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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第六十三話 夜明けに告げられた出撃命令

第六十三話 夜明けに告げられた出撃命令


夜が明ける前から、さとるは目を覚ましていた。


眠れなかった。


目を閉じるたび、薫の顔が浮かんだからだ。


昨夜、二人きりで過ごした短い時間。互いの気持ちを確かめ合い、抱きしめ合ったあの瞬間を、さとるは何度も思い返していた。


薫の温もりは、今も腕の中に残っているような気がした。


けれど、目を開ければ、そこに彼女はいない。


あるのは、薄暗い船室と、規則正しく響く船の音だけだった。


「……薫」


さとるは小さく名前を呼んだ。


彼女に会いたかった。


もう一度、手を握りたかった。


何も心配せず、ただ二人で話したかった。


しかし、ここは戦争のために動く船だった。自分の願いだけで時間を止めることはできない。回天の搭乗員として訓練を重ねてきたさとるには、いつか出撃命令が下る日が来ると分かっていた。


それでも、心のどこかでは、まだ先のことだと思いたかった。


今日ではない。


明日でもない。


そう考えることで、恐ろしい現実から目をそらしてきたのかもしれない。


そのとき、船内に集合を知らせる声が響いた。


「出撃に関係する者は、指定された場所に集合せよ。繰り返す。出撃に関係する者は、指定された場所に集合せよ」


さとるの身体が強張った。


出撃。


その言葉を聞いただけで、心臓が激しく打ち始めた。


ついに来たのだろうか。


自分の名前が呼ばれるのだろうか。


それとも、まだ別の誰かだけなのだろうか。


分からないことが、かえって恐怖を大きくした。


さとるは布団から起き上がり、制服を整えた。ボタンを留めようとした指が震え、何度かやり直した。


落ち着け。


まだ命令の内容は分からない。


そう自分に言い聞かせても、胸の鼓動は静まらなかった。


さとるは帽子を手に取り、船室を出た。


通路では、同じように集合場所へ向かう兵士たちが足早に歩いていた。誰も大きな声では話さず、互いの顔をうかがうように視線を交わしている。


さとるは、その中に剛の姿を見つけた。


「剛……」


声をかけると、剛は振り向いた。


「さとる。聞いたか」


「ああ。出撃に関係する者が集合だって」


「詳しいことは、まだ分からない」


剛はそう言ったが、その表情は硬かった。


二人はしばらく無言で歩いた。


さとるは何か言いたかった。怖い、と。自分の名前が呼ばれるのが怖い、と。


けれど、言葉にした途端、本当に逃げられない現実になってしまう気がした。


剛もまた、同じ恐怖を抱えているのだろう。


二人は、それ以上何も話さず、集合場所へ向かった。


***


集合場所には、すでに多くの兵士が並んでいた。


前方には上官が立ち、その脇には数名の将校が控えていた。机の上には書類が置かれ、壁には沖縄周辺の海域を示す地図が掲げられている。


さとるは指定された列に入った。


周囲の兵士たちも、普段とは違う緊張を漂わせていた。


誰もが、これから告げられる内容を気にしていた。


やがて上官が一歩前へ出た。


「これより、沖縄方面における作戦について説明する。各員、よく聞くように」


室内が静まり返った。


上官は地図の前に立ち、沖縄周辺の海域を指し示した。


「現在、沖縄周辺では敵艦隊の活動が続いている。我々の任務は、回天による攻撃を実施し、敵艦艇に打撃を与えることにある」


その言葉を聞き、さとるは地図を見つめた。


沖縄。


自分が向かうことになるかもしれない海。


そこには敵の艦艇が待ち受けている。海上では戦闘が続き、状況は刻々と変化している。地図に描かれた線や印だけでは、その海がどれほど危険な場所なのか、すべてを知ることはできなかった。


上官は説明を続けた。


「作戦の詳細については、出撃予定者に対して必要な範囲で伝達する。敵の配置や海上の状況は変化する可能性があるため、各員は最新の指示を確認し、独断で行動してはならない」


そして、上官は少し間を置いた。


「回天による攻撃は、通常の航海とは異なる。出撃後、母艦へ戻ることができない可能性があることを、各員は十分に理解しておけ」


その瞬間、さとるの喉が詰まった。


戻れない可能性。


誰もが知っていたことだった。


回天の訓練を始めた日から、さとるはその現実を何度も考えてきた。狭い機体の中で操縦手順を確かめるたび、海の中へ進んだ先に何が待っているのかを想像した。


訓練では、何度も同じ動作を繰り返した。


計器を確認する。


進路を確かめる。


指示された手順を守る。


少しの判断の誤りも許されない。


そうして訓練を重ねるうちに、身体は動作を覚えていった。


けれど、死ぬことへの恐怖だけは、いくら訓練をしても消えなかった。


むしろ、出撃の日が近づくほど、恐怖は現実味を増していた。


自分は、本当にこの海へ向かうのだろうか。


薫に二度と会えなくなるかもしれないのに。


さとるは唇を噛んだ。


生きたい。


その思いが、胸の奥から強く込み上げてきた。


上官は机の上の書類を手に取った。


「これより、出撃予定者の氏名を読み上げる。呼ばれた者は返事をし、前へ出ろ」


さとるは息を止めた。


剛も、列の中で前を見つめていた。


「山本一郎!」


「はい!」


一人の兵士が返事をして前へ出た。


「田中清二!」


「はい!」


続いて、別の兵士が進み出た。


「中村浩!」


「はい!」


「佐々木誠!」


「はい!」


「高橋修!」


「はい!」


名前が読み上げられるたび、さとるの心臓は強く打った。


呼ばれた者たちは、皆、若かった。


山本は唇を固く結び、前を見据えていた。田中は一瞬だけ目を閉じてから返事をした。中村は顔色を変えずに進み出たが、握った拳には力がこもっていた。佐々木は小さく息を吐き、高橋は返事をしたあと、まっすぐに背筋を伸ばした。


彼らも怖くないはずがなかった。


死ぬかもしれない。


家族に会えなくなるかもしれない。


故郷へ帰れなくなるかもしれない。


それでも、彼らは名前を呼ばれると前へ出た。


さとるは、その姿を見つめながら、自分が呼ばれる瞬間を恐れていた。


もし、呼ばれたら。


自分も前へ出なければならない。


そして、薫のいるこの船から離れる日が決まってしまう。


そう考えた瞬間、胸の奥が締めつけられた。


やがて、上官の声が響いた。


「剛!」


剛の肩がわずかに動いた。


「はい!」


剛は返事をしたが、上官は書類を確かめてから告げた。


「今回は以上だ。該当者は前へ出ろ」


剛の名前は、出撃予定者の列に加えられたわけではなかった。確認のために呼ばれたものだった。


剛は一度だけ、さとるの方を見た。


さとるは、まだ自分の名前が呼ばれていないことに気づいていた。


安堵が胸をよぎった。


しかし、それはほんの一瞬だった。


まだ、すべてが終わったわけではない。


上官は別の書類に目を落とし、最後の確認を始めた。


さとるは、指先が冷たくなっていくのを感じた。


自分の名前は、呼ばれるのか。


呼ばれないのか。


その答えを待つ時間は、訓練の何時間よりも長く感じられた。


そして――。


「さとる!」


はっきりと、自分の名前が呼ばれた。


一瞬、周囲の音が消えたように感じた。


さとるは、上官の顔を見た。


聞き間違いではない。


確かに、自分の名前だった。


「……はい!」


声を出すと、喉が震えた。


さとるは一歩前へ出た。


足が重かった。


たった数歩の距離なのに、まるで海の底へ向かって歩いているような気がした。


これで決まったのだ。


自分も出撃する。


もう、遠い先の話ではない。


***


出撃予定者が前に並ぶと、上官は全員の顔を見渡した。


「今、名前を呼ばれた者は、三日後を出撃予定日とする」


その言葉が、さとるの胸に突き刺さった。


三日後。


あと三日しかない。


上官は、さらに具体的な指示を伝えた。


「本日は、担当者の指示に従い、装備と機体の点検を行う。各員は、操縦手順および必要な確認事項を改めて確認し、不備があれば必ず報告すること。自分の判断で問題を見過ごしてはならない」


兵士たちは黙って聞いていた。


「明日は、出撃に向けた最終確認と準備を行う。各員は、指定された時刻までに集合し、必要な物品と装備を確認せよ。出撃前日には、改めて最終命令を伝達する」


上官は、書類を持ち直した。


「出撃当日は、指定された場所に集合し、担当上官の指示を待つこと。許可なく持ち場を離れること、命令に反して行動すること、出撃に関する情報を外部へ漏らすことは厳禁とする」


さとるは、言葉を一つ一つ胸に刻んだ。


今日、点検。


明日、最終確認。


出撃前日、最後の命令。


そして三日後、出撃。


予定が具体的に告げられるほど、逃げ場がなくなっていくようだった。


上官は、声を強めた。


「諸君には、重要な任務が託された。厳しい訓練を重ねてきた諸君ならば、その力を発揮できると信じている」


兵士たちは前を向いた。


「我々は、諸君が勇敢に敵へ向かい、任務を成功させることを期待している。諸君の覚悟を誇りに思う。最後まで臆することなく、与えられた使命を全うしてほしい」


その言葉を聞き、兵士たちは一斉に返事をした。


「はい!」


さとるも声を上げた。


けれど、胸の中では、別の言葉が繰り返されていた。


俺は、死にたいわけじゃない。


任務を果たすことを求められている。


命令に従うことを求められている。


しかし、心の中にある願いまで、誰かに決められるわけではなかった。


さとるは、薫の顔を思い浮かべた。


彼女と出会う前は、戦争が終わったあとの自分を、はっきりと想像することができなかった。


けれど、薫と出会ってからは違った。


海辺を歩く自分。


隣で笑う薫。


小さな家で、二人で食事をする日々。


特別なことなど何もない、穏やかな暮らし。


それが、さとるの望む未来になっていた。


その未来が、今、三日後という言葉によって遠ざかっていく。


それでも、さとるは願わずにはいられなかった。


生きたい。


薫と生きたい。


***


集合が解かれたあと、兵士たちはそれぞれの持ち場へ戻るよう命じられた。


さとるは、しばらく動けなかった。


三日後。


その言葉が、頭から離れない。


「さとる」


声をかけてきたのは、剛だった。


さとるはゆっくりと振り向いた。


剛は、友人の顔を見つめたあと、短く息を吐いた。


「……呼ばれたな」


「ああ」


「三日後だってな」


「そうだ」


それ以上、すぐには言葉が出なかった。


剛は、周囲に人がいないことを確かめ、声を落とした。


「薫には、俺から伝える。料理人にも話して、できる限り二人で会える時間をつくる」


さとるは顔を上げた。


「本当に、頼む」


「分かっている。ただ、これからは出撃準備がある。今まで以上に動きにくくなるはずだ。無理をすれば、薫まで危険になる」


「分かっている……」


さとるはうつむいた。


「でも、もう一度会いたいんだ。きちんと話したい。俺が何を考えているのか、ちゃんと伝えたい」


剛は黙って聞いていた。


「俺は、帰れると約束できない。でも、帰りたくないわけじゃないんだ。俺は生きたい。薫と一緒に生きたいんだ」


その言葉を口にした途端、さとるの目が熱くなった。


「死ぬのが怖い。薫に会えなくなるのが怖い。あいつを残していくことが、どうしても怖いんだ」


剛は、さとるの肩に手を置いた。


「……怖くて当たり前だろ」


さとるは顔を上げた。


「お前は、まだ二十歳なんだ。生きたいと思うのは、何もおかしくない。薫と未来をつくりたいと思うのだって、当たり前だ」


剛の声も、少し震えていた。


「俺にできることには限りがある。でも、お前たちが何も伝えられないまま別れることだけは、できる限り避けたい」


「ありがとう、剛」


「礼はいらない。俺たちは仲間だ」


剛はそう言って、さとるの肩を軽くたたいた。


しかし、二人の表情は晴れなかった。


三日後には、さとるが出撃する。


その先に何が待っているのか、誰にも分からない。


だからこそ、残された時間が、あまりにも短く感じられた。

その日の午後、薫は厨房で作業を続けていた。


船内では、出撃に関する話が少しずつ広がっていた。


「三日後に出るらしい」


「今日から準備が始まるそうだ」


そんな声が聞こえるたび、薫の胸は強く締めつけられた。


彼女は、声を出すことができなかった。


今の自分は、男として船に乗り込んだ、口のきけない手伝いの者ということになっている。


不自然な言動をすれば、すぐに疑われる。


だから、佐藤の名前が聞こえても、顔を上げるだけにとどめた。


本当は、すぐにでも確かめたかった。


さとるの名前は呼ばれたのだろうか。


彼は三日後に出撃するのだろうか。


けれど、聞くことができなかった。


料理人が近づいてきたとき、薫は震える手で彼の袖をつかんだ。


料理人は、彼女の顔を見て、何かを察したようだった。


「……出撃の話か」


薫は、ゆっくりとうなずいた。


料理人は声を落とした。


「剛君から、詳しい話があるかもしれない。今は落ち着いて仕事を続けなさい。ここで君が疑われたら、さとる君に会うことも難しくなる」


薫は、唇を噛んだ。


彼女も分かっていた。


焦ってはいけない。


無理に動いてはいけない。


それでも、三日後という言葉が頭から離れなかった。


あと三日で、さとるはこの船を離れる。


その先で、何が起こるか分からない。


もう二度と会えなくなるかもしれない。


薫は、涙をこらえながら、再び手を動かした。


生きていてほしい。


帰ってきてほしい。


そして、二人で生きていきたい。


声に出せない願いを胸にしまい、彼女は作業を続けた。


***


夜、さとるは一人、暗い船室で横になっていた。


しかし、眠ることはできなかった。


三日後の出撃。


その言葉が、何度も頭の中を巡っていた。


明日は最終確認が進む。


出撃前日には、最後の命令が伝えられる。


そして、その翌日には、海へ向かわなければならない。


さとるは、暗い天井を見つめた。


薫に会いたい。


彼女に、嘘をつきたくない。


帰れると約束できないことも、死ぬのが怖いことも、すべて伝えたい。


そして、自分はまだ生きることを諦めていないのだと、知っていてほしかった。


「……俺は、生きたい」


さとるは小さくつぶやいた。


「薫と、一緒に生きたいんだ」


その声は、誰にも届かなかった。


けれど、それが彼の本当の気持ちだった。


命令は下された。


出撃の日も決まった。


自分の意思だけで、その現実を変えることはできない。


それでも、薫を愛する気持ちまで、消すことはできなかった。


さとるは目を閉じた。


高台で初めて薫と話した日のことを思い出した。


海を見つめる彼女の横顔。


初めて交わした言葉。


二人で過ごした時間。


そして、戦争が終わったら一緒に生きようと願った、あの約束。


未来は、まだ遠いと思っていた。


いつか必ず、その日が来ると信じたかった。


しかし今、その未来は三日後という短い時間の向こう側に置かれている。


さとるは、胸元を握りしめた。


「薫……もう一度、会いたい」


それだけを願いながら、彼は長い夜を過ごした。


出撃まで、あと三日。


二人に残された時間は、確実に少なくなっていた。




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