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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第五十五話 沖縄に降り立った薫

第五十五話 沖縄に降り立った薫


 船が大きく速度を落としたのは、昼を少し過ぎたころだった。


 それまで絶えず響いていた機関の音が変わり、船内を歩く兵士たちの足音が一斉に慌ただしくなった。


「到着の準備をしろ!」


 通路の向こうから、張り詰めた声が飛んできた。


 薫は、思わず持っていた布巾を握りしめた。


 沖縄に着く。


 とうとう、そのときが来たのだ。


 山口を離れてから、何度も心が折れそうになった。船に乗ることさえ許されないと思った日もあった。軍服を着て、短く切った髪を帽子の下に隠し、言葉を話せない者として振る舞いながら、何度も正体を見破られる恐怖に耐えてきた。


 そのすべてが、今、目の前の現実につながっている。


 沖縄。


 さとるがいるかもしれない場所。


 薫は、厨房の入口から外の様子をうかがおうとした。


「まだ出るな」


 すぐに料理人が声をかけた。


 薫は、はっとして振り返った。


「船が着いても、すぐに自由に動けるわけじゃない。兵士たちの荷物もあるし、乗組員の確認もある。おまえが勝手に動いたら、また誰かに呼び止められるぞ」


 薫は小さくうなずいた。


 分かっている。


 分かっているのに、気持ちばかりが先へ進んでしまう。


 港に降りれば、さとるを探せるかもしれない。


 彼がいる場所を知っている人に、尋ねることができるかもしれない。


 けれど、自分には名前を呼ぶことすらできない。


 声を出せば、今まで積み重ねてきた嘘が崩れてしまうかもしれなかった。


 薫は、唇をかみしめた。


「おまえの気持ちは分かる」


 料理人が、静かに言った。


「早く誰かに会いたいんだろう。だが、焦るな。ここで怪しまれたら、今までの苦労が水の泡になる」


 薫は顔を上げた。


 料理人の表情は真剣だった。


「俺が荷物を運ぶときは、おまえも手伝う。俺から離れるな。何か尋ねられたら、今までどおりにしていろ。分かったな」


 薫は、しっかりとうなずいた。


 そして、もう一度だけ、帽子のつばを指で押さえた。


 さとるに会うために、ここまで来た。


 ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


     *


 船が港に着くと、鈍い音とともに船体がわずかに揺れた。


 薫は、その瞬間、息を止めた。


 沖縄の陸地が、すぐそこにある。


 船の隙間から見える景色は、山口で見慣れた港とは違っていた。軍服姿の兵士たちが行き交い、荷物を運ぶ者たちが忙しく動いている。遠くには軍の施設らしき建物が見え、その周囲にも人影があった。


 空気には潮の匂いが満ちていた。


 それなのに、薫には、海の匂いを懐かしむ余裕さえなかった。


 ここが沖縄なのだ。


 さとるがいるかもしれない場所なのだ。


 薫の足が、自然と一歩前に出た。


「待て」


 料理人が、すぐに制した。


 薫は立ち止まった。


「先に荷物だ」


 料理人は周囲を確かめながら、必要な荷物をまとめ始めた。


 薫も言われたとおり、箱を持ち上げようとした。


 しかし、手に力が入らなかった。


 緊張で指先が冷たくなっている。


 箱の角が手のひらに食い込み、持ち上げた瞬間に少し傾いた。


「気をつけろ」


 料理人がすぐに片側を支えた。


 薫は、慌てて頭を下げた。


「焦らなくていい。ここまで来たんだ。最後まで落ち着いてやれ」


 その言葉に、薫は何度もうなずいた。


 二人で箱を運び、指定された場所へ向かう。


 船から降りるまでの短い距離が、途方もなく長く感じられた。


 足元を確かめる。


 周囲を見る。


 人とぶつからないように歩く。


 兵士の視線が向けられるたび、薫の心臓は跳ね上がった。


 自分の顔を見られているのではないか。


 歩き方が不自然なのではないか。


 声を出さないことを怪しまれているのではないか。


 そんな考えばかりが頭を巡った。


 ようやく地面に足を下ろしたとき、薫は、自分が息を詰めたまま歩いていたことに気づいた。


 沖縄の土を踏んでいる。


 船の上ではない。


 もう、山口から遠く離れた場所まで来てしまったのだ。


 薫はそっと足元を見た。


 自分の靴が、地面に触れている。


 それだけのことが、信じられなかった。


 ここまで来た。


 けれど、まだ何も終わっていない。


 さとるに会えていない。


 彼が生きているのかどうかも分からない。


 薫は顔を上げ、遠くの建物を見つめた。


 あのどこかに、彼につながる手がかりがあるのだろうか。


 そのとき、料理人が荷物を置き、薫の肩を軽くたたいた。


「まずは、仕事を済ませるぞ」


 薫は、現実に引き戻されたようにうなずいた。


     *


 港での作業は、思っていた以上に時間がかかった。


 運び込む荷物の確認が行われ、料理人は自分の仕事について説明を求められていた。


 薫は、そのそばで、目立たないように荷物を運んだ。


 誰かが近づけば、帽子のつばを下げる。


 話しかけられれば、首を傾けるか、うなずく。


 それ以上のことはしない。


 そう決めていても、緊張は少しも緩まなかった。


 やがて、一人の兵士が薫を見て足を止めた。


「そいつは何だ」


 薫の背筋が凍りついた。


 料理人が振り返る。


「私の手伝いです」


「手伝い? そんな者がいたか」


「船の責任者には話を通してあります。私が世話をすることになっている者です」


 兵士は薫をじっと見た。


「おい、おまえ。名前は」


 薫の喉が強く締めつけられた。


 声を出してはいけない。


 薫は、目を伏せて首を横に振った。


「何だ、聞こえないのか」


 兵士が一歩近づく。


 薫の指先が震えた。


 昨日のことが、頭の中によみがえる。


 問い詰められたときの声。


 逃げ場のない感覚。


 正体が露見するかもしれない恐怖。


 また同じことが起きている。


 薫は、思わず料理人の袖をつかみかけた。


 しかし、すぐに手を引っ込めた。


 助けを求めるような動きまで、不審に思われるかもしれない。


 料理人が一歩前に出た。


「申し訳ありません。この者は言葉を話すことができません。事情は責任者にも伝えてあります。私が面倒を見ることになっています」


「本当に話せないのか?」


「はい。私が責任を持ちます」


 兵士は、納得できない様子で薫を見つめていた。


 薫は、ただじっと立っていた。


 目をそらしたい。


 逃げ出したい。


 けれど、ここで動けば、かえって疑いを深めてしまう。


 何もできないまま、ただ時間が過ぎるのを待った。


 やがて兵士は、面倒そうに顔をそむけた。


「分かった。だが、勝手に動かすなよ」


「承知しました」


 兵士が去っていく。


 薫は、その場で小さく息を吐いた。


 身体から力が抜けそうになった。


 料理人が、周囲に聞こえない声で言った。


「よく我慢したな」


 薫は、思わず顔を上げた。


「怖かっただろう。だが、今のところは大丈夫だ。少し休め」


 薫は首を横に振った。


 まだ休むわけにはいかなかった。


 さとるを探さなければならない。


 けれど、料理人は薫の手元を見て、そっと荷物を取り上げた。


「その手では、また落とすぞ」


 薫は、自分の手が震えていることに気づいた。


 恥ずかしさと悔しさで、目が熱くなった。


 ここまで来たのに。


 沖縄に着いたのに。


 まだ、自分は何もできない。


 料理人は、薫が落ち着くまで何も言わなかった。


 その沈黙が、薫にはありがたかった。


 荷物の運搬が一段落したころ、料理人は薫を人目の少ない場所へ連れていった。


 港の喧騒から少し離れたところで、二人は立ち止まった。


「少しだけなら、ここで休んでもいい」


 薫は、遠くの海を見た。


 山口で何度も眺めた海と、つながっている海。


 あの高台で、さとると並んで見つめた海。


 同じ海なのに、今はまるで違うものに思えた。


 山口にいたころ、薫は海の向こうにさとるがいると思っていた。


 会いたくても会えない。


 どこにいるのか分からない。


 ただ、彼が生きていることを願うしかなかった。


 今は違う。


 自分は、彼がいるかもしれない土地に立っている。


 それなのに、彼の姿はどこにも見えない。


 手を伸ばせば届くような距離にいるのかもしれない。


 あるいは、ここから何日もかかるほど遠い場所にいるのかもしれない。


 薫は唇をかみしめた。


 料理人が、隣に立った。


「探したいんだろう」


 薫は、すぐにうなずいた。


「だが、俺も、おまえの会いたい人がどこにいるのかまでは知らない。港に着いたからといって、すぐに見つかるとは限らない」


 薫は、分かっているというようにうなずいた。


「まずは、俺の仕事を片づける。それから、どこまで動けるか考えよう。勝手に歩き回るのは危ない」


 薫は、料理人の顔を見つめた。


 彼は、最初に船へ乗せてもらったときから、ずっと自分を助けてくれている。


 しかし、彼にも立場がある。


 自分をかばうことで、余計な疑いを向けられるかもしれない。


 それでも、薫は彼に頼らなければならなかった。


 薫は、胸の前で両手を合わせ、深く頭を下げた。


「だから、礼はいいと言っているだろう」


 料理人は苦笑した。


「それより、腹は減っていないか。朝からろくに食べていないだろう」


 薫は少し迷ってから、うなずいた。


「よし。何か食べよう。倒れられたら、俺が困る」


 その言い方がおかしくて、薫はほんの少しだけ笑った。


 笑った瞬間、涙がこぼれそうになった。


 ずっと、怖かった。


 船の上でも、港でも、誰かに見られるたび、息が止まりそうだった。


 けれど、今、自分は沖縄の地面に立っている。


 ここまで来られた。


 その事実だけは、誰にも奪えなかった。


     *


 その日の夕方、薫はようやく、沖縄の土地に沈む夕日を見た。


 仕事を終えた料理人のそばを離れないようにしながら、ほんの短い時間だけ、海の見える場所に立つことができた。


 夕日は、赤く染まった雲の向こうへ沈もうとしていた。


 海面には光が細く伸び、その先はどこまでも続いている。


 薫は、目を細めた。


 この海の向こうに、さとるがいる。


 そう思うと、胸が苦しくなった。


 会いたい。


 今すぐにでも会いたい。


 名前を呼び、顔を見て、無事でいてくれたことを確かめたい。


 そして、もし彼が疲れ果てていたら、何も聞かずにそばにいたい。


 けれど、現実は、薫が思い描くようには進まなかった。


 彼を探す方法も、居場所を尋ねる相手も、まだ見つかっていない。


 自分の身分を明かすこともできない。


 ただ沖縄に着いただけで、さとるとの距離が縮まったとは限らないのだ。


 薫は、帽子のつばを握りしめた。


 そのとき、ふと、山口の高台での記憶がよみがえった。


 さとるは、海を見つめながら言った。


 戦争が終わったら、何をしたいか。


 二人で、どこへ行きたいか。


 その話をしていたとき、彼はほんの少しだけ笑っていた。


 その笑顔が、今も忘れられない。


 薫は、目を閉じた。


 ――さとる、私はここまで来たよ。


 心の中で、そう伝えた。


 届くはずがないと分かっていても、伝えずにはいられなかった。


 ――だから、お願い。生きていて。


 涙が一筋、頬を伝った。


 薫は、慌ててそれを拭いた。


 泣いている場合ではない。


 明日から、彼を探すためにできることを考えなければならない。


 今夜は料理人のそばにいて、余計な疑いを招かないようにする。


 焦らず、少しずつ、さとるにつながる手がかりを探す。


 どれだけ時間がかかっても、簡単には諦めない。


 薫は、夕日に向かって小さく頭を下げた。


 その横で、料理人は何も言わず、ただ静かに海を見つめていた。


     *


 同じころ、さとるは、別の場所で次の指示を待っていた。


 沖縄に来てから、海を見るたびに薫を思い出していた。


 彼女は今、どうしているだろう。


 山口で、いつものように家の手伝いをしているのだろうか。


 それとも、高台へ行って、海を見つめているのだろうか。


 さとるは、彼女が自分を待っている姿を想像した。


 胸が締めつけられた。


 帰れるかどうか分からない自分を、彼女は待ってくれている。


 そのことが嬉しくて、同時に苦しかった。


 自分は、彼女に何を残せるのだろう。


 約束もできない。


 未来を保証することもできない。


 ただ、彼女を思い、生きたいと願うことしかできなかった。


 さとるは、空を見上げた。


 夕方の風が頬を撫でていった。


「薫……」


 今度は、少しだけはっきりと名前を呼んだ。


 周囲には、誰もいなかった。


「会いたいよ」


 その声は、風に紛れて消えた。


 さとるは、まだ知らなかった。


 薫が、同じ沖縄の空の下にいることを。


 すぐに会えるとは限らない。


 互いの居場所を知る手がかりさえ、まだない。


 それでも、二人はもう、遠く離れた山口と沖縄にいるのではなかった。


 同じ土地の、どこかにいる。


 その事実が、二人の運命を少しずつ動かし始めていた。


 夕日は沈み、沖縄の空に夜が近づいていた。


 薫は、明日こそ何か手がかりを見つけたいと願った。


 さとるは、明日も生きていたいと願った。


 二人の願いは、まだ出会わないまま、同じ夜の中にあった。


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