第六十話 ついに届いた、君の声
第六十話 ついに届いた、君の声
夜が明ける少し前、船内に低い機械音が響いていた。
さとるは、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
目を閉じるたび、薫の顔が浮かんだ。
山口の高台で、海を見つめていた薫。
涙をこらえながら、自分の前では笑おうとしていた薫。
別れが近づくなか、「また明日」と言葉を交わした、あの日の薫。
そして今、彼女は沖縄にいる。
この船のどこかにいる。
剛からそう聞かされて以来、さとるの胸は落ち着かなかった。
会いたい。
ただ一度でいいから、無事な姿を見たい。
けれど、ここは軍の船だった。勝手に持ち場を離れることはできない。薫もまた、男の姿をして身を隠している。自分が不用意に動けば、彼女を危険にさらしてしまうかもしれない。
さとるは、寝床から起き上がると、冷たい水で顔を洗った。
鏡の代わりに、壁に映るぼんやりとした自分の姿を見る。
頬はこけ、目の下には疲れがにじんでいた。
それでも、さとるは自分に言い聞かせた。
――今日こそ、会えるかもしれない。
その希望だけを胸に、彼は持ち場へ向かった。
*
同じ頃、厨房では料理人が朝食の準備を始めていた。
薫はその隣で、野菜を洗っていた。
短くなった髪は帽子の下に隠れている。軍服の袖は少し大きく、手を動かすたびに布が邪魔になった。
それでも、彼女は黙々と働いていた。
昨日、剛から聞いた話が、頭から離れなかった。
さとるは、自分に会いたがっている。
自分のことを心配してくれている。
それを知っただけで、薫は何度も泣きそうになった。
しかし、嬉しい気持ちと同じくらい、不安も大きかった。
もし会えたら、何を話そう。
ずっと会いたかったと伝えたい。
心配をかけてごめんなさいと謝りたい。
そして、本当はずっと怖かったのだと、打ち明けたい。
さとるを失うことが怖かった。
彼が自分の知らない海へ出て、二度と帰ってこないかもしれないことが怖かった。
だからこそ、ここまで来た。
けれど、いざ同じ船にいると知ると、どうしても足がすくんでしまう。
会えたとしても、別れの時間がまた近づいてしまうのではないか。
そんな考えが、何度も胸をよぎった。
「薫」
料理人に呼ばれ、彼女は顔を上げた。
料理人は、彼女の手元を見てから、そっと声をかけた。
「手が止まっているぞ。考え事か?」
薫は、慌てて首を横に振った。
料理人は小さく笑った。
「隠さなくてもいい。あの男のことだろう」
薫は、少し迷ってから、ゆっくりとうなずいた。
「剛から聞いた。さとるも、お前に会いたがっているそうだ」
その言葉に、薫の目が潤んだ。
料理人は、周囲に人がいないことを確かめてから続けた。
「今朝、船内の配置について少し確認してきた。剛も同じ船にいる。仕事の合間に、さとると連絡を取れる機会がないか探してくれている」
薫は、料理人の顔を見つめた。
「ただし、焦るな。お前がここにいることを不審に思う者が出れば、すべてが台無しになる」
薫は何度も、深くうなずいた。
わかっている。
会いたいからといって、すべてを投げ出すわけにはいかない。
ここまで自分を支えてくれた料理人や剛にも、迷惑をかけたくなかった。
「まずは朝の仕事を終わらせよう。そのあと、様子を見てみる」
料理人の言葉に、薫は小さく頭を下げた。
胸の中では、期待と不安が入り交じっていた。
*
朝食の準備が進むなか、剛は船内の通路を歩いていた。
新しい配置に慣れるだけでも大変だったが、頭の中は薫とさとるのことでいっぱいだった。
二人を会わせてやりたい。
それが、剛の一番の願いだった。
しかし、ここは軍の船であり、自由に人を移動させられる場所ではない。さとるには訓練や任務があり、料理人と薫にも持ち場がある。
少しでも不自然な動きをすれば、上官に目をつけられる可能性があった。
剛は通路の角で立ち止まり、向こうから歩いてきた兵士に道を譲った。
その兵士が通り過ぎたあと、ふと、さとるがいる方向へ目を向ける。
そのとき、ちょうどさとるが荷物を運んでくるのが見えた。
「さとる」
剛が小さく呼ぶと、さとるはすぐに顔を上げた。
「剛……!」
二人は近づいたが、周囲には兵士たちがいたため、長く話すことはできなかった。
剛は、さりげない口調で尋ねた。
「今朝の仕事はどうだ?」
「いつもどおりだよ。それより……薫は?」
剛は周囲を確認してから、声を潜めた。
「無事だ。料理人さんと一緒にいる。朝の仕事をしているはずだ」
さとるの顔に、ほんの少し安堵が浮かんだ。
「そうか……」
「さとる、もう少しだけ待ってくれ。俺たちも機会を探している」
さとるは、うなずいた。
「わかっている。無理はしないでくれ。薫まで危険な目に遭うのは嫌なんだ」
剛は、友人の目を見つめた。
「お前もだ。あいつに会いたい気持ちはわかるが、焦るな」
「……ああ」
短い会話だった。
けれど、その言葉の一つひとつに、二人の願いが込められていた。
剛は仕事へ戻り、さとるもまた、荷物を運ぶために歩き出した。
すぐそばにいる。
それなのに、会えない。
その現実が、二人の心を苦しめていた。
昼近くになり、厨房の仕事が一段落した。
料理人は、空になった鍋を片づけながら、薫に目配せした。
「少し、手伝いを頼みたい」
薫は、すぐにうなずいた。
「食器を、向こうの保管場所まで運んでくれ。俺もあとから行く」
それは、普段の仕事の範囲内だった。
薫は食器を抱え、指定された通路へ向かった。
通路には何人かの兵士がいたが、皆、自分の仕事に集中しているようだった。
彼女は顔を伏せ、歩調を乱さないように気をつけた。
曲がり角を抜けようとした、そのときだった。
向こう側から、一人の兵士が歩いてきた。
薫は、反射的に足を止めた。
その顔を見た瞬間、抱えていた食器がわずかに揺れた。
さとるだった。
間違えるはずがなかった。
何度も夢に見た顔。
会いたくて、会いたくて、沖縄まで追いかけてきた人。
その人が、今、目の前にいた。
さとるも、こちらに気づいたようだった。
最初は、ただの見知らぬ手伝いの者を見る目だった。
しかし、次の瞬間、さとるの視線が止まった。
帽子の下からのぞく目。
食器を抱えた手。
そして、わずかに震えている肩。
その目を、さとるは知っていた。
山口の高台で、何度も見つめた目だった。
「……薫?」
さとるの唇が、かすかに動いた。
薫は、息をすることさえ忘れた。
声を出してはいけない。
ここでは、男として振る舞わなければならない。
わかっている。
わかっているのに、目の前にさとるがいるというだけで、涙があふれそうになった。
薫は食器を抱えたまま、動けなくなった。
さとるは、周囲に兵士がいることを思い出し、すぐに表情を整えた。
近づいて抱きしめたい。
名前を呼びたい。
無事だったのかと、何度も確かめたい。
けれど、ここでそんなことをすれば、薫の正体が知られてしまう。
二人は、ほんの数歩の距離を隔てて立ち尽くしていた。
すれ違う兵士が、不思議そうに二人を見た。
その瞬間、薫は我に返った。
彼女は帽子のつばを下げ、さとるの横を通り過ぎようとした。
すれ違う、その一瞬。
さとるは、誰にも聞こえないほどの小さな声で言った。
「……生きていてくれて、ありがとう」
薫の足が止まりかけた。
その言葉を聞いた瞬間、こらえていた涙が頬を伝いそうになった。
けれど、彼女は振り返らなかった。
ただ、ほんのわずかにうなずいた。
それだけが、今の薫にできる精いっぱいの返事だった。
二人は、そのまますれ違った。
*
食器を保管場所へ運び終えた薫は、人目につかない場所で立ち止まった。
胸が苦しかった。
嬉しかった。
生きていた。
さとるは、確かに生きていた。
顔色は少し悪く、以前より痩せているように見えた。
それでも、あの目は変わっていなかった。
薫を見つめてくれた、あの優しい目だった。
彼女は口元を押さえ、声を出さずに泣いた。
もう一度会いたい。
今度こそ、きちんと話したい。
自分がどれほど会いたかったか、伝えたい。
けれど、今はまだ、それができない。
「……見つかったか」
背後から料理人の声がした。
薫は慌てて涙をぬぐい、振り返った。
料理人は、彼女の目を見て、すべてを察したようだった。
「会えたんだな」
薫は、何度も何度もうなずいた。
料理人は、安堵したように息を吐いた。
「そうか。よかったな」
薫は、感謝を伝えるように深く頭を下げた。
「ただ、今のは偶然だ。次に会うときは、もっと慎重にしなければならない。さとるも、お前の正体が知られないように気をつけてくれるだろう」
薫は、涙をぬぐいながらうなずいた。
料理人は、少しだけ表情を和らげた。
「会えたんだ。まずは、それを大事にしよう。これからどうするかは、剛とも相談する」
薫は、再び深く頭を下げた。
その胸には、初めて沖縄に着いたときとは違う希望が生まれていた。
さとるは生きている。
そして、自分の存在に気づいてくれた。
たった一言。
「生きていてくれて、ありがとう」
その言葉だけで、ここまでの苦しみが少しだけ報われた気がした。
*
その夜、さとるは寝床に横になっても、目を閉じることができなかった。
昼間の光景が、何度も頭の中によみがえる。
帽子を深くかぶった、あの姿。
自分を見つめた目。
そして、すれ違う瞬間に返してくれた、小さなうなずき。
間違いなく、薫だった。
本当に、薫がこの船にいる。
自分に会うために、危険を冒して、ここまで来てくれた。
さとるは、腕で目元を覆った。
「……薫」
声に出して名前を呼ぶ。
昼間は、何もできなかった。
抱きしめることも、手を握ることも、会いたかったと伝えることさえ、満足にはできなかった。
それでも、会えた。
ほんの一瞬だったけれど、確かに会えたのだ。
さとるは、静かに涙を流した。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
その言葉は、誰にも届かない。
けれど、胸の奥にある想いは、確かに強くなっていた。
もう一度、会いたい。
今度こそ、二人だけで話したい。
戦争が終わったら、何をしたいのか。
どこへ行きたいのか。
どんな暮らしをしたいのか。
そんな、当たり前の未来の話をしたい。
しかし、その願いを抱くほど、現実の厳しさも思い知らされた。
さとるには任務がある。
薫にも、正体を隠していなければならない事情がある。
そして、出撃の時は、少しずつ近づいている。
さとるは、拳を握りしめた。
「……まだ、終わりたくない」
生きたい。
薫と一緒に生きたい。
その願いを、今度こそ胸の奥に強く刻んだ。
同じ夜、薫もまた、眠れずにいた。
短くなった髪にそっと触れながら、昼間の再会を思い返していた。
さとるの顔を見た瞬間、胸がいっぱいになった。
本当は、駆け寄って抱きしめたかった。
もう二度と会えないかもしれないと思っていたこと。
沖縄へ向かう船の中で、何度も不安に押しつぶされそうになったこと。
この海を渡ってきても、さとるがすでに出撃してしまっていたらどうしようと、毎晩のように考えていたこと。
そのすべてを、話したかった。
けれど、今はまだ、その時ではなかった。
薫は、両手を胸の前で重ねた。
さとるは生きている。
それだけで、もう一度前を向ける気がした。
「……次は、ちゃんと話したい」
声に出さず、心の中でつぶやく。
次に会えたら、何を伝えよう。
会いたかった。
大好き。
あなたと一緒に生きたい。
その言葉を、今度こそ、まっすぐに伝えたい。
薫は、目を閉じた。
船の外では、夜の海が静かに揺れていた。
二人は同じ船の中で、互いの存在を確かめたばかりだった。
再会は、ほんの一瞬。
交わした言葉も、ほんのわずか。
それでも、その一瞬は、二人にとって何より大切な時間になった。
戦争が奪おうとしているものは、命だけではない。
会いたい人に会う自由も。
好きな人に想いを伝える自由も。
未来を夢見る自由も。
そのすべてが、二人から少しずつ奪われようとしていた。
それでも、二人はまだ諦めていなかった。
もう一度、会いたい。
今度こそ、想いを伝えたい。
そして、できることなら――。
二人で、生きて帰りたい。
その願いを胸に、さとると薫は、それぞれの場所で静かに夜を過ごした。
けれど、船内では、出撃に関わる新たな動きが始まろうとしていた。
二人がようやく再会できた、そのすぐそばで。
運命は、さらに厳しい選択を突きつけようとしていた。




