第六十一話 限られた時間、二人だけの約束
第六十一話 限られた時間、二人だけの約束
朝の光が、船の小さな窓から差し込んでいた。
さとるは、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
昨日、確かに薫に会った。
帽子を深くかぶり、食器を抱えて歩いていた彼女。周囲の兵士たちに気づかれないように、必死に自分を隠していた彼女。
そして、すれ違う瞬間に、ほんのわずかにうなずいてくれた。
あの一瞬が、何度も頭の中によみがえっていた。
「……薫」
名前をつぶやくと、胸が苦しくなった。
会えたことは嬉しかった。
けれど、あんなにも近くにいたのに、手を伸ばすことさえできなかった。
抱きしめることも、無事だったかと尋ねることも、どれほど会いたかったかを伝えることもできなかった。
さとるは、両手を強く握りしめた。
次に会えたら、必ず話したい。
たとえ短い時間でもいい。
薫の顔を見て、声を聞いて、彼女がここまで来た理由を、自分の口から確かめたい。
しかし、その願いを叶えられる時間が、どれほど残されているのかはわからなかった。
出撃に向けた準備は続いている。
いつ命令が下されてもおかしくない。
さとるは、その現実から目をそらすことができなかった。
*
一方、厨房では、薫が朝食の準備を手伝っていた。
昨日、さとるに会えたことで、胸の中には小さな希望が生まれていた。
彼は生きていた。
少し痩せていたけれど、確かに自分を見てくれた。
「生きていてくれて、ありがとう」
あの言葉が、今も耳に残っている。
本当は、自分こそ伝えたかった。
生きていてくれてありがとう。
会いたかった。
ずっと、あなたを探していた。
けれど、あのときは何も言えなかった。
薫は、野菜を切る手を止めた。
包丁を握る指先が、かすかに震えていた。
「手を止めると、指を切るぞ」
料理人の声に、薫ははっと顔を上げた。
料理人は、彼女の手元を確認してから、声を和らげた。
「昨日、会えたんだろう。少しは安心できたか?」
薫は、迷ったあと、小さくうなずいた。
「それならよかった」
料理人は、鍋の火加減を確かめながら続けた。
「剛とも話した。二人を、もう少し落ち着いて会わせられないか考えている」
薫の目が大きくなった。
料理人は、すぐに念を押した。
「ただし、簡単じゃない。さとるには任務があるし、お前はここで正体を隠している。勝手に動けば、どちらにも危険が及ぶ」
薫は、真剣な顔でうなずいた。
わかっている。
自分が会いたいからといって、周りの人たちを危険に巻き込んではいけない。
それでも、時間がないことは感じていた。
昨日、さとるの顔を見たとき、彼が以前よりも痩せていることに気づいた。
目には疲れが浮かび、笑顔もなかった。
彼が、どれほど厳しい日々を過ごしているのか。
考えるだけで、胸が締めつけられた。
「薫」
料理人が、少しだけ真剣な表情になった。
「もし、さとるに会える機会ができたら、何を伝えたい?」
薫は、すぐには答えられなかった。
伝えたいことは、いくらでもあった。
けれど、いざ言葉にしようとすると、胸がいっぱいになってしまう。
しばらくして、薫は胸元に手を置き、ゆっくりと口を動かした。
――生きていてほしい。
声には出さなかった。
けれど、料理人には、その意味が伝わったようだった。
「……そうか」
料理人は、静かにうなずいた。
「きっと、あいつも同じことを思っている」
*
昼前、剛はさとるのいる場所へ向かった。
昨日の再会以来、剛は二人の様子を気にかけていた。
さとるは、薫が船にいることを知った。
薫も、さとるが生きていることを自分の目で確かめた。
けれど、二人はまだ、まともに話すことができていない。
このままでは、次の命令が下る前に、また引き離されてしまうかもしれない。
剛は、そんな不安を抱えていた。
通路の先に、さとるの姿が見えた。
「さとる」
声をかけると、さとるはすぐに振り返った。
「剛。薫は……?」
その問いに、剛は小さく笑った。
「相変わらずだ。お前のことばかり気にしている」
さとるは、苦しそうに笑った。
「……そうか」
「昨日、顔を見られただけでも、あいつは嬉しかったと思うぞ」
「俺もだよ」
さとるは、すぐに答えた。
「本当に、嬉しかった。でも……あんなに近くにいたのに、何もできなかった」
剛は、さとるの肩に手を置いた。
「だから、機会を探している。厨房の仕事が落ち着く時間に、短い間でも会えるようにできないか、料理人さんと相談しているところだ」
さとるの目に、かすかな希望が浮かんだ。
「本当か?」
「ああ。ただし、周囲に怪しまれないことが条件だ。薫の正体が知られれば、あいつはここにいられなくなるかもしれない」
さとるは、強くうなずいた。
「わかっている。薫を危険な目に遭わせたくない」
「それなら、焦るな。俺たちができることを考えよう」
剛はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「……さとる。時間があまりないかもしれない」
さとるの表情が変わった。
「どういうことだ?」
「詳しいことは、まだわからない。ただ、船内で出撃に関する準備が進んでいる。上官たちの動きも、ここ数日で変わってきた」
さとるは、黙り込んだ。
そのことは、自分でも感じていた。
訓練の内容。
兵士たちの表情。
上官たちの会話。
どれもが、何かが近づいていることを告げていた。
「……そうか」
さとるは、うつむいた。
薫に会えたばかりなのに。
もう一度、話す時間が欲しいと思ったばかりなのに。
戦争は、二人に立ち止まる時間さえ与えてくれない。
「剛、頼みがある」
さとるは、顔を上げた。
「もし、会える機会ができたら、すぐに知らせてくれ。俺は……薫に伝えたいことがある」
「何を伝えたいんだ?」
さとるは少し迷い、やがて静かに答えた。
「生きていてほしいって。俺のために、これ以上、危険なことをしないでほしいって」
剛は、さとるを見つめた。
「それだけか?」
「……いや」
さとるは、かすかに笑った。
「本当は、もっとある。会いたかったことも、好きだということも、これからも一緒に生きたいということも。全部、伝えたい」
剛は、静かにうなずいた。
「わかった。何とかしてみる」
*
その日の午後、料理人は厨房の仕事を終えると、剛と合流した。
二人は、兵士たちの出入りが比較的少ない場所で、短く話をした。
「さとるは、薫に会いたがっている」
剛が言うと、料理人はうなずいた。
「薫も同じだ。だが、二人を自由に行き来させるわけにはいかない」
「わかっている。だから、ほんの少しでいい。人目につかず、二人が話せる時間を作れないかと思っている」
料理人は、しばらく考え込んだ。
厨房の仕事は、時間によって忙しさが変わる。食事の準備が終わったあとなら、わずかな余裕が生まれることもある。
しかし、船内では常に誰かが行き来している。完全に人目を避けることは難しかった。
「厨房の片づけが終わったあとなら、短い時間を作れるかもしれない」
料理人は、慎重に言った。
「ただし、薫が一人で移動するのは危険だ。俺が一緒に動く必要がある。さとるにも、仕事の都合を見てもらわなければならない」
剛は、真剣な表情でうなずいた。
「それでいい。無理はさせない。二人が少しでも話せるなら、それだけで十分だ」
料理人は、剛の目を見た。
「お前も、危険を承知で動いているんだな」
「もちろんだ」
剛は、苦笑した。
「でも、あいつらは、ただ一緒に生きたいだけなんだ。戦争がなければ、こんなふうに会うことさえ難しくならなかったはずだ」
料理人は、何も言わなかった。
しばらくして、静かに口を開いた。
「……わかった。できる限り、協力しよう」
二人は、短くうなずき合った。
*
夕方、さとるは、上官から翌日の訓練について説明を受けていた。
いつもと変わらない指示。
いつもと変わらない口調。
それなのに、さとるには、すべてが別れへ向かって進んでいるように思えた。
訓練が終われば、また夜が来る。
夜が明ければ、次の日が始まる。
その繰り返しの中で、いつ出撃命令が下されるのか。
誰にもわからない。
さとるは、手のひらを見つめた。
この手で、薫の手を握りたい。
ただ、それだけだった。
彼女の手を握り、無事だったかと尋ねたい。
怖かっただろうと、抱きしめたい。
そして、自分も怖いのだと、正直に話したい。
死にたくない。
薫を残していきたくない。
戦争が終わったら、一緒に生きていきたい。
そんな気持ちを、隠さずに伝えたかった。
「さとる、聞いているのか」
上官の声に、さとるははっと顔を上げた。
「はっ。申し訳ありません」
「気を引き締めろ。これからは、今まで以上に注意が必要になる」
「了解しました」
さとるは深く頭を下げた。
上官が去ったあと、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
気を引き締めなければならない。
そんなことはわかっている。
けれど、心の中には、薫のことがあった。
会いたい。
今度こそ、ちゃんと話したい。
さとるは、静かに拳を握った。
*
夜。
厨房の片づけが終わる頃、料理人が薫のもとへやってきた。
「薫、少し話がある」
薫は、すぐに手を止めた。
料理人は、周囲を確かめてから、小さな声で告げた。
「剛と相談した。うまくいけば、近いうちに、さとると短い時間だけ会える機会を作れるかもしれない」
薫は、息をのんだ。
本当に?
もう一度、さとるに会えるのだろうか。
今度こそ、言葉を交わすことができるのだろうか。
薫は、思わず料理人の袖をつかんだ。
料理人は、彼女の手をそっと見下ろし、それから優しく言った。
「まだ決まったわけじゃない。だから、期待しすぎるなとは言わないが、慎重に動こう」
薫は、何度も何度も、うなずいた。
嬉しかった。
怖かった。
その二つの気持ちが、胸の中で入り交じっていた。
彼に会えたら、何を話そう。
会いたかった。
あなたが生きていてくれて、本当に嬉しかった。
あなたを失うのが怖い。
そして、あなたと一緒に生きたい。
伝えたい言葉は、たくさんあった。
けれど、どれだけ考えても、最後に残る願いは一つだった。
――どうか、もう少しだけ、時間をください。
薫は、目を閉じた。
戦争が始まってから、当たり前のことが当たり前ではなくなった。
明日が来ること。
好きな人に会えること。
一緒に食事をすること。
手をつないで歩くこと。
そのすべてが、遠い夢のようになってしまった。
それでも、薫は諦めたくなかった。
*
同じ頃、さとるは寝床に横になり、天井を見つめていた。
明日、何かが変わるかもしれない。
剛がそう言っていたわけではない。
まだ、何も決まっていない。
それでも、心のどこかで、そう感じていた。
薫に会いたい。
会って、伝えたい。
自分がどれほど彼女を大切に思っているか。
そして、どれほど生きたいと願っているか。
さとるは、胸元に手を置いた。
「……薫。もう一度、会わせてくれ」
声は、暗い船内に静かに消えていった。
船の外では、波がゆっくりと揺れていた。
その波の向こうに、二人が夢見た未来があるのかどうかは、誰にもわからなかった。
けれど、今はまだ、二人とも生きている。
同じ船の中で。
互いを想いながら。
そして、再び会える日を信じながら。
その夜、さとると薫は、それぞれの場所で、同じ願いを胸に抱いていた。
――明日こそ、もう一度、あなたに会いたい。




