第五十四話 沖縄を目前にして
第五十四話 沖縄を目前にして
夜が明ける少し前、薫は船の小さな揺れで目を覚ました。
最初に感じたのは、冷たさだった。
船内の空気は湿っていて、身を起こすと、軍服の袖が肌に張りつくように感じられた。身体の節々が痛い。慣れない船旅と、気を張り詰めた生活で、ろくに眠れていなかった。
それでも薫は、すぐに立ち上がった。
今日、沖縄に着くかもしれない。
そう思っただけで、眠気は消えてしまった。
薫は帽子を手に取り、短く切った髪が外へはみ出していないか、何度も確かめた。襟元を整え、軍服のボタンを留める。袖を引き、裾を押さえ、最後に帽子を深くかぶった。
鏡はない。
自分がどんな姿をしているのか、正確には分からなかった。
けれど、今の薫に必要なのは、女らしく見えないことだった。少しでも不自然なところがあれば、誰かの目に留まるかもしれない。
帽子のつばを下げる。
顔を上げすぎない。
声を出さない。
尋ねられたら、首を振るか、うなずく。
何度も頭の中で繰り返してきたことを、もう一度確かめた。
しかし、どれだけ準備しても、不安は消えなかった。
沖縄に着けば、軍人たちがさらに増えるだろう。港では船の到着を待つ者たちがいるかもしれない。乗組員の確認が行われるかもしれない。
その中で、自分だけが違う存在だと気づかれたら。
薫は唇を強く結んだ。
――大丈夫。
自分に言い聞かせようとした。
けれど、その言葉は胸の奥まで届かなかった。
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかったからだ。
男のふりをしていることも、言葉を話せない者として振る舞っていることも、すべて危うい嘘の上に成り立っている。
一つ間違えれば、船を降ろされるだけでは済まないかもしれない。
それでも、戻るつもりはなかった。
薫は帽子を押さえ、厨房へ向かった。
*
厨房では、料理人がすでに火を起こしていた。
鍋の中から湯気が立ち上り、床には食材の入った箱が並んでいる。料理人は薫を見ると、すぐにその顔色に気づいた。
「眠れなかったのか」
薫は一度うなずき、それから、少し迷って首を横に振った。
眠れなかったのは確かだ。
けれど、それだけではなかった。
怖くて、目を閉じることができなかった。
目を閉じれば、さとるの顔が浮かんだ。笑っている顔も、出撃を前にして苦しそうにしていた顔も、すべてが浮かんできた。
そして、次に目を開けたとき、彼がもうこの世にいないかもしれないという考えが、どうしても離れなかった。
料理人は、余計なことを尋ねなかった。
「まずはこれを飲め」
湯気の立つ器を差し出した。
薫は両手で受け取った。温かさが指先に伝わり、こわばっていた手が少しだけ緩んだ。
「今日は忙しくなるかもしれない。到着前後は、船の中も慌ただしくなる。俺が声をかけるまでは、勝手に動かないでくれ」
薫はうなずいた。
「それから、何があっても、焦って声を出さないことだ。周りが騒いでいても、誰かに急に尋ねられても、今までどおりにしていればいい」
その言葉を聞き、薫はうつむいた。
今までどおり。
それがどれほど難しいことか、料理人は分かっているのだろうか。
昨日、兵士に呼び止められたときの恐怖が、まだ身体に残っている。あの兵士の目が自分の顔を見つめた瞬間、すべてが見抜かれたような気がした。
もう一度同じことが起きたら、今度も冷静でいられるだろうか。
薫の指が、器の縁を強く握った。
料理人はその様子を見て、声を少し落とした。
「俺だって、何もかも上手くいくとは思っていない。だが、おまえが今ここで一人で考え込んでも、状況がよくなるわけじゃない」
薫は顔を上げた。
「何かあったら、俺のそばに来い。俺が気づける範囲なら、できるだけ助ける。だが、俺にもできることと、できないことがある。そのことだけは分かっていてくれ」
薫はゆっくりとうなずいた。
その言葉には、軽々しい約束がなかった。
絶対に守るとは言わない。
何があっても大丈夫だとも言わない。
それでも、できる限り助けると、まっすぐに伝えてくれた。
薫は器を置き、深く頭を下げた。
料理人は少し困ったように笑った。
「礼はいい。今は身体を温めておけ」
それから、いつものように鍋へ向き直った。
薫も手伝いを始めた。
食器を並べる。布巾を整える。使った道具を片づける。
目の前の作業に集中しようとしたが、手が止まるたびに、胸の中で同じ言葉が浮かんだ。
もうすぐ、沖縄。
もうすぐ、さとるのいる場所に近づく。
けれど、近づけば近づくほど、会えなかったときのことを考えてしまう。
会えなかったら。
さとるが別の場所へ移されていたら。
すでに出撃していたら。
その先の考えに進みそうになるたび、薫は必死に頭を振った。
今は考えない。
まだ、何も分からない。
生きているかもしれない。
会えるかもしれない。
その可能性まで、自分の手で消してしまいたくなかった。
*
午前中、船内の空気が変わった。
最初に気づいたのは、通路を歩く兵士たちの足音だった。
それまでは、一定のリズムで続いていた足音が、次第に速くなっていった。短い命令が飛び交い、誰かが荷物を移動させ、別の者が船の進行について報告している。
薫は厨房の入口で立ち止まった。
兵士の一人が、通りすがりに言った。
「沖縄が近いらしいぞ」
その言葉が耳に入った瞬間、薫の身体が固まった。
沖縄。
とうとう、その名が現実になろうとしている。
料理人がすぐに薫を振り返った。
「こっちへ来い」
薫は言われたとおり、厨房の内側へ戻った。
「今は、なるべく目立たないようにしていろ。外の様子を見に行きたくても、勝手に出るな」
薫はうなずいた。
だが、心はすでに厨房を離れていた。
沖縄の港。
そこに降り立つ兵士たち。
荷物を運ぶ人々。
自分がこれから目にする景色を想像せずにはいられなかった。
そして、そのどこかに、さとるへつながる道があるかもしれない。
薫は、自分の胸元に手を置いた。
心臓が速い。
落ち着こうとしても、呼吸が浅くなる。
料理人が鍋をかき混ぜながら言った。
「息をゆっくり吐け。肩に力が入りすぎている」
薫は、はっとした。
自分でも気づかないうちに、身体全体に力が入っていた。
息を吸い、ゆっくり吐く。
もう一度。
それでも、胸の鼓動は収まらなかった。
料理人は、薫の手元に目をやった。
「今のおまえに必要なのは、ここでできることを一つずつやることだ。港に着いた後のことは、まだ誰にも分からない」
薫はうなずいた。
「それに、沖縄に着いたからといって、すぐに会えるとは限らない。探す時間が必要になるかもしれない。思ったように動けないこともあるだろう」
薫の胸が、ずきりと痛んだ。
分かっている。
頭では、ずっと分かっていた。
それでも、心のどこかで、沖縄に着けばすべてが変わると思いたかった。
船を降りれば、さとるに会える。
名前を呼べば、振り返ってくれる。
あのときのように、自分を見つけてくれる。
そんな夢のようなことを、ずっと考えていた。
料理人の言葉は、その夢を壊すものではなかった。
ただ、現実を見失わないように、薫を支えてくれていた。
薫は、ゆっくりとうなずいた。
まずは、沖縄に着くこと。
そして、そこから、さとるを探すこと。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
同じころ、沖縄にいるさとるは、仲間たちとともに次の指示を待っていた。
艦内は、いつも以上に静かだった。
誰もが疲れていた。
訓練を続ける者も、道具を確認する者も、必要なことだけを話し、余計な言葉を口にしようとはしなかった。
さとるは、自分の手を見つめていた。
訓練で何度も使ってきた手だった。
その手で、これから何をするのか。
自分の命を預けることになる兵器の内部で、何を考えるのか。
出撃の瞬間、自分は何を思うのだろう。
国のため。
仲間のため。
そうした言葉を、さとるも何度も聞いてきた。
けれど、胸の奥から消えない思いは、もっと個人的なものだった。
死にたくない。
薫に会いたい。
彼女と生きていたい。
その願いは、訓練を重ねても消えなかった。
むしろ、沖縄に近づくほど、はっきりとした形になっていった。
さとるは顔を上げ、近くにいた仲間を見た。
「なあ」
「何だ」
「おまえは、帰ったら何がしたい」
仲間は、少し驚いたように目を向けた。
「急にどうした」
「いや……何となく聞きたくなったんだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて仲間は、視線を落とした。
「帰れるなら、家の飯が食いたいな。母さんの作った味噌汁を、腹いっぱい飲みたい」
その答えを聞いて、さとるは小さく笑った。
「そうか」
「おまえは」
尋ね返され、さとるはすぐに答えられなかった。
薫の顔が浮かんだからだ。
けれど、その名前をここで口にすることはできなかった。
さとるは、しばらく考えてから答えた。
「……好きな人に、会いたい」
仲間は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その短い返事の中に、さとるは何かを感じた。
誰にも言えない願いを抱えているのは、自分だけではない。
誰もが、それぞれの場所に帰りたいと思っている。
会いたい人がいる。
食べたいものがある。
やり残したことがある。
明日も生きていると、信じていたかった。
それなのに、彼らは、帰れるかどうか分からない場所にいる。
さとるは拳を握った。
生きたいという気持ちは、弱さなのだろうか。
そう考えるたび、胸が苦しくなる。
けれど、薫の顔を思い浮かべると、どうしても生きたいと思った。
彼女の隣に戻りたい。
あの高台で、もう一度海を見たい。
戦争のことを話さなくてもいい時間を、二人で過ごしたい。
さとるは、目を閉じた。
――薫、俺はまだ、生きたい。
誰にも聞こえない願いを、胸の中で繰り返した。
彼は知らなかった。
その薫が、同じ沖縄の海へ向かっていることを。
*
午後になると、船の揺れ方が変わった。
薫は厨房の壁に手をつき、身体を支えた。
船員たちの動きが、さらに忙しくなっている。
料理人は鍋の火を弱め、周囲を確認したあと、薫に目配せをした。
「もう少しだろう」
その一言に、薫の心臓が跳ねた。
もう少し。
何時間なのか、何分なのか、それさえ分からない。
けれど、ここまで来たのだ。
薫は壁から手を離し、背筋を伸ばした。
そのとき、通路の向こうから複数の兵士がやってきた。
「到着に備えろ」
短い命令が響いた。
薫は息を止めた。
いよいよなのだ。
料理人が薫のそばに立った。
「帽子を直せ。顔を上げすぎるな。俺が呼ぶまでは、ここにいろ」
薫は言われたとおり、帽子を整えた。
指が震えて、つばがうまく直せない。
料理人が手を伸ばし、ほんの少しだけ位置を直してくれた。
「大丈夫だ。ゆっくりでいい」
薫は、彼を見つめた。
言葉を話せないという嘘を抱えた自分を、ここまで守ってくれた人。
この人がいなければ、船に乗ることすらできなかったかもしれない。
薫は深く頭を下げた。
料理人は小さくうなずいた。
「礼は、全部終わってからでいい」
薫は顔を上げた。
船の外から、風の音が聞こえる。
遠くで、誰かが到着に備える指示を出していた。
もうすぐ、沖縄。
薫の胸には、恐怖と期待が入り混じっていた。
会えるかもしれない。
会えないかもしれない。
見つけてもらえるかもしれない。
見つけてもらえないかもしれない。
どちらを考えても、心が引き裂かれそうだった。
それでも、薫はここまで来た。
さとるに会いたいという願いだけを抱き、何度も怖さに立ち止まりそうになりながら、それでも一歩ずつ進んできた。
もう、山口の高台で泣いているだけの自分ではなかった。
薫は唇を結び、深く息を吸った。
そして、心の中で、さとるの名前を呼んだ。
――さとる。もうすぐ、あなたのいる海に着くよ。
その願いが届いたわけではない。
船の上にいる薫と、沖縄で任務を待つさとる。
二人は、まだ互いの居場所を知らなかった。
けれど、同じ海の近くにいる。
その事実だけが、二人をつなぐ細い糸のように残されていた。
船は、ゆっくりと沖縄へ向かって進んでいった。
薫がこれから目にする景色も、さとるを探す道のりも、まだ誰にも分からない。
そして、沖縄の海の向こうには、二人が思い描いていた未来とは違う、厳しい現実が待ち受けていた。




