第五十八話 運命が導いた船
第五十八話 運命が導いた船
沖縄の港に、午後の強い日差しが降り注いでいた。
さとると再会した剛は、船を離れたあとも、しばらくその場から動けずにいた。
生きていた。
さとるは、まだ生きていた。
山口で一緒に訓練を受けていた頃、いつか自分たちにも出撃命令が下るのではないかと、二人で恐れていた。仲間の名前が呼ばれるたび、次は自分かもしれないと身体をこわばらせた。
そして、とうとう二人は別々の道を歩くことになった。
もう会えないかもしれない。
そう思っていた友人が、今、同じ沖縄の海のそばにいる。
剛は空を見上げ、深く息を吐いた。
「さとる……」
もう一度、あいつに会わせてやりたい。
薫を。
あれほど会いたがっていた薫を、今度こそ本人の前に連れていってやりたい。
けれど、剛にはわかっていた。
さとるが乗っている船は、普通の船ではない。回天を搭載した潜水艦の乗員たちが集められ、出撃に向けた準備を進めている場所だった。
軍の命令ひとつで、人の運命が決まる。
自分の気持ちだけでは、どうにもならないことがある。
それでも、何もせずにいることはできなかった。
剛は、薫と料理人がいる場所へ向かって歩き始めた。
そのときだった。
「おい、そこの兵士!」
背後から、鋭い声が響いた。
剛が振り返ると、軍服姿の上官が立っていた。
「お前は、山口から来た剛だな?」
「はっ。そうであります」
「先ほど、船の担当者から話があった。お前の配置について、変更が出た」
剛の胸がざわついた。
配置の変更。
それは、まさか。
「お前はこれから、回天搭載潜水艦の乗員として、指定された船に移ることになった。詳細は、こちらで説明する。すぐに準備をしろ」
剛は、一瞬、言葉を失った。
回天搭載潜水艦。
そして、指定された船。
それは、さとるが乗っている船だった。
「……自分が、あの船に?」
「何か不服でもあるのか」
「いえ! ありません!」
剛は、慌てて敬礼した。
上官はそれ以上説明せず、書類を手渡すと立ち去っていった。
剛は、手の中の書類を見つめた。
そこには、移動先の船と、乗船の指示が記されていた。
間違いなかった。
さとるのいる船だった。
偶然なのだろうか。
それとも、これも運命と呼ぶものなのだろうか。
剛は、思わず空を見上げた。
「……さとるのところへ、行けるのか」
喜びが胸に広がった。
しかし、その喜びはすぐに不安へと変わった。
自分が乗船するということは、薫を探すために自由に動ける時間が、さらに少なくなるということでもある。
薫は、まださとるに会えていない。
あの船のどこにいるのかも、正確にはわかっていない。
剛は書類を握りしめた。
「急がなければ……」
今度こそ、二人を会わせたい。
そのためなら、自分にできることをすべてやるつもりだった。
*
一方、港の別の場所では、薫が料理人の帰りを待っていた。
男物の軍服に身を包み、帽子を深くかぶったまま、船着き場の隅に立っている。
周囲には兵士たちが行き交い、誰もが忙しそうにしていた。
薫は、誰かと目が合うたびに視線をそらした。
女であることが知られたら、どうなるのだろう。
この船から降ろされるだけでは済まないかもしれない。
それでも、山口へ帰るつもりはなかった。
さとるが生きている。
そして、さとるは自分に会いたがっている。
剛がそう伝えてくれることを、薫は信じていた。
「……さとる」
心の中で名前を呼ぶ。
会いたい。
一目でいい。
もう一度、その顔を見たい。
そのとき、料理人が足早に戻ってきた。
薫は、すぐに彼のもとへ駆け寄った。
料理人は周囲を確かめてから、声を潜めた。
「薫、少し話がある」
薫は不安そうに彼を見つめた。
「さっき、船の担当者から新しい指示が出たんだ。人員の配置が変わるらしい」
薫の心臓が、どくんと鳴った。
「俺たちも、別の船へ移ることになった」
薫は驚き、目を見開いた。
別の船。
それでは、さとるを探す手がかりが遠のいてしまうのではないか。
そんな不安が胸をよぎった。
料理人は、彼女の表情を見て、すぐに言葉を続けた。
「まだ、心配するな。移動先を確認したら、詳しいことを話す」
薫は、落ち着こうとするように、ゆっくりとうなずいた。
料理人もまた、複雑な思いを抱えていた。
薫を沖縄まで連れてきた以上、彼女を無事にさとるのもとへ送り届けたい。
しかし、自分も軍の命令に従わなければならない立場だった。
そのとき、近くを通りかかった兵士が、料理人に声をかけた。
「料理担当の者だな? お前と、その手伝いの者は、これから指定された船へ移れとのことだ。詳しい指示は、あちらの担当者から受けろ」
料理人は敬礼した。
「了解しました」
兵士が去っていくと、料理人は薫を見た。
「……どうやら、決まったようだ」
薫は、息をのんだ。
「これから乗る船が、どこへ向かうのか。そこを確かめなければならない」
料理人は、彼女を安心させるように言った。
「大丈夫だ。俺がそばにいる。今までどおり、言葉を発せず、俺の指示に従っていればいい」
薫は、深く頭を下げた。
声を出すことはできない。
いや、正確には、声を出せば自分の正体を知られてしまう。
今は、ただ黙って従うしかなかった。
それでも、胸の中では、ひとつの願いが強くなっていた。
どうか、さとるのいる場所へ。
どうか、もう一度、会わせてください。
*
夕方が近づいた頃、剛は荷物をまとめ、指定された乗船場所へ向かっていた。
途中、料理人と薫の姿を見つけた。
「……料理人さん!」
剛が声をかけると、料理人は振り返った。
「剛か。お前も移動するのか?」
「ああ。新しい命令が出た。俺は、回天搭載潜水艦の乗員として、あの船に移ることになった」
「回天搭載潜水艦……?」
料理人の表情が変わった。
剛はうなずいた。
「さとるが乗っている船だ」
その言葉に、薫の身体がぴくりと動いた。
料理人は、彼女を見た。
そして、剛へ視線を戻した。
「それは、本当か?」
「ああ。さっき本人に会ってきた。さとるは生きている。お前たちが沖縄に来たことも、俺から伝えた」
薫は、帽子のつばを握りしめた。
さとるが生きている。
剛は、さとるに会った。
そして、今、自分たちも、その船へ向かうことになる。
偶然にしては、あまりにも不思議だった。
「……そうか」
料理人は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「俺たちにも、同じ船へ移る命令が出た」
剛は驚いた。
「何だって?」
「まだ詳しい配置は聞いていない。ただ、俺と、この手伝いの者は、指定された船へ移るよう命じられた」
剛は、薫を見た。
帽子を深くかぶり、黙って立っている彼女。
ここまで、危険を冒して沖縄へ来た。
さとるに会いたい一心で、髪を切り、男の姿になり、見知らぬ兵士たちの中に身を置いた。
そして今、軍の命令によって、さとるのいる船へ向かおうとしている。
剛は、思わず小さくつぶやいた。
「……こんなことがあるのか」
料理人も、信じられないという表情を浮かべていた。
「俺たちが望んで、そうなったわけじゃない。命令が出たから、従うだけだ」
「それでも……」
剛は、薫を見つめた。
「薫。お前、さとるに会えるかもしれないぞ」
薫の目に、みるみる涙が浮かんだ。
声を出すことはできなかった。
ただ、何度も、何度も、うなずいた。
涙が頬を伝いそうになり、慌てて帽子のつばを下げる。
料理人は、そんな彼女を見て、静かに言った。
「まだ、会えると決まったわけじゃない。船に乗っても、自由に動けるとは限らない。だから、浮かれすぎるな」
薫は、涙をこらえながらうなずいた。
わかっている。
会える保証はない。
同じ船に乗ったとしても、軍の規則がある。周囲には兵士たちがいる。自分の正体が知られれば、さとるに会うどころか、引き離されてしまうかもしれない。
それでも。
それでも、会える可能性が生まれたのだ。
それだけで、薫の心には、長い間消えかけていた希望が戻ってきた。
*
三人は、指定された船の担当者のもとへ向かった。
担当者は書類を確認し、剛に乗船命令を伝えたあと、料理人にも配置を説明した。
「お前は厨房を担当する。手伝いの者も同行させる。だが、軍務に支障が出ないよう、持ち場を離れないこと。指示には必ず従え」
「承知しました」
料理人が答えると、担当者は薫へ視線を向けた。
薫は背筋を伸ばし、黙って敬礼した。
「この者は話せないと聞いている。必要なことは、お前が伝えろ。責任を持って管理するように」
「承知しました」
料理人は、落ち着いた声で答えた。
担当者はそれ以上追及せず、次の書類へ目を移した。
こうして、三人は同じ船へ移ることになった。
剛は、胸の中に不思議な感覚を覚えていた。
自分は、さとるに会うために沖縄へ来たわけではない。
薫を助けたいと思ってはいたが、軍の命令が自分たちを同じ船へ導くなど、考えてもいなかった。
それなのに、今、三人は同じ方向へ進もうとしている。
剛は、薫を見た。
「……よかったな」
薫は、涙を浮かべたまま、深く頭を下げた。
料理人も、そっと息を吐いた。
「これが運命なのかどうかは、俺にはわからない。ただ、せっかく与えられた機会だ。無駄にしないようにしよう」
剛はうなずいた。
「そうだな」
そして、三人は船へ向かって歩き始めた。
*
船に乗り込むと、潮の匂いが一層強くなった。
甲板では、兵士たちが忙しそうに荷物を運んでいた。
剛は周囲を見回した。
この船のどこかに、さとるがいる。
薫もまた、帽子の下から、必死に周囲を見つめていた。
けれど、すぐにさとるの姿を見つけることはできなかった。
料理人が、二人に小さな声で言った。
「まずは命令どおりに動こう。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない」
剛はうなずいた。
薫も、静かにうなずいた。
そのとき、甲板の向こうから、兵士たちの声が聞こえた。
「乗員は配置につけ!」
「移動してきた者は、担当者の指示を受けろ!」
その声に、剛は背筋を伸ばした。
薫は、胸元で拳を握りしめた。
すぐ近くに、さとるがいるかもしれない。
同じ船の中にいるかもしれない。
ほんの数歩先にいるのかもしれない。
それなのに、今は名前を呼ぶことさえできない。
薫の目には、再び涙が浮かんだ。
嬉しいのに、苦しい。
希望が見えたのに、まだ触れることができない。
そんな思いが、胸の中で何度もぶつかり合っていた。
その頃、船内の別の場所では、さとるが上官から新たな配置について説明を受けていた。
「人員の一部が追加される。移動してきた者もいるので、各自、持ち場を守れ」
「了解しました」
さとるは敬礼した。
そして、上官が去ったあと、ふと甲板の方へ目を向けた。
なぜだろう。
理由はわからない。
けれど、胸の奥が、いつもとは違うざわめきを感じていた。
まるで、何かが近づいているような。
もうすぐ、何かが変わるような。
さとるは、ゆっくりと息を吸った。
薫が沖縄にいる。
剛も、今はこの船に来ている。
それでも、まだ会えていない。
だが、今度こそ。
今度こそ、二人に会えるのだろうか。
さとるは、甲板へ続く通路を見つめた。
その向こうから、足音が近づいてくる。
一つ、また一つ。
やがて、聞き覚えのある声が、遠くから響いた。
「こちらの者たちは、指定された持ち場へ――」
さとるは顔を上げた。
その声の向こうに、まだ知らない運命が待っていた。
三人を同じ船へ導いた命令。
それが偶然なのか、運命なのか、誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、薫とさとるの距離が、これまでで最も近くなったということだった。
そして、この船の中で、二人の運命は再び交わろうとしていた。




