第五十九話 すぐそばにいる君
第五十九話 すぐそばにいる君
船内には、重い機械音と兵士たちの足音が響いていた。
沖縄の港に停泊する回天搭載潜水艦。その船内では、出撃に向けた準備が少しずつ進められていた。
さとるは、上官から命じられた作業を終え、通路の端で次の指示を待っていた。
剛がこの船に来た。
その事実だけでも、さとるの心は大きく揺れていた。山口で別れて以来、もう会えないかもしれないと思っていた友人と、まさか沖縄で再会するとは思っていなかった。
しかも、剛は薫が沖縄まで来たことを伝えてくれた。
薫が、自分を探している。
それを知ってから、さとるは何度も周囲を見てしまうようになった。
誰かが通路を歩いてくるたび、もしかしたら薫につながる知らせではないかと思う。甲板で人の声が聞こえるたび、無意識に顔を上げてしまう。
けれど、どれだけ待っても、薫の姿は見つからなかった。
「……落ち着け、さとる」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。
会いたい。
今すぐにでも、会いたい。
しかし、ここは軍の船だ。自由に歩き回ることはできない。薫が男の姿をしていることも、剛から聞いていた。彼女の正体が知られれば、どんなことになるかわからない。
自分が焦れば、薫を危険にさらすかもしれない。
さとるは、こぶしを握りしめた。
今は待つしかない。
そうわかっていても、心は少しも静まらなかった。
*
一方、船の厨房では、料理人が新しく運び込まれた食材や道具を確認していた。
薫は、その隣で黙々と手伝いをしていた。
帽子を深くかぶり、軍服の襟を整え、周囲の兵士たちに気づかれないように顔を伏せている。
同じ船に、さとるがいる。
剛がそう教えてくれたとき、薫は嬉しさのあまり、声を上げそうになった。
けれど、声を出すわけにはいかなかった。
自分は、ここでは男として扱われている。話せない者だという説明もされている。今まで料理人が守ってくれたおかげで、なんとか疑われずに済んでいた。
だからこそ、慎重にしなければならない。
「それを、こちらへ運んでくれ」
料理人の声に、薫はすぐにうなずいた。
大きな鍋を両手で持ち上げ、指定された場所へ運ぶ。
船が揺れ、鍋の中の水が波打った。
薫は慌てて足を踏ん張った。
「気をつけろ。船の中では、陸と同じようには動けないぞ」
料理人が小声で注意した。
薫は申し訳なさそうに頭を下げる。
料理人は、彼女の手元を見てから、少しだけ声を和らげた。
「焦らなくていい。ここで大事なのは、まず怪我をしないことだ」
薫は、その言葉に静かにうなずいた。
料理人は、彼女が何を考えているのか、すべてわかっているわけではない。
それでも、さとるに会いたくて沖縄まで来たことだけは、痛いほど伝わっていた。
「会いたいんだろう?」
料理人が、周囲に聞こえない声で尋ねた。
薫の手が止まった。
そして、帽子のつばを押さえたまま、小さくうなずいた。
「そうか」
料理人は、それ以上、何も尋ねなかった。
「俺もできるだけ協力する。ただ、今は持ち場を離れないことだ。会う機会ができたときに、余計な疑いを持たれないようにしておこう」
薫は、深く頭を下げた。
感謝の言葉を口にすることはできない。
けれど、彼女の目には、確かな感謝が浮かんでいた。
*
やがて、剛が厨房へやってきた。
「料理人さん、少しよろしいですか」
「どうした?」
剛は、薫をちらりと見た。
「さとるに会ってきました。あいつは、薫がこの船に来たことを知っています」
薫の肩が、大きく揺れた。
剛は彼女に向き直り、できるだけ穏やかな声で話した。
「さとるは、お前に会いたがっている。何度も、どうしているのかと聞かれた」
薫は、思わず両手を胸の前で握りしめた。
会いたい。
さとるも、自分に会いたいと思ってくれている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
しかし、剛はすぐに表情を引き締めた。
「ただ、今は自由に動けない。あいつは出撃に関わる任務についているし、俺たちも命令に従わなければならない。だから、無理に会いに行くのは危険だ」
薫の表情から、少しずつ笑みが消えていった。
同じ船にいるのに。
すぐ近くにいるはずなのに。
会うことさえ、簡単にはできない。
「でも、方法は探す」
剛は、はっきりと言った。
「俺があいつの様子を確かめながら、料理人さんとも相談する。薫が安全に会える機会を見つけるんだ」
料理人もうなずいた。
「厨房の仕事が落ち着く時間なら、周囲の状況を確認できるかもしれない。だが、勝手に動くのは駄目だ。船内の配置や見張りの状況を確かめてからにしよう」
薫は二人を見つめ、何度も深くうなずいた。
焦ってはいけない。
ここまで来たのだから、最後まで慎重に進まなければならない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、胸の中では、たった一つの願いが何度も繰り返されていた。
さとるに会いたい。
もう一度、あの人の顔を見たい。
*
その日の夕方、さとるは甲板へ出るよう命じられた。
夕日が海の向こうへ傾き、波の表面を赤く染めていた。
風は冷たく、潮の匂いが強かった。
さとるは、手すりのそばで立ち止まった。
この海の向こうに、薫がいる。
今は、同じ船の中にいるのかもしれない。
そう考えるだけで、胸が苦しくなった。
「さとる」
振り向くと、剛が立っていた。
「剛……」
「少し、話せるか?」
さとるは周囲を確かめ、うなずいた。
剛は、さとるの隣に立つと、しばらく海を見つめた。
「薫は、無事だ」
その言葉を聞き、さとるは安堵の息を漏らした。
「本当か?」
「ああ。料理人さんと一緒にいる。今は厨房の手伝いをしているはずだ」
「……そうか」
さとるは、目を閉じた。
よかった。
薫は無事だった。
沖縄まで来て、知らない兵士たちの中で、どれほど心細い思いをしているだろう。それでも、今は料理人がそばにいてくれている。
「剛、頼みがある」
「何だ?」
「薫に伝えてくれ。俺は、あいつに会いたい。会って、ちゃんと話がしたいんだ」
剛は、静かにうなずいた。
「伝える」
さとるは、海を見つめたまま続けた。
「でも、危ないことはしてほしくない。俺に会うために、これ以上、薫が傷つくのは嫌なんだ」
その声には、深い苦しみがこもっていた。
会いたい。
けれど、自分に会うために、薫が危険な目に遭うのは耐えられない。
その二つの気持ちが、さとるの胸の中でぶつかり合っていた。
剛は、友人の横顔を見つめた。
「お前の気持ちはわかる。だが、薫も、自分で決めてここまで来たんだ。あいつは、お前に会いたいんだよ」
さとるは、唇をかみしめた。
「……わかっている」
「だから、二人が会える方法を探そう。ただし、無茶はするな。今のお前には、お前にしかできないこともあるんだからな」
さとるは、ゆっくりとうなずいた。
剛の言うとおりだった。
今、自分が勝手に動けば、薫まで危険にさらしてしまう。
それでも、会いたいという気持ちは消えなかった。
「剛」
「何だ?」
「薫に伝えてくれ。俺は、あの日からずっと、あいつのことを忘れたことなんてないって」
剛は、まっすぐにさとるを見た。
「必ず伝える」
二人は、それ以上、言葉を交わさなかった。
沈んでいく夕日を、並んで見つめていた。
*
夜になり、厨房の仕事がようやく落ち着いた頃。
料理人は、薫に温かい食事を差し出した。
「少し食べておけ。今日は、ずいぶん動いただろう」
薫は、申し訳なさそうに頭を下げてから、食事を受け取った。
食欲はなかった。
けれど、ここで倒れてしまえば、さとるに会うこともできなくなる。
薫は、少しずつ食事を口に運んだ。
料理人は、その様子を見守りながら、静かに話し始めた。
「剛が、さとるに会ってきたそうだ」
薫の手が止まった。
「さとるは、お前のことを心配していた。会いたいとも言っていたらしい」
薫は、顔を上げた。
料理人は、小さくうなずいた。
「だが、あいつも自由には動けない。今は出撃に関わる任務があるそうだ」
薫の目に、涙が浮かんだ。
さとるも、苦しんでいる。
会いたいのに会えない。
生きているのに、いつ別れが来るかわからない。
そんな時間を過ごしているのだ。
薫は、食事を置き、胸の前で両手を握りしめた。
そして、料理人に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
どうか、もう一度だけ。
もう一度だけ、さとるに会わせてほしい。
料理人は、彼女の願いを受け止めるように、静かにうなずいた。
「できることはする。だが、必ず会えるとは約束できない。それだけは、わかっておいてくれ」
薫は、涙をぬぐい、うなずいた。
約束はできない。
そんなことは、わかっていた。
戦争は、何一つ確かなものを与えてくれない。
明日が来ることさえ、保証されていない。
それでも、薫は諦めたくなかった。
*
その夜、船内の寝床で、さとるはなかなか眠れずにいた。
剛から聞いた話が、何度も頭の中によみがえる。
薫は、この船にいる。
同じ船のどこかで、今も自分を想っている。
すぐ近くにいるのに、会えない。
こんなにも近いのに、声を聞くこともできない。
さとるは、静かに目を閉じた。
「……薫」
声に出さず、名前を呼ぶ。
君は今、何を考えているのだろう。
不安で、怖くて、泣いているのだろうか。
それとも、少しでも俺に会えることを信じて、待ってくれているのだろうか。
さとるは、胸元を強く握りしめた。
生きたい。
君に会いたい。
そして、できることなら、君と一緒に生きたい。
それは、決して大きな願いではなかった。
戦争がなければ、二人はどこにでも行けたはずだった。
海辺を歩き、夕日を眺め、何でもないことで笑い合えたはずだった。
けれど今、二人は同じ船の中にいるのに、会うことさえ許されない。
さとるの目から、一筋の涙が流れた。
その頃、厨房の片隅では、薫もまた、眠れずにいた。
帽子を外し、短くなった髪にそっと触れる。
鏡に映る自分の姿は、山口を出る前とはまるで違っていた。
けれど、心の中にある想いだけは、何一つ変わっていなかった。
「……さとる」
薫は声を出さずに、唇だけで名前をつぶやいた。
同じ船にいる。
その事実が、嬉しくて、苦しかった。
今すぐ会いに行きたい。
抱きしめたい。
生きている顔を見て、安心したい。
それなのに、今は何もできない。
薫は、涙をこらえながら、静かに手を合わせた。
どうか、明日もさとるが生きていますように。
どうか、二人が会える時間をください。
二人は、ほんの少し離れた場所で、同じ願いを抱いていた。
そして、船の外では、夜の海が静かに揺れていた。
戦争は、二人の願いなど聞いてはくれない。
出撃の時は、確実に近づいていた。
それでも、二人の心は、まだ互いを求めていた。
同じ船の中で。
すぐそばにいるはずの場所で。
再会を願いながら、二人はそれぞれの夜を過ごしていた。




