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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第五十六話 すぐそばにいるはずなのに

第五十六話 すぐそばにいるはずなのに


 沖縄に着いた翌朝、薫は、まだ薄暗い時間に目を覚ました。


 身体は疲れ切っていた。船の上で十分に眠れなかったことに加え、昨日は港での作業中、何度も兵士に見られるのではないかと怯えていた。


 目を閉じれば、あのときの声がよみがえる。


『おい、おまえ。名前は』


 あの問いかけに、もし料理人が間に入ってくれなかったら。


 もし、自分が恐怖に耐えられず、思わず声を出してしまっていたら。


 考えるだけで、背中が冷たくなった。


 薫は、そっと帽子に手を伸ばした。


 短く切った髪が、帽子の下に収まっていることを確かめる。軍服の襟を整え、袖の汚れを払う。それから、壁に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。


 今日からは、沖縄での生活が始まる。


 船に乗り込むまでが大変だった。


 けれど、本当に難しいのは、ここからなのかもしれない。


 さとるを探さなければならない。


 彼がどこにいるのか、誰に尋ねればよいのか。何も分からないまま、ただ時間だけが過ぎていくことが怖かった。


 沖縄に着けば、すぐに会えると思っていたわけではない。


 それでも、ここまで来れば何かが変わると信じていた。


 ところが、昨日一日を過ごしても、さとるにつながる手がかりは何一つ見つからなかった。


 薫は両手を膝の上で握りしめた。


 ――さとるは、どこにいるの。


 心の中で問いかけても、答えは返ってこない。


 今も生きているのか。


 無事なのか。


 それとも、すでに自分の知らない場所へ移されてしまったのか。


 考えたくないことほど、頭の中に浮かんできた。


 薫は、慌てて首を横に振った。


 まだ、何も分からない。


 悪いことばかり考えていたら、動けなくなってしまう。


 ここまで来たのだから、できることを探さなければならなかった。


     *


 厨房へ向かうと、料理人はすでに朝食の準備を始めていた。


 薫の姿を見ると、手を止めて言った。


「早いな。眠れたか」


 薫は、少し迷ってから首を横に振った。


「そうか。まあ、無理もないか」


 料理人は、温めた汁物を器によそい、薫の前に置いた。


「先に食べろ。今日は昨日より動くことになるかもしれない」


 薫は器を受け取った。


 温かな湯気が顔に触れた。


 その瞬間、山口での暮らしが胸によみがえった。


 朝、家の中に漂っていた食事の匂い。


 母が台所で動く音。


 何でもない一日の始まり。


 あのころは、明日も同じ朝が来ると思っていた。


 さとると出会ってからは、その何でもない日々の中に、少しずつ特別な時間が増えていった。


 高台で会うこと。


 人目を避けて話すこと。


 短い時間でも、互いの顔を見られること。


 それだけで、明日が来るのを楽しみにできた。


 けれど今は、朝が来ても、心が休まることはなかった。


 さとるが生きているのかさえ分からない。


 薫は、器を両手で包んだ。


「食べられそうか」


 料理人の声に、薫は我に返った。


 薫はうなずき、少しずつ口に運んだ。


 食欲はなかった。


 それでも、料理人の言葉を思い出した。


 身体を大事にしなければ、さとるに会うために動くこともできない。


 薫は、ゆっくりと食べ進めた。


 料理人は、薫が食べ終わるのを待ってから話し始めた。


「今日は、荷物の整理と食事の準備がある。俺はしばらくここを離れられない」


 薫は、うなずいた。


「おまえも、俺の手伝いをしてくれ。ただし、昨日みたいに一人で歩き回るな。ここはおまえが知っている場所じゃない。どこに誰がいるのかも分からないんだからな」


 薫は、少しだけ目を伏せた。


 自分でも分かっていた。


 さとるを探したい気持ちが強すぎて、周囲が見えなくなりそうになる。


 けれど、ここで騒ぎを起こしたら、さとるを探すどころではなくなる。


 料理人の言葉を、忘れてはいけなかった。


     *


 午前中、薫は料理人の手伝いをしながら、周囲の様子を注意深く見ていた。


 港には、さまざまな人がいた。


 荷物を運ぶ兵士。


 指示を出す者。


 忙しそうに通り過ぎていく者。


 誰もが自分の仕事に追われているように見えた。


 その中に、さとるを知っている人がいるかもしれない。


 そう思うたび、薫は顔を上げた。


 けれど、見えるのは知らない顔ばかりだった。


 話しかけたい。


 さとるという名前を出して、知っているかどうか尋ねたい。


 どこに行けば会えるのか、教えてほしい。


 しかし、そんなことをすれば、自分が何者なのかを説明しなければならなくなる。


 なぜ、一人の兵士を探しているのか。


 どうして、料理人の手伝いとしてここにいるのか。


 なぜ、言葉を話さないのか。


 質問が重なれば、いつか嘘が破綻する。


 薫は、何度も口を開きかけ、そのたびに思いとどまった。


 そんな自分が、情けなかった。


 さとるに会うために、ここまで来た。


 髪を切り、慣れない軍服を着て、怖さを押し殺して船に乗った。


 それなのに、今は誰かに尋ねることすらできない。


 自分には、何もできないのではないか。


 そんな思いが、胸の奥で膨らんでいった。


「おい、そっちの箱を取ってくれ」


 料理人に声をかけられ、薫は慌てて動いた。


 箱を持ち上げ、指定された場所へ運ぶ。


 目の前の仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。


 けれど、作業が終われば、また同じ不安が戻ってくる。


 さとるは、どこにいるのだろう。


 この場所から、どれほど離れているのだろう。


 薫は、手に持った布巾を強く握った。

昼近くになったころ、料理人が荷物の確認をするため、少し離れた場所へ向かうことになった。


「すぐ戻る。ここで待っていろ」


 そう言い残し、料理人は歩いていった。


 薫は、言われたとおり、その場に残った。


 周囲では、兵士たちが行き交っている。


 少し離れたところで、二人の男が話をしていた。


「次の任務はどうなるんだろうな」


「俺たちに分かるわけがないだろう」


「沖縄の海も、ずいぶん物騒になったらしい」


 その言葉に、薫の心臓が強く打った。


 沖縄の海。


 任務。


 さとるがいるかもしれない場所。


 薫は、思わず耳を澄ませた。


「回天を積んだ潜水艦も、いつ出るか分からんらしいぞ」


 その瞬間、薫の全身から血の気が引いた。


 回天。


 その言葉は、薫にとって、ただの兵器の名前ではなかった。


 さとるが訓練を受けていたもの。


 さとるが乗るかもしれないもの。


 そして、一度出撃すれば、戻れないかもしれないもの。


 薫は、息をすることさえ忘れた。


「もう出撃した連中もいるんだろうな」


「そうらしいな。詳しいことは知らんが」


 二人の会話は、それ以上続かなかった。


 彼らは別の方向へ歩いていった。


 薫は、その場に立ち尽くした。


 耳の奥で、二人の言葉が何度も繰り返されている。


 潜水艦。


 回天。


 出撃。


 さとるが、すでに出撃していたら。


 そんな考えが、突然、現実味を帯びて迫ってきた。


 今まで、心のどこかで、彼はまだ訓練を続けていると思っていた。


 自分が沖縄に着けば、まだ間に合うかもしれない。


 そう信じていたかった。


 けれど、戦争は薫の都合など待ってくれない。


 薫が船に乗るかどうか迷っていた間にも、さとるの時間は進んでいた。


 薫が髪を切り、軍服を手に入れ、船に乗る方法を探していた間にも、彼には命令が下されていたかもしれない。


 薫は胸元を押さえた。


 呼吸が苦しい。


 目の前の景色が、少しずつ遠くなっていく。


 ――お願い。


 心の中で、必死に願った。


 ――まだ、行かないで。


 けれど、そんな願いが届くはずもなかった。


 さとるが今どこにいるのか、薫には分からない。


 彼が何を命じられ、どんな状況にいるのかも分からない。


 自分は、ただここで立ち尽くしているだけだった。


「おい、どうした」


 戻ってきた料理人の声で、薫は我に返った。


 料理人は、薫の顔を見るなり眉を寄せた。


「顔色が悪いぞ。何かあったのか」


 薫は、言葉を話せないという設定を思い出し、口を閉じた。


 何を伝えればいいのか分からなかった。


 回天の話を聞いたこと。


 出撃した者がいると知ったこと。


 さとるも、もう海へ出てしまったかもしれないこと。


 全部を伝えたかった。


 けれど、伝える方法がない。


 薫は、震える手で、海の方向を指さした。


 それから、自分の胸に手を当て、両手を強く握りしめた。


 料理人は、その仕草をじっと見つめた。


「……会いたい人のことか」


 薫の目に、涙が浮かんだ。


 何度もうなずいた。


 料理人は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「何か、よくない話を聞いたんだな」


 薫はうなずいた。


「だが、まだ確かなことは分からない。誰かの噂だけで、最悪のことを決めつけるな」


 薫は顔を上げた。


「会いたいなら、探すしかない。ただし、焦って動くな。おまえが倒れたり、捕まったりしたら、それこそ会えなくなる」


 その言葉に、薫は唇をかんだ。


 分かっている。


 分かっているのに、時間がないような気がしてならなかった。


 さとるが、今この瞬間にも危険な場所へ向かっているかもしれない。


 自分が迷っている時間は、もう残されていないかもしれない。


 薫は、涙をこらえながら、何度も頭を下げた。


 料理人は、それ以上、何も尋ねなかった。


     *


 一方、さとるは、狭い室内で次の指示を待っていた。


 周囲には、同じように命令を待つ兵士たちがいた。


 誰もが口数を減らしている。


 冗談を言う者も、ふざけて笑う者もいなかった。


 少し前までなら、仲間たちの間にも、何気ない会話があった。


 家のこと。


 故郷のこと。


 戦争が終わったら何をしたいか。


 そんな話をしている間だけは、彼らも普通の若者に戻れた。


 だが、出撃の話が現実に近づくにつれ、誰もが未来について語ることをためらうようになった。


 未来を口にすれば、失うことが怖くなる。


 大切なものを思い出せば、ここから離れたくなる。


 生きたいと願えば、命令に従うことが、ますます苦しくなる。


 さとるは、膝の上で拳を握っていた。


 薫の顔が浮かんでいる。


 最後に会ったとき、彼女は泣いていた。


 それでも、無理に帰る約束を求めなかった。


 さとるは、あのときの彼女の表情を忘れられなかった。


 自分を困らせたくない。


 けれど、行ってほしくない。


 その二つの気持ちを抱えたまま、彼女は自分を見つめていた。


 さとるは、唇をかみしめた。


 自分も、同じだった。


 任務に従わなければならない。


 そう教えられ、訓練を続けてきた。


 けれど、心の中では、何度も逃げたいと思った。


 薫のところへ帰りたい。


 何も知らなかったころのように、ただ一人の青年として暮らしたい。


 そんな願いが、消えることはなかった。


「さとる」


 仲間が声をかけた。


「大丈夫か」


 さとるは、すぐに答えられなかった。


 大丈夫だと答えれば、嘘になる。


 怖いと言えば、相手を困らせるかもしれない。


 だから、少しだけ考えてから言った。


「……怖いよ」


 仲間は、黙ってさとるを見た。


「俺は、死ぬのが怖い。薫に会えなくなるのも怖い」


 口にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ外へ出た気がした。


「帰りたいんだ。あいつのところへ」


 仲間は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、自分の手を見つめながら、小さく答えた。


「俺だって、帰りたいよ」


 その声は、ひどく静かだった。


「母さんに会いたい。家に帰りたい。こんなところじゃなくて、普通に暮らしたい」


 さとるは、仲間の横顔を見た。


 そこにいたのは、特別な人間ではなかった。


 自分と同じように、未来を望んでいる若者だった。


 生きていたい。


 帰りたい。


 大切な人に会いたい。


 その願いは、誰にも恥じるものではないはずだった。


 それなのに、彼らは、その願いを胸の奥に隠していなければならなかった。


 さとるは、目を閉じた。


 ――薫。


 もう一度、名前を呼んだ。


 心の中で、何度も。


 彼女が今どこにいるのか、さとるには分からない。


 自分が沖縄にいることを、彼女が知っているのかどうかさえ分からない。


 それでも、彼女の存在だけは、さとるの中から消えなかった。


その日の夕方、薫は料理人とともに、翌日の準備をしていた。


 手は動かしていたが、心は落ち着かなかった。


 昼に聞いた回天の話が、何度も頭の中によみがえる。


 すでに出撃した者がいる。


 その言葉が、薫の心を締めつけていた。


 さとるも、もう出撃してしまったのだろうか。


 それとも、まだどこかで訓練を続けているのだろうか。


 確かなことは何一つない。


 それなのに、不安だけが膨らんでいく。


 薫は、食器を置く手を止めた。


 料理人が気づいて、声をかけた。


「また考え込んでいるな」


 薫は、申し訳なさそうにうなずいた。


「今は、どうしようもないこともある。だが、何もできないと決めつけるな。明日になれば、何か分かるかもしれない」


 薫は、料理人を見つめた。


「俺も、できる範囲で情報を探してみる。ただし、無理なことはできない。おまえを守るためにも、俺自身が疑われるわけにはいかないからな」


 薫は、何度も深くうなずいた。


 彼が、自分のために危険を冒してくれていることは分かっていた。


 これ以上、無理をさせたくない。


 それでも、頼らなければならない。


 薫は、胸の前で両手を合わせ、深く頭を下げた。


「だから、礼はいいと言っただろう」


 料理人は苦笑した。


「明日も動くことになるかもしれない。今日は、少しでも眠れ」


 薫はうなずいた。


 けれど、その夜、すぐに眠ることはできなかった。


 目を閉じると、さとるの顔が浮かぶ。


 初めて出会った日のこと。


 高台で二人きりになったこと。


 戦争が終わったら、何をしたいかと話したこと。


 さとるが、自分の前でだけ見せてくれた、少し困ったような笑顔。


 どれも、忘れたくない思い出だった。


 けれど今は、それらがすべて、失ってしまうかもしれないものに思えてならなかった。


 薫は、暗闇の中で目を開けた。


「さとる……」


 小さく名前を呼ぶ。


 今度は、誰にも聞かれないように、ほんのかすかな声で。


「お願いだから、生きていて」


 涙が頬を伝った。


「私、ここまで来たよ。あなたに会いたくて、ここまで来たの」


 返事はない。


 船の音も、遠くで聞こえる人の声も、今の薫には遠く感じられた。


「だから……まだ、間に合ってほしい」


 薫は両手で顔を覆った。


 沖縄に着けば、すべてが変わると思っていた。


 けれど、ここに来ても、戦争は続いている。


 さとるの命が危険にさらされていることも、変わっていない。


 それでも、薫は諦めなかった。


 会えるかどうか分からない。


 いつ会えるのかも分からない。


 けれど、まだ会っていない。


 まだ、彼の顔を見ていない。


 だからこそ、諦めるわけにはいかなかった。


 薫は涙を拭い、ゆっくりと身体を起こした。


 明日、何か一つでも手がかりを見つける。


 さとるがどこにいるのか。


 どうすれば会えるのか。


 できることを探す。


 その決意だけを胸に抱き、薫は再び目を閉じた。


 同じ夜、さとるもまた、眠れずにいた。


 二人は同じ沖縄の空の下にいた。


 すぐそばにいるのかもしれない。


 けれど、互いの居場所を知らない二人の間には、戦争が作った見えない壁が立ちはだかっていた。


 その壁を越えて、二人が再び出会える日は来るのだろうか。


 薫は、まだ知らなかった。


 さとるもまた、知らなかった。


 ただ二人とも、同じ願いを胸に抱いていた。


 ――もう一度、会いたい。


 その願いだけが、暗い沖縄の夜の中で、消えずに残っていた



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