第五十七話 再会、そして伝えられた真実
第五十七話 再会、そして伝えられた真実
沖縄の朝は、まだ薄暗かった。
港には、夜明け前から兵士たちの足音が響いていた。荷物を運ぶ者、上官の指示を受けて走る者、船へと乗り込んでいく者。誰もが忙しそうに動いていたが、その顔には、戦争の疲れと、いつ終わるとも知れない緊張が刻まれていた。
薫は、料理人の後ろを歩いていた。
男物の軍服に身を包み、帽子を深くかぶり、言葉を発することなく、ただ黙って周囲の様子をうかがっている。
沖縄に来れば、さとるに会える。
船に乗る前は、それだけを信じていた。
しかし、実際に沖縄へたどり着いてみると、そこには見知らぬ兵士と見知らぬ船ばかりがあり、さとるがどこにいるのか、何一つわからなかった。
昨日、港で耳にした言葉が、何度も頭の中をよぎる。
――回天を積んだ潜水艦が、すでに出撃したらしい。
もし、その中にさとるがいたら。
もし、自分が沖縄へ着くよりも先に、さとるが海へ出てしまっていたら。
考えるたびに、胸が締めつけられた。
「……焦るな」
前を歩いていた料理人が、周囲に聞こえないほどの小さな声で言った。
薫は顔を上げた。
「まだ、何も確かめられていない。噂だけで、あの人が出撃したと決まったわけじゃない」
薫は唇を強く結び、うなずいた。
料理人は彼女を一度だけ振り返り、安心させるように目を細めた。
「昨日、港の者に少し話を聞いてみた。回天を積んだ潜水艦が集まる場所と、兵士たちが移動する先について、何か手がかりがないかと思ってな」
薫の目が大きくなった。
料理人は声を潜めた。
「だが、詳しいことは簡単には聞けない。軍のことを尋ねすぎれば、俺たちまで怪しまれる。だから、少しずつ調べるしかない」
薫は、両手をぎゅっと握った。
早く会いたい。
ただ一度でいい。
さとるが生きていることを、自分の目で確かめたい。
そして、伝えたい。
自分がどれほど彼を想い、どれほどの思いで、この海を渡ってきたのかを。
そのときだった。
港の向こうから、数人の兵士が歩いてきた。
彼らは別の船へ向かっているようだったが、そのうちの一人が料理人に気づき、声をかけた。
「おい、あんた。以前、山口から来た兵士たちの食事を手伝っていたことがあるか?」
料理人は一瞬、足を止めた。
「……それが、どうした?」
「いや、さっき上官から聞いたんだ。回天を積んだ潜水艦の乗員が、こちらの船に移ることになったらしい。山口から来た連中もいるそうだ」
その言葉に、薫の身体が強張った。
山口。
回天を積んだ潜水艦。
その二つの言葉が、頭の中で重なった。
料理人も、わずかに表情を変えた。
「その兵士たちは、どこにいる?」
「詳しいことは知らん。ただ、港の奥に停泊している船へ移ると聞いた。俺もこれから荷物を届けに行くところだ」
兵士はそう言うと、足早に去っていった。
料理人は、しばらくその背中を見つめていた。
やがて、薫へ視線を戻す。
「……手がかりになるかもしれない」
薫は何度も、必死にうなずいた。
けれど、料理人の顔には、まだ慎重な色が残っていた。
「ただし、確かめるまでは騒ぐな。お前が女だと知られれば、ここにいられなくなるかもしれない。俺から話を聞いてくる。お前は、ここで待っていろ」
薫は不安そうに料理人を見上げた。
自分だけが残されることが怖かった。
しかし、ここで騒いでしまえば、せっかくたどり着いた沖縄から追い出されるかもしれない。
薫は唇をかみしめ、ゆっくりとうなずいた。
料理人は彼女の肩に軽く手を置いた。
「必ず戻る。今度こそ、あの男に近づける道を探してみる」
そう言い残し、彼は兵士たちの向かった方向へ歩き出した。
薫はその背中が人混みに消えていくまで、じっと見つめていた。
どうか。
どうか、さとるがそこにいますように。
どうか、まだ間に合いますように。
薫の祈りは、港を吹き抜ける風の中に消えていった。
*
同じ頃、港の奥に停泊していた一隻の船では、兵士たちが次々と乗り込んでいた。
その船には、回天を搭載した潜水艦の乗員たちが集められていた。
さとるは、甲板の端に立っていた。
沖縄へ来てから、どれほどの時間が過ぎただろう。
訓練を繰り返し、上官の命令に従い、出撃の準備が整うのを待つ。
日々は同じように過ぎていくのに、死が近づいているという感覚だけは、日に日に強くなっていた。
仲間の姿が少しずつ減っていく。
昨日まで隣で食事をしていた者が、次の日にはいなくなっている。
出撃した者の行方を、誰も詳しく語ろうとはしなかった。
ただ、報告だけが届く。
そして、彼らが戻ってくることはなかった。
さとるは、無意識に胸元へ手をやった。
そこに、薫への想いがあるような気がした。
実際には、何もない。
手紙はすでに剛に託してある。
薫へ宛てた手紙も、両親へ宛てた手紙も、自分の手から離れてしまった。
今、さとるの手元に残っているのは、薫と過ごした時間の記憶だけだった。
高台で見た海。
風に揺れる薫の髪。
彼女が泣きながら、それでも自分の前では笑おうとしていた顔。
そして、別れ際に交わした、あの言葉。
――また明日。
あの言葉を交わしたとき、二人とも、本当に明日が来ると信じていたわけではなかった。
それでも、明日があることを願っていた。
「さとる」
背後から声がした。
振り返ると、同じ船に乗る兵士が立っていた。
「少し休んだらどうだ。顔色が悪いぞ」
「大丈夫だ」
そう答えたものの、さとる自身にも、自分が大丈夫ではないことはわかっていた。
夜は眠れない。
食事は喉を通らない。
目を閉じれば、薫の顔が浮かぶ。
そして、その顔が二度と見られなくなるかもしれないと思うと、胸の奥が冷たくなった。
「……なあ」
さとるは、甲板の向こうを見つめたまま言った。
「もし、お前に会いたい人がいるとして……その人に、もう二度と会えないかもしれないとわかっていたら、どうする?」
兵士は、すぐには答えなかった。
しばらくしてから、静かに口を開いた。
「会いたいと思うだろうな」
「……それだけか?」
「それ以上、何がある?」
兵士は苦笑した。
「会いたいなら、会いたいと思う。それが人間だろう。軍人だって、死ぬのが怖くないわけじゃない」
その言葉に、さとるは目を伏せた。
自分だけではない。
みんな、何かを残してきた。
帰りたい家がある。
会いたい家族がいる。
もう一度、話したい人がいる。
それなのに、戦争は彼らに、そうした当たり前の願いさえ口にすることをためらわせていた。
「……俺は、生きたいんだ」
さとるは、誰に聞かせるともなく言った。
「薫に会いたい。もう一度、あいつと話したい。戦争が終わったら何をしようかって、そんな話をしたいんだ」
声が震えた。
「でも、俺は……」
その先は、言葉にならなかった。
兵士は何も言わず、さとるの隣に立っていた。
慰める言葉など、見つからなかったのだろう。
さとるも、それ以上は話さなかった。
ただ、海を見つめていた。
その海の向こうに、薫がいることなど、まだ知るはずもなかった。
昼前、船の出入口が騒がしくなった。
新たに乗り込んできた兵士たちが、上官の指示を受けながら、それぞれの持ち場へと移動していた。
さとるは荷物を運ぶよう命じられ、甲板の奥へ向かった。
重い荷物を抱え、人の間をすり抜けていく。
そのとき、船の入口付近で、聞き覚えのある声がした。
「こちらの者に、少し確認したいことがあるのですが」
さとるは、足を止めた。
聞き間違いだろうか。
いや。
忘れるはずがない。
何度も自分を叱り、何度も背中を押してくれた男の声。
自分の恋を知り、秘密を守り、最後には薫への手紙まで託された男の声。
剛だった。
さとるは、荷物を抱えたまま顔を上げた。
人の隙間から、軍服姿の男が見えた。
少しやつれたように見えたが、間違いなかった。
剛だった。
「……剛?」
思わず、声が漏れた。
その声に、剛が振り返った。
一瞬、二人の目が合った。
剛は驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間には、さとるの名を呼んでいた。
「さとる!」
さとるは荷物を近くに置き、剛のもとへ走った。
「剛! どうしてお前がここにいるんだ!」
剛も歩み寄り、さとるの肩を強くつかんだ。
「生きていたな……!」
その言葉は、再会を喜ぶ声であると同時に、安堵の声でもあった。
剛の目は赤くなっていた。
さとるも、何かを言おうとしたが、喉が詰まって言葉が出なかった。
二人はしばらく、互いの顔を見つめていた。
山口で訓練を受けていた日々。
仲間の名前が呼ばれ、自分たちの名前が呼ばれなかった日の安堵と恐怖。
戦争が終わったら何をしたいかと、くだらない話をして笑った夜。
そのすべてが、二人の間にあった。
「……お前、無事だったんだな」
さとるが、ようやく言った。
「ああ。お前こそ、よく生きていてくれた」
剛は、さとるの肩から手を離さなかった。
まるで、もう二度と会えないかもしれないと思っていた友人が、目の前にいることを確かめるように。
やがて、さとるの表情が変わった。
「待てよ。お前、山口に残っていたはずだろう? どうして沖縄に……」
剛は、周囲を見回した。
ここで話すことではない。
二人の再会に気づいた兵士たちが、ちらちらとこちらを見ていた。
「詳しい話は、あとだ。今は少し、落ち着いて話せる場所を探そう」
剛がそう言うと、さとるは不安そうにうなずいた。
二人は上官に簡単な事情を伝え、短い時間だけ話をする許可を得た。
船内の人目につきにくい場所へ移動すると、剛はようやく口を開いた。
「さとる……お前に、どうしても伝えなければならないことがある」
その声は、いつもの剛とは違っていた。
さとるは息をのんだ。
「……何だ?」
剛は一度、目を閉じた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
「薫のことだ」
その名前を聞いた瞬間、さとるの顔から血の気が引いた。
「薫に……何かあったのか?」
「落ち着け。薫は、生きている」
剛は、すぐにそう言った。
その言葉に、さとるは大きく息を吐いた。
だが、剛の表情は晴れなかった。
「ただ……お前に会いたい一心で、あいつは、とんでもないことをしたんだ」
「……どういうことだ?」
剛は、薫が山口の高台で泣いていたことを話した。
さとるが出撃してしまったのではないかと恐れ、何もわからないまま沖縄へ行こうとしていたこと。
男として船に乗る以外に道がないと知り、長かった髪を切ったこと。
軍服を借り、帽子を深くかぶり、女であることを隠して船に乗ろうとしたこと。
そして、一度は乗船を断られかけながらも、料理人の協力を得て、言葉を発しない者として船に乗る許可を得たこと。
剛は、ひとつひとつ、できるだけ正確に伝えた。
さとるは、途中から一言も発しなかった。
ただ、剛の話を聞きながら、拳を強く握りしめていた。
薫が髪を切った。
自分に会うために。
自分がどこにいるのかもわからないまま、見知らぬ土地へ渡ってきた。
軍服を着て、女であることを隠して。
見つかれば、どんな目に遭うかわからない。
それでも、薫は来たのだ。
「……そんな」
さとるの声が震えた。
「そんなことをしたら、薫まで危険な目に遭うじゃないか……!」
「わかっている」
剛は、苦しそうにうなずいた。
「俺も何度も止めようとした。でも、あいつは諦めなかった。お前が出撃してしまったら、もう二度と会えないかもしれない。最後でもいいから、自分の目でお前に会いたい。そう言っていた」
さとるは顔を覆った。
胸の奥が、痛いほど締めつけられた。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
薫の声を聞きたかった。
もう一度、あの高台で、何でもない話をしたかった。
だが、彼女が自分に会うために、そこまで危険を冒していたなんて。
「……俺のせいだ」
さとるは、かすれた声で言った。
「俺が、あいつを……」
「違う!」
剛が、強く言った。
さとるが顔を上げる。
「お前のせいじゃない。薫は、自分で決めたんだ。お前に会いたい、自分の気持ちを伝えたいって。その気持ちを、誰かのせいにするな」
「でも……」
「もちろん、危険なことだ。俺だって、あいつを無事にここまで連れてこられるか、何度も怖くなった。今だって、無事でいるか心配だ」
剛の声も、わずかに震えていた。
「それでも、薫は沖縄に来た。お前が生きていると信じて、ここまで来たんだ」
さとるは、目を閉じた。
頭の中に、薫の姿が浮かんだ。
高台で海を見つめていた彼女。
涙をこらえながら、笑おうとしていた彼女。
自分の前では、いつも強くあろうとしていた彼女。
本当は、誰よりも怖かったはずだ。
一人で沖縄へ向かうことも。
見知らぬ兵士たちの中に身を置くことも。
そして、自分に会えないまま、戦争に引き裂かれてしまうことも。
それでも、薫は来た。
「……薫は、今どこにいる?」
さとるは、剛の腕をつかんだ。
「どこにいるんだ? 会わせてくれ。頼む、剛……!」
剛は、さとるの手をそっと握り返した。
「俺も、正確な場所まではわからない。船に乗るところまでは確認できた。料理人が一緒にいるはずだ。沖縄に着いたことも、間違いないと思う」
「沖縄に……いるんだな?」
「ああ。少なくとも、ここへ来るために船に乗った。お前を探しているはずだ」
さとるは、壁に手をついた。
沖縄。
自分がいる、この沖縄に。
薫が来ている。
同じ空の下に。
同じ海のそばに。
それなのに、まだ会えていない。
ほんの少し場所が違うだけで、会いたい人に会えない。
その現実が、さとるには信じられなかった。
「……会いたい」
声が漏れた。
「剛、俺は……薫に会いたい」
その言葉を口にした途端、こらえていたものが崩れた。
さとるは、両手で顔を覆った。
「俺は、死ぬのが怖い。ずっと怖かった。でも、薫に会えないまま死ぬのは……嫌だ。そんなの、嫌なんだ」
剛は、何も言わなかった。
ただ、さとるのそばに立ち、その震える肩を支えた。
やがて、さとるは顔を上げた。
目には涙が浮かんでいた。
「薫に伝えてくれ。俺は……まだ生きているって」
「わかった」
「そして、会いたいって。もう一度、あいつに会いたいって……」
「必ず伝える」
剛は、強くうなずいた。
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「ただし、さとる。今のお前には、自由に動けない事情がある。俺にもある。薫を探すにしても、軍の目を引けば、あいつの立場まで危うくなる。焦るな。無茶はするな。俺も、できる限りのことをする」
さとるは、唇をかみしめた。
会いたい。
今すぐにでも、船を降りて探しに行きたかった。
港の隅々まで歩き、薫の名前を呼びたかった。
けれど、それができないこともわかっていた。
自分は軍人であり、出撃を待つ身だった。
そして、薫もまた、正体を隠して沖縄にいる。
二人が会うためには、慎重に動かなければならなかった。
「……わかった」
さとるは、震える声で答えた。
「俺は待つ。だけど、剛……頼む。薫を一人にしないでくれ」
「わかっている」
剛は、まっすぐにさとるを見た。
「俺は、あいつをここまで来させた以上、最後まで見捨てるつもりはない。お前にも、薫にも、できることをする」
さとるは、深く頭を下げた。
「ありがとう……剛」
「礼なんかいらない」
剛は、少しだけ笑った。
「お前が生きていてくれた。それだけで、俺は……」
言葉が途切れた。
剛もまた、涙をこらえていた。
かつて山口で、二人は同じ訓練を受けていた。
自分たちの名前が呼ばれる日が来ることを恐れながら、それでも、いつか戦争が終わることを願っていた。
その願いは、まだ叶っていない。
それでも、二人は再会した。
戦争が引き裂こうとする世界の中で、ほんの一瞬、友人同士が再び顔を合わせることができたのだ。
そのことが、今は何よりも大きかった。
剛が船内を離れる前、さとるはもう一度、彼を呼び止めた。
「剛」
「何だ?」
「薫に会えたら……あいつに言ってくれ」
さとるは、少しだけ迷ってから、口を開いた。
「来てくれて、ありがとうって。危ないことをするなって、言いたい。でも……俺に会うために来てくれたことが、嬉しくないわけがないんだ」
剛は、静かにうなずいた。
「わかった。ちゃんと伝える」
「それから……」
さとるは、目を伏せた。
「俺は、まだ諦めていないって」
剛は、何も言わずに聞いていた。
「戦争が終わることも。薫と、もう一度一緒に生きることも。……まだ、諦めたくないんだ」
その言葉を口にするのは、苦しかった。
自分がどこへ向かうことになるのか、さとるは知っていた。
回天に乗るということ。
出撃命令が下れば、二度と戻れない可能性が極めて高いということ。
どれほど生きたいと願っても、その願いが叶う保証などないということ。
それでも、薫が沖縄にいると知った今、さとるの心には、かすかな光が差していた。
会えるかもしれない。
もう一度、あの顔を見られるかもしれない。
そして、たとえ短い時間であっても、自分の気持ちを伝えられるかもしれない。
剛は、さとるの肩を強くたたいた。
「諦めるな。俺も諦めない」
それが、二人にできる精いっぱいの約束だった。
剛は船を離れ、薫のいる場所を探すために港へ戻っていった。
さとるは、その背中を見送った。
海から吹く風が、頬をかすめた。
さとるは、ゆっくりと目を閉じた。
薫。
君は、ここまで来てくれたんだな。
俺に会うために。
俺が生きていると信じて。
ならば、俺も。
もう一度、君に会いたい。
どれほど戦争が二人を引き離そうとしても。
どれほど死の影が近づいていても。
もう一度だけ、君の顔を見たい。
君の声を聞きたい。
そして、できることなら――。
君と一緒に、生きたい。
さとるは、再び海を見つめた。
その海の向こうから、薫が自分を探している。
二人の距離は、確かに近づいていた。
けれど、二人を隔てるものは、まだあまりにも多かった。
戦争。
軍の規則。
隠された正体。
そして、いつ下されるかわからない出撃命令。
再会は、もう遠い夢ではないのかもしれない。
しかし、再会できるという保証も、どこにもなかった。
それでも、さとるの胸には、今までとは違う願いが生まれていた。
――薫に会うまでは、生きていたい。
その願いを胸に、さとるは再び、待ち受ける訓練へと戻っていった。




