめていた。


「俺は、お前を守れないかもしれないんだ!」


声が思った以上に大きくなり、さとるは慌てて口を閉じた。


周囲に人の気配はない。


それでも、二人はしばらく息を潜めた。


やがて、さとるは声を落とした。


「……頼むから、分かってくれ」


薫は、さとるの手を両手で包み込んだ。


その目には、恐怖があった。


死ぬことが怖くないわけではない。

戦争が怖くないわけでもない。

自分がどうなるか、分かっているわけでもない。


薫だって、怖かった。


ここまで来る途中、何度も不安に押しつぶされそうになった。


自分が見つかれば、さとるに会うことさえできなくなるかもしれない。

沖縄に着いても、彼がすでに出撃していたらどうしよう。

もし目の前で彼を失ったら、自分はどうすればいいのだろう。


そんな思いを、何度も抱えてきた。


それでも、薫は来た。


そして今、さとるの口から出た言葉を聞いても、帰るという選択はできなかった。


薫は、さとるの手を握ったまま、自分の胸を指した。


それから、首を横に振った。


――あなたがいない場所で、ただ待つことはできない。


次に、さとるの胸を指した。


――あなたは、生きたいと言った。


薫は、自分とさとるの手を、もう一度重ねた。


――私も、あなたと生きたい。


最後に、薫は強くうなずいた。


それは、死を恐れないという意味ではなかった。


さとると一緒なら死んでもいい、という意味でもなかった。


薫が望んでいるのは、二人で生きる未来だった。


だから、さとるが死ぬかもしれない場所へ向かうのを、遠くから見送るだけにはなれなかった。


彼が死を恐れていることを知っているからこそ、一人でその恐怖を抱えてほしくなかった。


彼が帰りたいと願っていることを知っているからこそ、自分もその帰る場所でありたかった。


さとるは、薫の目を見た。


そこにある決意は、簡単には変わらないものだった。


「……どうしてだよ」


さとるの声が震えた。


「どうして、そこまでして俺について来ようとするんだ。俺は、お前に生きていてほしいんだ。お前まで失うことになったら、俺は……」


言葉が続かなかった。


薫は、さとるの頬に手を伸ばした。


涙で濡れた頬を、そっとぬぐう。


その仕草に、さとるの胸が崩れそうになった。


守らなければならないと思っていた。


自分が薫を守るのだと。

彼女を安全な場所に残すことが、自分にできる最後の愛情なのだと。


けれど、薫は自分を守られるだけの人として、ここに来たのではなかった。


彼女にも、考えがある。

彼女にも、恐怖がある。

そして、自分と同じように、未来を望む気持ちがある。


「……薫」


さとるは、彼女を抱きしめた。


強く抱きしめたかった。


けれど、腕に力を込めるほど、彼女を危険から遠ざけたいという思いが強くなった。


「俺は、お前に死んでほしくない」


薫は、さとるの背中に手を回した。


「俺だけが行けばいい。お前は生きて、俺の分まで幸せになってくれ。それが、俺の願いなんだ」


薫は、彼の胸に顔を寄せたまま、ゆっくりと首を横に振った。


そして、さとるの背中を、そっと撫でた。


まるで、泣いている子どもをなだめるように。


さとるは、そこで初めて気づいた。


薫は、自分より弱いから同行したいのではない。


自分より強いからでもない。


彼女もまた、恐怖に震えている。


それでも、自分の意志でここにいるのだ。


さとるは、彼女を抱きしめたまま、声を押し殺して泣いた。


「……帰りたい」


薫の肩が小さく揺れた。


「本当に、帰りたいんだ。お前と生きたい。こんなところで終わりたくない。まだ何もできていないんだ。お前と一緒に暮らすことも、家族になることも、何一つ……」


薫は、何度もうなずいた。


その目からも、涙が止まらなかった。


二人とも、生きたかった。


二人で帰りたかった。


その願いは同じだった。


だからこそ、さとるは薫を遠ざけようとし、薫はさとるのそばに行こうとする。


同じ未来を望んでいるのに、守りたいという思いが、二人を違う方向へ向かわせていた。


やがて、遠くから足音が聞こえた。


剛が、約束の時間が終わることを知らせに来たのだ。


さとるは、薫の肩に手を置き、顔を見つめた。


「……頼む。もう一度、考えてくれ」


薫は、涙をぬぐった。


そして、さとるの手を握り、静かに首を横に振った。


答えは変わらなかった。


さとるは、それ以上、何も言えなかった。


薫は最後に、彼の手を自分の頬に当てた。


その温かさを、忘れたくなかった。


さとるもまた、その手を離したくなかった。


けれど、足音は近づいてくる。


二人は、ゆっくりと手を離した。


薫は帽子を深くかぶり直し、声を出せない男に戻った。


さとるは、彼女の背中を見つめた。


彼女を守りたい。


それなのに、彼女の覚悟を否定する言葉しか見つからない自分が、情けなかった。


薫が去ったあとも、さとるはしばらくその場から動けなかった。


「……話せたか」


剛が声をかけた。


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


「話した。出撃命令のことも、帰れないかもしれないことも」


「そうか」


「それで……薫が、一緒に出撃すると言っている」


剛の表情が変わった。


「薫が?」


「ああ。俺が何を言っても、考えを変えようとしない」


さとるは、顔を伏せた。


「俺は、薫に生きていてほしいんだ。俺が帰れなかったとしても、あいつには生きていてほしい。俺のことばかり考えずに、いつか幸せになってほしいんだ」


「……分かってる」


「でも、薫は俺と一緒に行くと言う。俺は、あいつを守りたい。危険な場所へ連れていきたくない。なのに、あいつは……」


さとるは拳を握った。


「俺のために、ここまで来たんだ。髪まで切って、男のふりをして、危険を冒して。それなのに、俺はまた、あいつの願いを拒もうとしている」


「さとる」


剛は、静かに呼びかけた。


「お前は、薫を守りたいんだな」


「当たり前だ」


「薫も、お前を守りたいんじゃないのか」


さとるは顔を上げた。


「……どういう意味だよ」


「お前が死ぬのを、ただ遠くから待っていたくないんだろう。お前が本当は怖がっていることも、生きたいと思っていることも、薫は知っている。だから、そばにいたいんじゃないのか」


「だからって、一緒に来るのは駄目だ」


さとるは、強く言った。


「危険なんだ。俺だって、どうなるか分からない。薫まで巻き込んでしまったら、俺は……」


「それも分かる」


剛は、さとるの言葉を遮らなかった。


「お前が薫を危険にさらしたくないのは分かる。俺だって、あいつに何かあってほしくない」


剛は、少しだけ視線を落とした。


「でも、薫は自分で決めたんだ。誰かに無理やり連れてこられたわけじゃない。お前に会いたい、自分も一緒に生きる道を探したい。その思いで、ここまで来たんだ」


「……」


「お前があいつを守りたいように、薫もお前を守りたいんだと思う」


さとるは、何も答えられなかった。


薫の涙が、頭から離れなかった。


彼女は怖がっていた。


それでも、自分の意志で同行すると決めていた。


その覚悟を、さとるは理解できないわけではなかった。


理解できるからこそ、怖かった。


もし薫が同行し、二人とも帰れなくなったら。


もし自分の目の前で、薫が傷ついたら。


自分は、その光景に耐えられるのだろうか。


「剛……俺は、どうすればいいんだ」


その声は、二十歳の青年のものだった。


兵士として命令に従う男の声ではなかった。


死ぬことを恐れ、愛する人を失うことを恐れ、それでもどうすることもできない一人の青年の声だった。


剛は、すぐには答えなかった。


「今すぐ答えを出さなくてもいい。ただ、薫の覚悟を聞いたうえで、もう一度話してみろ。あいつが何を恐れて、何を望んでいるのか。お前自身が何を望んでいるのか。二人で、ちゃんと話すんだ」


「……俺は、あいつと生きたい」


「だったら、その気持ちも隠すな」


さとるは、目を閉じた。


「俺は、生きて帰りたい。薫と一緒に、生きて帰りたいんだ」


「その願いを、忘れるな」


剛は、さとるの肩に手を置いた。


「三日後に出撃するからって、今から自分の未来を諦めるな。まだ、何も終わっていない」


その言葉に、さとるはわずかに顔を上げた。


まだ、何も終わっていない。


そう思いたかった。


けれど、命令はすでに下されている。


三日後には、ここを離れなければならない。


時間は、確実に減っていた。


「剛……頼みがある」


「何だ」


「薫のことを、頼む。もし俺に何かあったら……あいつが一人にならないようにしてやってほしい」


剛は、すぐにはうなずかなかった。


「俺は、お前が帰ってくるつもりでいる。だから、今からそんな話ばかりするな」


「……分かってる」


「薫を守ることばかり考えるな。お前自身も、生きて帰ることを考えろ」


さとるは、ゆっくりとうなずいた。


生きて帰りたい。


その願いだけは、手放したくなかった。


     *


その夜、薫は一人で海を見つめていた。


風が吹き、短くなった髪が額に触れる。


男の服も、帽子も、声を出せないふりも、すべてはさとるに会うためだった。


ようやく会えた。


ようやく、彼の声を聞くことができた。


けれど、再会した喜びよりも、胸に残ったのは彼の涙だった。


さとるは、帰りたがっていた。


生きたいと願っていた。


自分と一緒に暮らしたいと、はっきり言ってくれた。


その言葉を聞けたことが、薫には何よりも嬉しかった。


同時に、苦しかった。


さとるは自分を守ろうとしている。


自分が危険な目に遭わないように、遠ざけようとしている。


それが愛情だということも、薫には分かっていた。


だから、さとるを責めることはできなかった。


彼の願いを無視して、自分の思いだけを押し通していいのか。


何度も考えた。


自分が同行すれば、さとるを苦しめるかもしれない。


彼が自分を守ろうとして、判断を誤ることもあるかもしれない。


もし自分が傷つけば、さとるは自分を責めるだろう。


それでも、薫は決めていた。


さとるが死ぬかもしれないから、一緒に死にたいのではない。


さとるが帰れないかもしれないから、最後を共にしたいのでもない。


自分は、さとると生きたいのだ。


戦争が終わったあと、二人で暮らしたい。


一緒に朝を迎えたい。


あの丘で、もう一度、何も心配せずに海を眺めたい。


その未来を、まだ諦めたくない。


だから、さとるが出撃する場所へ向かうことになっても、そこで生きる道を探したかった。


彼が帰りたいと願っていることを知っているから。

彼が死ぬことを恐れていると知っているから。

そして、自分もまた、彼と生きる未来を諦めていないから。


薫は、胸の前で両手を握りしめた。


怖かった。


本当は、怖くてたまらなかった。


それでも、怖いからといって、何もしないまま彼を見送ることはできなかった。


――さとる。


――私は、あなたに生きていてほしい。


――あなたと一緒に、生きて帰りたい。


声には出せない思いを、薫は胸の中で繰り返した。


さとるがどれほど拒んでも、すぐに考えを変えるつもりはなかった。


けれど、彼を苦しめたいわけではない。


自分の決意を押しつけたいわけでもない。


いつか、さとるにも分かってほしかった。


自分は守られるだけの人間ではないこと。


自分にも、彼を愛する一人の人間として、選びたい未来があること。


そして、その未来は、さとるのいない世界ではないこと。


薫は海から目を離し、遠くの灯りを見つめた。


あと三日。


その三日間で、二人はもう一度、答えを探さなければならない。


さとるは、薫を危険から遠ざけようとするだろう。


薫は、さとるのそばへ行こうとするだろう。


互いを愛しているからこそ、二人の思いはぶつかってしまう。


それでも、二人が本当に望んでいるものは同じだった。


生きたい。


一緒に生きたい。


戦争に奪われたくない。


その願いだけは、二人とも同じだった。


海は、夜の闇に沈んでいた。


その向こうには、明日がある。


けれど、その明日が二人に何をもたらすのか、まだ誰にも分からなかった。


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