第六十二話 夜明け前、二人だけの時間
第六十二話 夜明け前、二人だけの時間
夜が深まるにつれて、船の中は少しずつ静けさを取り戻していった。
けれど、その静けさは、穏やかな夜の静けさではなかった。
通路の向こうから聞こえる軍靴の音。時折、誰かを呼ぶ短い声。金属がぶつかる乾いた音。そして、甲板の上を吹き抜ける風が、船体のどこかを鳴らしていた。
さとるは寝台に腰を下ろし、両手を組んでいた。
目を閉じても、眠ることができなかった。
今日、通路ですれ違った薫。
短くなった髪。軍帽の下からのぞいた横顔。周囲に気づかれないように伏せられた目。
そして、ほんの一瞬だけ交わした視線。
――生きていてくれて、ありがとう。
あの言葉を口にしたとき、さとるは本当にそう思った。
薫が生きていた。
自分を探して、危険を冒して、ここまで来てくれた。
その事実が、胸の奥を熱くする一方で、どうしようもない恐怖を連れてきた。
薫は、ここにいる。
自分のすぐ近くに。
けれど、この船に乗っている以上、彼女まで戦争の危険に巻き込まれてしまう。
さとるは両手を強く握りしめた。
「……何で、来たんだよ」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
責めたいわけではなかった。
本当は、会いたかった。
ずっと会いたかった。
もう一度、あの高台で見た笑顔を見たかった。名前を呼びたかった。手を握りたかった。
そして、戦争が終わったら一緒に暮らそうと、何度でも伝えたかった。
それなのに、いざ薫が目の前に現れると、嬉しさよりも先に、彼女を失う恐怖が押し寄せてくる。
自分は、いつ出撃を命じられてもおかしくない。
その日が来れば、薫を置いていかなければならないかもしれない。
だからこそ、今夜だけでも話したかった。
言葉を交わしたかった。
ほんの少しでも、二人で同じ時間を過ごしたかった。
*
同じ頃、船内の炊事場では、料理人が翌朝の準備を進めていた。
薫はその隣で、使い終わった器を一つずつ拭いていた。
いつもなら、手を動かしているうちに余計な考えは薄れていく。
けれど今夜は、布で器を拭くたびに、通路ですれ違ったさとるの顔が浮かんだ。
ほんの短い時間だった。
さとるは自分に気づいてくれた。
変装していても、髪を切っていても、彼は自分を見つけてくれた。
それが嬉しくて、涙が出そうになった。
しかし、薫はすぐに視線を落とした。
自分は今、男としてここにいる。
声を出さないことも、正体を知られないことも、ここで生き延びるために必要だった。
もし誰かに女だと気づかれたら。
もし軍の人間に不審に思われたら。
さとるのいる場所から引き離されるかもしれない。
せっかくここまで来たのに、また会えなくなる。
それだけは、どうしても嫌だった。
「もう少しだ」
料理人が、手を止めずに言った。
薫は顔を上げた。
「今夜の片づけが終われば、少し休める。無理をするなよ」
薫は小さく頷いた。
料理人は、彼女の顔をちらりと見た。
「……会えたんだろう?」
薫の手が止まった。
彼はそれ以上、すぐには何も尋ねなかった。
やがて薫は、器を置き、胸元に手を当てた。それから、遠くを見るように目を向けた。
料理人は、その仕草の意味を考えるように少し黙った。
「まだ、ちゃんと話せていないんだな」
薫は頷いた。
「そうか」
料理人は小さく息を吐いた。
「剛が、今夜なら少しだけ時間を作れるかもしれないと言っていた。ただし、長くは無理だ。誰かに見つかったら、君だけじゃなく、あの青年まで疑われる」
薫の瞳が大きくなった。
本当に、さとると話せるのだろうか。
あの人の声を、もう一度聞けるのだろうか。
自分も、伝えたいことがたくさんあった。
どうしてここまで来たのか。
どれほど会いたかったのか。
そして、どれほど怖かったのか。
何よりも、今も変わらず愛していることを。
薫は胸の前で両手を重ね、深く頭を下げた。
料理人は困ったように笑った。
「礼はいい。俺は、君が無事にここまで来られたことを、無駄にしたくないだけだ」
その言葉に、薫は目を伏せた。
料理人もまた、危険を承知で自分を助けてくれている。
彼がいなければ、この船に乗ることさえできなかった。
薫は、もう一度深く頭を下げた。
夜半を過ぎた頃、剛がさとるのいる区画へやって来た。
周囲に目を配りながら、何でもない用事で立ち寄ったような顔をしている。
「さとる」
小さな声に、さとるは顔を上げた。
「剛……どうした?」
「少し、話がある」
剛は隣に腰を下ろした。すぐには本題に入らず、通路を通る人影がないことを確かめた。
「今夜、少しだけ時間ができそうだ」
さとるの表情が変わった。
「……薫に会えるのか?」
「まだ確実じゃない。炊事場の片づけが終わってから、料理人が人の動きを見てくれる。俺も、交代の時間を確認しておく」
さとるは何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
剛はその顔を見て、声を少し低くした。
「ただし、ほんの数分だ。長く話すな。大きな声も出すな。もし人が来たら、すぐに離れろ」
「分かってる」
「本当に分かってるか?」
剛の問いに、さとるは黙った。
分かっているつもりだった。
ここは二人が初めて言葉を交わした高台ではない。誰にも邪魔されず、海を眺めながら話せる場所でもない。
軍の船の中だ。
ここでは、会いたいという気持ちだけで動くことはできない。
それでも。
「……ありがとう、剛」
さとるが言うと、剛は首を横に振った。
「礼を言うのは、まだ早い」
それから、少しだけ表情を和らげた。
「会えたら、ちゃんと話せよ。お前が何を考えてるのか、薫に伝えろ。あいつだって、お前の顔を見ただけで安心できるわけじゃない」
さとるは、はっとした。
そうだ。
薫は、自分に会うためにここまで来た。
故郷を離れ、髪を切り、男のふりをして、知らない人間に囲まれながら船に乗った。
その決意の重さを、自分はまだ十分に受け止められていなかったのかもしれない。
「……俺、薫に言いたいことがあるんだ」
「何だ?」
「たくさんある。でも、何から言えばいいのか分からない」
剛は、少しだけ笑った。
「だったら、最初は簡単なことでいい」
「簡単なこと?」
「会いたかった、って言えばいいだろ」
さとるは目を伏せた。
あまりにも当たり前の言葉だった。
けれど、その一言の中に、今までの時間も、恐怖も、安堵も、全部が詰まっているように思えた。
「……そうだな」
「それから、これからのことを話せ。お前たちが何を望んでいるのか、ちゃんと二人で考えろ」
剛の声には、いつもより強い響きがあった。
彼もまた、この先に何が待っているのか分かっているのだ。
出撃命令。
帰ってこない仲間たち。
日に日に近づく、自分たちの番。
剛は、さとるの肩にそっと手を置いた。
「今夜の時間が、明日もあるとは限らない。だからって、今から全部を諦めるな」
さとるは、ゆっくりと頷いた。
*
やがて、炊事場の片づけが終わった。
料理人は、薫に水の入った小さな容器を渡した。
「これを、向こうの区画へ届けてくれ。俺も少し遅れて行く」
薫は容器を受け取り、頷いた。
それは特別な用事ではなかった。
誰が見ても、手伝いの者が頼まれた仕事をしているだけに見えるはずだった。
薫は軍帽を深くかぶり直した。
心臓が、胸の中で大きく鳴っている。
廊下を歩く。
一歩。
もう一歩。
人影がないことを確かめながら、指定された場所へ向かう。
曲がり角の先に、剛が立っていた。
剛は薫の姿を見ると、ごく小さく頷いた。
それから、近くの物置の扉を開けた。
「こっちだ」
声は、ほとんど息のようだった。
薫は中へ入った。
そこには、さとるがいた。
狭い部屋の中で、二人はしばらく何も言えなかった。
さとるは、目の前に立つ薫を見つめた。
短くなった髪。
少し痩せた頬。
軍帽の影に隠れた目。
初めて会ったときの薫とは、違うところもあった。
けれど、見間違えるはずがなかった。
「……薫」
その名を口にした瞬間、さとるの声が震えた。
薫は唇を結び、何度も頷いた。
涙がこぼれそうだった。
けれど、声を出すわけにはいかない。
彼女は両手を握りしめ、必死に涙をこらえた。
さとるは、ゆっくりと一歩近づいた。
「本当に……来たんだな」
薫は頷いた。
「どうして、こんな危ないところまで……」
責めるような言い方になりかけて、さとるは口を閉じた。
薫の顔を見れば、答えは分かっていた。
それでも聞かずにはいられなかった。
「俺に会うために、ここまで来たのか?」
薫は、迷うことなく頷いた。
その動きは小さかったが、そこには揺るぎない意志があった。
さとるは目を閉じた。
「……馬鹿だよ、お前は」
声がかすれた。
「こんなところまで来たら、何が起きるか分からないんだぞ。俺がいるからって、安全なわけじゃない。俺だって、いつどうなるか分からないんだ」
薫は、じっと彼を見つめた。
そして、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
次に、さとるへ手を伸ばした。
指先が、彼の袖に触れた。
ほんのわずかな接触だった。
けれど、その手の温かさに、さとるの中で何かが崩れた。
「……会いたかった」
ようやく、それだけを言った。
「ずっと、会いたかったんだ」
薫の目から、涙がこぼれた。
声を出さずに泣く彼女を見て、さとるも唇を噛んだ。
「生きていてくれて、ありがとう。ここまで来てくれて……本当に、ありがとう」
薫は何度も首を横に振った。
礼を言われるようなことではない。
自分だって、ただ会いたかっただけなのだ。
もう一度、さとるの顔を見たかった。
彼が生きていることを確かめたかった。
そして、まだ二人の間に未来が残っていると信じたかった。
薫は、手に持っていた容器を床に置いた。
そして、ためらいながら両手を伸ばした。
さとるはその意味を理解した。
彼もまた、両腕を広げた。
二人は、静かに抱き合った。
薫の額が、さとるの胸に触れた。
さとるは彼女の背中に手を回したが、強く抱きしめることはできなかった。
軍服の下にある彼女の身体が、あまりにも小さく感じられたからだ。
ここまで来るまで、どれほど怖かっただろう。
どれほど心細かっただろう。
知らない男たちに囲まれ、言葉を飲み込み、正体を隠しながら、たった一人で自分を探してくれた。
「……ごめんな」
さとるは、薫の髪に顔を寄せた。
「俺が、こんなところにいるから」
薫は、さとるの胸元で首を横に振った。
それから、彼の服をそっと握った。
違う。
あなたのせいじゃない。
あなたが望んでここに来たわけではないことを、薫は知っていた。
さとるが本当は生きたいと願っていることも、知っていた。
だからこそ、自分は来たのだ。
彼を連れ戻せるかどうかは分からない。
戦争を止められるかどうかも分からない。
それでも、何も知らないまま故郷で待ち続けることだけはできなかった。
さとるは、薫の頬に流れた涙を指でそっと拭った。
「薫。俺は……帰りたい」
薫の目が、彼を見上げた。
「生きて帰りたい。お前と一緒に、あの高台に戻りたいんだ」
さとるは、言葉を続けた。
「戦争が終わったら、何でもない毎日を過ごしたい。朝起きて、お前と飯を食べて、仕事をして、夜になったら今日あったことを話して……そんな暮らしがしたい」
声が震えた。
「俺は、英雄になりたいわけじゃない。死ぬのが怖くないわけでもない。怖いんだ。出撃のことを考えると、今だって眠れない」
薫の目に、また涙が浮かんだ。
「本当は、逃げ出したいと思うことだってある。でも、逃げたらどうなるのか分からない。ここに残っていても、いつか命令が来るかもしれない」
さとるは、彼女の手を取った。
「だから……俺がどんなことを言っても、覚えていてほしい。俺は、死にたいわけじゃない。お前を残して死ぬことを、望んでいるわけじゃない」
薫は、強く頷いた。
そして、握られた手を握り返した。
その手の温もりが、さとるに生きていることを思い出させた。
ここにいる。
まだ、ここにいる。
自分はまだ、薫の手を握ることができる。
それだけで、もう少しだけ生きていたいと思えた。
*
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
二人は同時に顔を上げた。
剛の声が、扉の向こうから小さく響いた。
「……時間だ」
その一言が、二人を現実へ引き戻した。
さとるは薫の手を離そうとした。
しかし、薫は一瞬だけ、その手を強く握った。
離れたくない。
まだ話したい。
もっと一緒にいたい。
言葉にできない思いが、その指先に込められていた。
さとるも同じだった。
けれど、ここで時間を延ばせば、二人だけでなく、剛や料理人まで危険にさらしてしまう。
「……また、会えるか?」
さとるが尋ねた。
薫は、すぐには頷かなかった。
約束できることではなかったからだ。
明日、命令が下るかもしれない。
次に会う前に、船が出ることになるかもしれない。
それでも、薫はゆっくりと頷いた。
また会いたい。
その願いだけは、嘘ではなかった。
さとるは、彼女の手を最後にもう一度握った。
「……無理はするな。危ないと思ったら、俺に会うことより、自分の命を大事にしてくれ」
薫は、悲しそうに彼を見つめた。
自分の命を大事にしてほしい。
それは、さとるがずっと願っていたことだった。
けれど、彼女にとっては、さとるの命も同じくらい大切だった。
薫は胸元に手を当て、それから、さとるの手にそっと触れた。
あなたも。
あなたも、自分の命を諦めないで。
さとるは、その仕草を受け止めるように頷いた。
「……分かった」
守れると断言することはできなかった。
それでも、彼女の前で、自分から生きることを諦めたくなかった。
扉がわずかに開き、剛が顔をのぞかせた。
「二人とも、そろそろ」
さとるは名残惜しそうに薫を見た。
薫もまた、彼を見つめ返した。
声を交わしたのは、ほんの数分。
伝えられなかったことは、まだたくさん残っている。
それでも、二人はもう、互いが生きていることを知っていた。
さとるは薫の耳元で、最後に囁いた。
「薫。俺は、お前を愛してる」
薫の唇が、声にならない言葉を形作った。
――私も。
彼女は、もう一度だけ頷いた。
そして、剛に促され、静かに部屋を出ていった。
さとるは一人、狭い物置に残された。
彼女の手の温もりが、まだ自分の掌に残っている気がした。
それを失いたくなくて、さとるはしばらく手を開くことができなかった。
*
薫が炊事場へ戻ると、料理人が何も尋ねずに待っていた。
彼女の赤くなった目を見て、すべてを察したのだろう。
「会えたか」
薫は頷いた。
料理人は、静かに息を吐いた。
「よかったな」
その短い言葉に、薫の目から再び涙がこぼれた。
彼女は急いで顔を伏せ、袖で涙を拭った。
もう泣いてはいけない。
ここで泣いている姿を見られれば、怪しまれるかもしれない。
明日も、何事もなかったように働かなければならない。
さとるに会えたからといって、危険が消えたわけではないのだ。
むしろ、彼がどれほど出撃を恐れているかを知ったことで、薫の胸には新しい不安が生まれていた。
彼は帰りたいと言った。
自分と生きたいと言った。
それなのに、戦争は彼を海へ連れていこうとしている。
薫は、炊事場の小さな窓から夜の海を見た。
暗闇の向こうに、さとるがいる。
同じ船の中で、ほんの少し離れた場所に。
こんなに近くにいるのに、自由に会うこともできない。
自由に名前を呼ぶこともできない。
ただ、次に会える日を願うことしかできなかった。
そのとき、船内に短い号令が響いた。
続いて、慌ただしい足音が廊下を駆け抜けていく。
料理人が顔を上げた。
薫も、息を止めた。
しばらくして、別の兵士が炊事場の入口に現れた。
「各員、明朝の集合時刻が変更になった。出撃準備に関する通達がある。関係者は遅れるなとのことだ」
兵士はそれだけ告げると、足早に去っていった。
薫の指先から、力が抜けた。
出撃準備。
その言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
さとるは、明日もここにいるのだろうか。
明日の夜も、会えるのだろうか。
それとも、今夜の再会が、二人に残された最後の時間だったのだろうか。
薫は、壁に手をついて、どうにか立っていた。
一方、さとるも自分の寝台へ戻る途中、同じ通達を耳にしていた。
明朝、出撃準備に関する通達がある。
具体的な命令は、まだ伝えられていない。
しかし、これまでの経験から、ただの訓練の知らせではないことが分かった。
さとるは、足を止めた。
さっきまで、薫の手を握っていた。
彼女の涙を見た。
自分の気持ちを伝えた。
もう一度、会いたいと願った。
そのすべてが、急に遠くなったように感じられた。
「……明日、か」
誰に向けたものでもない声が、暗い通路に落ちた。
さとるは窓のない壁に手をつき、ゆっくりと息を吸った。
怖かった。
薫に会えたからこそ、余計に怖かった。
失いたくない人がいる。
帰りたい場所がある。
自分を待っている人がいる。
それなのに、自分の未来は、自分の手の届かないところで決められていく。
さとるは、掌をそっと握りしめた。
そこには、まだ薫の手の温もりが残っている気がした。
――生きたい。
その願いは、今までよりも強くなっていた。
そして同じ夜、薫もまた、暗い海に向かって祈っていた。
どうか、明日も会えますように。
どうか、まだ間に合いますように。
二人は、ほんの数分の再会を胸に抱いたまま、それぞれの場所で夜明けを待った。
けれど、夜明けとともに告げられるものが、二人の望む未来へつながるとは限らなかった。




